川又千秋 火星人先史 目 次  第1章 前  夜  第2章 異  境  第3章 戦  線  第4章 連  帯  第5章 決  戦  第6章 神  話  第7章 栄  光  第1章 前  夜     1 ≪サウス・ベルト−10≫は、ここからゆるやかな長い上りにかかる。  軽くブレーキを踏んで、太陽車《ソラー・カー》の行脚をとめたノヴ・ノリスは、胸にさした蛍光ペンで、慎重にルート・マップにチェックを入れた。  地図のインフォメーションによれば、この先五度ほどの傾斜が百キロあまり続く。三馬力に満たない太陽機関《ソラー・モーター》に無理をさせるより、補機のエンジンで一気に峠《とうげ》まで駆け上がった方が、むしろ経済的というものだろう。  ノヴ・ノリスは天蓋《てんがい》のないコクピットからドアを跳びこえて軽々と車外に降り立った。地球の三分の一という引力が、彼にとっては何より快い。  大きく深呼吸した彼は、胸にかけたシャックルを使って、最大限に展張されている受光帆《ソラー・セール》を三分の一ほどに切りつめていった。出力の大きな補機でクルーズする場合、帆《セール》が空気抵抗によってもぎとられてしまうことがあるからだ。  手際よく作業を終えると、ノヴ・ノリスはコクピットから双眼鏡をとり出し、行手にただ一直線にのびる≪サウス・ベルト−10≫を見晴らした。  ここは火星南西象限、南緯十度、この半球を代表するアラムとコプラテス・ヨークの両都市を結ぶ、東西二万三千キロメートルに及ぶ幹線道路サウス・ベルト−10のちょうど中間付近にあたる。西経三十六度をすこし越えたあたりに違いなかった。 もっとも幹線とは名ばかりの、むきだしの整地路がサウス・ベルト−10の正体だ。実際、アラムを出発して丸二日間、ノヴ・ノリスは一台の地上車にも出会ってはいなかった。  荒れはてた、石ころと砂の赤い大地、そのそこここにひねこびた植物群落が、むしろシミのように不釣合いな色調で点々と拡《ひろ》がっていた。そして、その中央を、サウス・ベルト−10がただひたすら西へとのびている。火星第二の都市コプラテス・ヨークまで、あと千キロとすこし、順調に進んで三日の旅程だ。  と、ノヴ・ノリスの双眼鏡が、サウス・ベルト−10の路上を動く小さな点を見つけた。  一定しない速度で、それは西を目指して進んでいる。その動きは地上車とは思えない。生き物だ。  ノヴ・ノリスは距離測定リングをゆっくりと回していった。しかしうまく解像できない。路上に立ちのぼる陽炎《かげろう》が邪魔しているのだ。  ノヴ・ノリスは、帆《セール》をたたんで軽快な姿になった太陽車《ソラー・カー》に再び跳び乗った。  双眼鏡をコンソール・ボックスにしまいこみ、通信器のマイクを取り上げる。  目的の知らされていない偵察行ほどやりにくいものはない。ノヴ・ノリスは小さく舌打ちしながら送信スイッチを上げた。 〈サウス・ベルト−10を走破し、その途中で目撃するすべてを報告せよ。定時連絡は五時間おき、その他、活動する物体を目にした場合は即時報告のこと〉  ノヴ・ノリスが受けた指令は、これだけのものだ。何を偵察するのか、敵は何なのか、ノヴ・ノリスは一切知らされていないのだ。  幾度かスイッチを上げ下げした。  だが、応答はない。各バンドとも激しい空電に満たされている。  ノヴ・ノリスは、今度は声にだして悪態をつき、回線を衛星通信に切りかえてみる。だが、結果は同じだった。  そう言えば、何となく大気がざわめいて感じられた。あるいは高空を金属性の雲が通過しているのかもしれなかった。  ともかく、せっかくたくわえたエネルギーを通信器に食われたくはなかった。それでなくとも長旅では太陽《ソラー》バッテリーの効率が極端に落ちてくる。それを計算にいれて、今のうちにできるだけ余力をたくわえておかなくてはならないのだ。  ノヴ・ノリスは通信器の接続を絶ち、帆《セール》の回路を充電につなぐと、太陽車《ソラー・カー》の補機に点火した。  広大な荒野に地球製《ホーム・メイド》の強力なターボ・エンジンの咆吼《ほうこう》が拡散してゆく。これまで行程のほとんどを太陽機関《ソラー・エンジン》だけで走破できたために、今も燃料計の針は優に四分の三を越えている。  ノヴ・ノリスは一気にギアを入れて車をダッシュさせた。  ひゅうひゅうと風が受光帆《ソラー・セール》をかすめて鳴る。  まだらな荒野が次第に縞模様《しまもよう》となって、ノヴ・ノリスの視界を後方へと飛び去ってゆく。 (寒い土地だ)ノヴ・ノリスはゴーグルを顔に下ろしながらつぶやいた。 (早く任務を終えて、地球へ帰りたい……)実際、気が滅入《めい》る風景だった。希薄な大気が、地球の三分の一という低重力にもかかわらず、しばしばノヴ・ノリスをあえがせた。ことに高地へと向かう道では、いとも簡単に気圧が落ちる。  ノヴ・ノリスは慎重を期して、自動調節式の酸素マスクを口元にあてた。  少しスピードを上げると、舗装の不完全な悪路が身にこたえた。  低圧の六輪タイヤは、ガタガタと、大小さまざまの石や路面の陥没部を踏み続ける。  舌をかまないよう、ノヴ・ノリスは唇をしっかりとつぐんだ。  次第に、黒い点と見えた移動物が、はっきりした形をとりはじめる。 (ガルーだ)ノヴ・ノリスはゴーグルに薄く付着しはじめた砂塵《さじん》を左手のグローブで拭《ぬぐ》った。(しかし、こんなところを……いったいどこへ行こうというんだろう?)  時速百キロほどのスピードで、太陽車《ソラー・カー》は見る見るその影に近づいていった。  若い牡《おす》のカンガルーらしい。  しかし、かなり疲労しているらしく、その跳躍は不規則で、しかも一回に十メートルほどしか進まない。  地球のカンガルーは、ふつう体長の約五倍、つまり八メートル前後の距離を一回で跳ぶ。そして時速三十キロを越えるスピードで、中距離を走り抜く。それに対して、ここ火星に適応したカンガルーたちは、一回に十五メートル以上も跳躍し、時速五十キロ以上のスピードで約半日走り続けることもある、とノヴ・ノリスは資料で知っていた。  だが、いまノヴ・ノリスに先行する若いカンガルーは、数回弱々しく跳んでは太い尾で身体を支えて息をつき、そしてまた跳躍にとりかかるといった様子だ。  ノヴ・ノリスは、その背後に追いすがりながら、短くクラクンョンを叩《たた》いた。  ちょうど着地して尾を地上に下ろしたその牡は、ちらりと横目でノヴ・ノリスの車を認めたようだ。だが、すぐに頭を前方に向け、新たな跳躍にとりかかる。 (なんだい、無愛想な奴だ)  ノヴ・ノリスは三日ぶりに出会ったこの道づれに再びクラクションを浴びせ、ギアを落として一気にその横へ追いついた。さらにギアを下げ、カンガルーに速度を合わせる。  カンガルーの背には不格好な雑嚢《ざつのう》がしばりつけられていた。その開口部から突きだしている棒状のものは、あるいは銃身かもしれなかった。ノヴ・ノリスはやや緊張した思いで、腰につるした自分の武器を確認した。  ささやかれている武器商人の噂《うわさ》はやはり本当なのだろうか。しかし、あんな豆鉄砲の百丁や千丁が何かの脅威になるとは考えられなかった。だがノヴ・ノリスは一応任務を遂行すべく、片手で通信器のスイッチを入れた。しかし、また空電の雑音だ。中継基地との交信は途絶したままだ。 (まあいいさ、大したことじゃない。たかが逃亡ガルーを一匹見つけただけだ)ノヴ・ノリスはゴーグルの奥で眉《まゆ》をしかめた。  人間の入植地を逃れ出るカンガルーたちを、逃亡奴隷を真似《まね》て呼びはじめたのはいつの頃《ころ》からなのだろうか。しかし今では、そんな呼び方すら意味のないものとなってしまっていた。  今や都市の人間たちのほとんどは、カンガルーを生活のなかに置きたがらなくなり、むしろ積極的に荒野へと追いやるようにすらなっているという。  カンガルーの労働力を未《いま》だに必要としているのは、辺地の小農場くらいのものだろう。 「おい!」  受光帆《ソラー・セール》が風を切る耳ざわりな音に負けまいと、ノヴ・ノリスは声をはり上げた。 「おい、ガルー! だいぶ、まいってるようじゃないか!」  カンガルーは不意にノヴ・ノリスがどぎまぎするほど毅然《きぜん》たる顔つきで振り返った。  そしてまたしっかり前方に目を向けると、強い跳躍でたちまち十メートル以上先行してゆく。  ノヴ・ノリスは舌打ちするとエンジンをすさまじく咆吼させ、再びカンガルーの横に追いついた。 「ガルー! そうつれなくするなよ、俺《おれ》は地球人だ! 分るか、この惑星の者じゃない! どうだ、喉《のど》が渇いてるんだろう! そら、受けとれ!」  若いカンガルーの意志力に満ちた横顔を眺めるうち湧《わ》きあがってきた曖昧《あいまい》な劣等感を振り切るように、ノヴ・ノリスはコクピットのかたわらから水筒をとり出し、ひょいとカンガルーに放った。  カンガルーは一瞬足をとめ、器用に両手でそれを受けとめた。  ノヴ・ノリスもそれに合わせて車のギアを抜き、ブレーキを踏んだ。  水筒を手にしたまま、カンガルーは、しばらくの間、ノヴ・ノリスを疑いのまじった困惑顔で見つめている。 「飲めよ、ガルー。水なら、ここにまだたっぷり残っているんだ。長旅なんでね」  ノヴ・ノリスは後部座席の水タンクを片手でポンと叩いてみせた。  そして、あるいはまずいことを口にしたかもしれない、と頬《ほお》をこわばらせた。  もし水に飢えきったこのカンガルーの仲間があたりにひそんでいるとしたら、面倒なことも起こりかねない。ノヴ・ノリスは慌てて鋭い視線を四方に投げかけた。  しかし、赤茶けた一面の荒野に動くものは何もない。  ゆっくりとノヴ・ノリスはそのカンガルーに視線をもどした。  若いカンガルーの表情が、どこか柔らいだように見えた。長い骨ばった指で、カンガルーは水筒のキャップをはずすと、一瞬上目づかいにノヴ・ノリスをうかがって、思いもよらぬ素早さで水筒を口にあてた。音をたてて、たちまちそれを呑《の》み干す。 「うん、ガルー。もっと飲みたいなら……」と、ノヴ・ノリス。  カンガルーは急に生気のよみがえった表情で、空になった水筒をノヴ・ノリスに差し出した。そして、少しおずおずとした態度で、雑嚢のサイドポケットを探ると、干からびた皮製の水筒を無言のまま取り出した。 「よし、わかったよ、ガルー。それをこっちへ貸しな。今、水を入れてやろう」  ノヴ・ノリスはくしゃくしゃの皮袋を受け取り、水タンクの蛇口をひねってそれを満たしてやった。 「そら、ガルー」  カンガルーはぴくりと耳を立て、何か落ちつかなげにあたりを見回しながら水筒を受け取った。さらに、耳をせわしなく動かす。 「どうしたんだ、え? ガルー、どうしたんだ?」  ノヴ・ノリスの質問に答える風もなく、カンガルーはゆっくりと平原の一角に目を据えたようだ。 (……ん?)  ノヴ・ノリスは、コンソール・ボックスから双眼鏡を再びひっぱりだし、地平線近い荒野をその視野でなぜてゆく。 (野兎《のうさぎ》か? 野兎の群だ!)  肉眼でもかすかな砂塵が見てとれた。恐らく数百、いや数千の、野兎の大群が西の丘陵を目指しているのだ。  ノヴ・ノリスにもそれが分った。  というのも、火星の生物相は幼児でも充分に諳《そら》んずることができるほどに単純なものだからだ。  まず、第一に人間がいた。探険時代から五次にわたる大規模入植期を経て、十万に近い地球人がこの地に降り立った。今や、その四世代目にあたる子孫が誕生しつつあった。  そして、カンガルーがいた。地球のオーストラリアに特異なこの有袋類を最初に火星へ連れ込んだのはアメリカ人だった。彼等は複雑な遺伝子操作の果てに、ゴリラに匹敵する高知能の変異《ミユーテーシヨン》をカンガルーにもたらした。そして、極端なエネルギー不足に悩む初期の入植者に、単純労働力および緊急時のたんぱく資源として、このカンガルーを与えていったのだ。  人間を火星まで運ぶには、何と言っても莫大《ばくだい》なコストが必要だった。しかし、知能を高められ、前肢を自由に使えるとは言え、カンガルーの移送は、はるかに乱暴で安価な手段が可能だった。  訓練センターで一定数にまとめられたこれら新種のカンガルーは、ダース単位でコールド・スリープ装置にすし詰めにされ、コンテナごと火星に送りこまれたのである。  その損耗率は四十パーセントを越えた。しかし、そのこと自体は全く問題にはならなかった。なぜなら、解凍作業によっても息をふき返さないカンガルーの身体は、そのまま缶詰工場に直行させればよかったからだ。  そして、もう一種類の重要な生物は兎だった。この極度に繁殖率の高いたんぱく資源は、カンガルーと同じコンテナのいわばパッキングとして、コールド・スリープ装置の余ったスペースに無理矢理つめこまれて火星へ運ばれた。  極めて少数のペット動物も、人間といっしょに火星へ渡った。その他、実験的に数種の昆虫や、土壌改良のための多量のミミズなども持ち込まれてはいる。  しかし、この火星の風土にいち早く適応し、今や独自の生態系を築きつつある動物は、人間、カンガルー、そして兎だった。それが全《すべ》てだったのだ。  ノヴ・ノリスは双眼鏡を下ろした。 「何だろう? 何をあれほど慌てているんだろう?」彼はひとりごちた。 「砂嵐が、近い」音節ごとに奇妙に高低する声が、カンガルーの口から洩《も》れた。 「えっ?」ノヴ・ノリスはうろたえて聞き返した。「砂嵐がくるというのか」 「そう、だ」若いカンガルーは振り向きもせずに答えた。 「そんなはずは……予報では何も言っていなかったぞ」  ノヴ・ノリスは慌てて車の中へ手を突っ込み、再び通信器を乱暴に操作してみた。しかし、そこから流れ出るのは変わらぬ雑音ばかりだった。 「砂嵐がくる。夕刻から、大きい、砂嵐、だ」  カンガルーは、ようやくノヴ・ノリスの方に顔をめぐらした。その表情に、どこか、あふれる自信を見てとって、ノヴ・ノリスは背すじに嫌なものが這《は》い上るのを感じた。  惑星改造の初期には、数か月にわたって火星全域を微細な赤い塵《ちり》でおおいつくす大砂嵐が、植民者たちを幾度も窮地に追い込んだことがあった。  しかし、地球の気圧にして高度四千メートルに匹敵するほどまで改造が進んだ現在では、そうした惑星規模の砂嵐は次第に影をひそめるようになっていた。  だが、荒野の単独旅行者にとっては、未だにそれが致命的であり得る。  ノヴ・ノリスは、カンガルーの思わぬ断言をいぶかしみながらも、素早く掩蔽《えんぺい》キットを組み立てられる地形をあたりに探し求めた。 「いや、だめだ」まるでノヴ・ノリスの考えを読んだかのように、カンガルーが口を開いた。「ここでは、だめだ。あのメドルまで、行かなくては、だめだ」 「な、なにが駄目だと言うんだ」いささかむきになってノヴ・ノリスが聞き返す。 「砂嵐は、大きい。平地では、だめだ」 「メドルとか言ったな? 何のことだ、それは」自信にあふれるカンガルーの断定口調を繰り返されるうちに、ノヴ・ノリスは、いつしか自分が、全く予備知識もなしに未知の惑星へ降り立った異邦人にしか過ぎないような、おかしな崩壊感にさらされはじめていた。 「メドルとは、あの、丘の、名前だ」とカンガルーは細い前肢で西南の方角を指さした。  野兎の大群が目指しているあたりだ。  そこは、この火星独特の、まだ風化があまり進んでいない巨岩地帯で、大きいもので高さ二十メートルにも及ぶ尖塔《せんとう》を思わせる岩が、まるで林のように立らならんでいる一角だった。 「メドルだって?」ノヴ・ノリスは車のなかからロード・マップをひきずり出す。そしてその地点を指で探した。 「ガルー、それはまちがいだ。あの岩のころがっている丘は、ムーア丘陵という名前だぜ」一本とったつもりで、ノヴ・ノリスは地図をカンガルーに示した。  だが若いカンガルーは皮肉ともとれる表情で、地図を見ようともしない。 「あの丘は、メドル、という、名だ。我々は、そう、呼ぶ」 「我々、だって……」ノヴ・ノリスは一瞬絶句した。(我々?……我々はそう呼ぶ、だと?……)  何かおかしな具合だった。火星のカンガルー、通称ガルーは、新しいタイプの奴隷ではなかったのか? 少なくとも地球ではそう説明されているし、ノヴ・ノリスが三日過ごしたアラムの街でも、ガルーたちは清掃作業や荷物の運搬などを、ただ命ぜられるままに行なう存在にしか過ぎなかった。だが、今眼前にいるこのガルーは、目の輝きからして街のガルーとは全く別種の生き物に見えた。 「そうだ、地球の人。我々は、あの丘を、メドルと呼ぶのだ」若いカンガルーが、にやりと笑ったように、ノヴ・ノリスには見えた。     2 「どうも、あなたの言われていることが理解できませんな」と大きな円卓を指先で絶え間なく叩きながら、マルク・ゴゼイ少将が苛立《いらだ》った声で切り返した。 「この南西象限の小さな町で暴動が起こったことは知っていますよ、市長。名前こそグレート・シカゴなどという大げさなものだが、たかだか四百人の住民しかいない、そんな町の出来事でしょう。どうして、それほど深刻に考えなくてはならないんですか、え? なぜそんなことで、人類が火星から撤退しなくちゃならないんです! わたしにはそこの所が、全くもって理解できませんな」  ようやく四十に手が届いたばかりの若い将官マルク・ゴゼイは、精一杯のうんざりした表情で、正面に並ぶコプラテス・ヨーク市長や火星総督代理をねめまわした。 「申し上げました通り、シカゴの暴動は人間が起こしたものじゃないんです。ガルーが、ガルーの集団が夜間いっせいにあの街を襲撃したんですよ、少将」  冷汗を拭いながらコプラテス・ヨークの警備担当次官が発言する。 「そうです、そこがポイントなんです。ガルーたちが人間を襲ったのですよ、少将」  市長が目を落ちつきなく上げ下げしながら、あとを続けた。 「だから、それがどうしたと言うんですか、市長」  マルク・ゴゼイは机をひとつ叩いて立ち上がった。 「いいですか、市長。あなたのご先祖は、アメリカ人でしょう。あなたはアメリカの歴史をご存知ないんですか? いや、アメリカに限らずどこの国でもいい。野放しにされた奴隷が暴動を企て、元の主人に反抗する。こんなことはあたり前のことなんだ。いいですか? ガルー共だって生き物だ。姿かっこうはカンガルーだが、猿並みの知能は持っているんですぞ。それを野放しにしておいて、いざ一回か二回不穏な動きがあると、そら火星から撤退だ、などと騒ぎだす。そんな馬鹿《ばか》な話がありますか!」  いささか芝居がかった仕草で、マルク・ゴゼイは、どすんと席に腰を落とした。 「いったい、皆さんは、どうなすったんです? 植民者としての誇りは、いや、新時代の人類、火星人としての気概はどこへ行ってしまったんですか!」  マルク・ゴゼイは�火星人�という言葉に力をこめた。そうなのだ、彼等は火星人なのだ。最早や、地球の大重力下では生きられない、別種の人類なのだ、とマルク・ゴゼイは自分の胸で繰り返した。  この市長たちは、おそらく火星で生まれた最初の世代だろう。そして、若い次官クラスはすでに第三世代かも知れない。  地球人に比べて、すでに身体的特徴も顕著になりはじめている。  ぬけるように青白い肌、そしてどことなくひ弱な印象の残る長身……。 「確かに……確かに、少将が言われることも当然だと思います。我々が、ガルーどもを野放しにしたのは、確かによくなかった。しかし、それだけでは収まらない問題だと申し上げたい。彼等ガルーは、もはや昔のガルーではなくなりつつあるのです」  総督代理と名のる美しい銀髪の男が、甲高《かんだか》い声で発言した。 「シカゴの事件は、ほんの前兆です。わたしたち、火星で生活している者にはそれが分かるんです」  男は小さなこぶしを震わせながら、ほとんど叫ぶように言い放った。 「ともかく、ちょっとしばらく休憩をいただきたい」  マルク・ゴゼイは手元のファイルを大きな音をたてて閉じた。 「地球からの長い旅の疲れが、どうも抜けきらんのですよ、諸君。それと、この薄い大気……いいですか、皆さんにぜひ心していただきたいことがある。ここは、地球ではない。火星です。そしてあなたたちはこの惑星を支配する種族、唯一最高の霊長類、同じ人類でありながら、もはや地球人とは違う存在に到達した宇宙民族、火星人なのですぞ。そのことを、もう一度よく考えていただぎたい」  そう言って、マルク・ゴゼイは立ち上がった。 「少将、聞いてください、我々は火星人にはなれない……」 「また、一時間後に話しましょう、諸君」  発言しようとするひとりにかまわず、マルク・ゴゼイはファイルをとり上げて入口に向かい歩きだした。 「わたし自身、整理してみたい問題もありましてね。実は独自に情報収集の手段も講じている。その報告がそろそろ届く頃なんですよ」  副官をしたがえて、マルク・ゴゼイは、火星の軽い重力に思わず躍るような足どりになるのを気にしながら、ホールの扉に近づいた。 「少将、独自の情報収集と申されますと? 空中偵察は二日前に打ち切られたのでは?」市長が腰を浮かして、マルク・ゴゼイの背中に問いかけた。  立ち去ろうとするゴゼイはその質問に立ちどまり、「それは、後程のお楽しみというところですな」と振り返りもせずに答えて、廊下の奥へ消えた。  ホールは一瞬静まり返り、すぐに、いっそう不安気なざわめきに満たされていった。     3  まるで赤いフィルターをかけたように、空が見る見る変色してゆく。  ノヴ・ノリスは、太陽車《ソラー・カー》の防塵カヴァーを点検し直し、そこからバッテリ端子だけをテントに引き込んだ。  危ういところで作業は完了しそうだった。  若いガルーに導かれるまま、ノヴ・ノリスは車を荒野に乗り入れ、彼等が言う所のメドル、即ちムーア丘陵の巨岩地帯へとひた走った。  そこで大きな衝立《ついたて》に似た岩を見つけ、対砂嵐用ユニットを大急ぎで組み立てた。ガルーと出会った時から、すでに二時間半ほどが過ぎ、陽もかなり傾きはじめている。  これまで静かだったあたりの岩が、次第に強まる前触れの風に、妙に音楽的な音をたてはじめていた。 「まったくだ、ガルー。おまえさんのおかげで、どうやら命びろいできそうだ」  この気温にもかかわらず吹きだしてくる大つぶの汗をシャツで拭いながら、ノヴ・ノリスは、手伝うでもなく様子を見守るカンガルーに話しかけた。 「いや、これで、あいこさ。乾きから救ってくれた、お礼だ」  カンガルーは、ゆっくりと首をたてに振った。 「それはそうと、おまえさんは一体どうするつもりなんだ、ガルー。まさか、そこに突っ立って一夜を明かす気じゃないだろう」  ノヴ・ノリスはすっかり赤く染まった空を不安気に見上げながら言った。 「わたしのことなら、心配は、ない。砂嵐を、どうしのぐか、我々は、よく知っている」 「ほお? そうかね」とノリス。 「岩の風下に、穴を、掘る。そして、その中に入って、砂を、かぶる。あとは、嵐が終るのを、待つ」  カンガルーは、そう言って、またうなずいた。 「そりゃあ、あんまり居心地のいい方法じゃないぜ、ガルー。ここへ入れよ、ちょっと狭いが、穴の中よりは相当ましだぜ」  ノヴ・ノリスは笑いながら、完成した防塵テントにカンガルーを誘った。 (とんだ、ロビンソン・クルーソーだ)とノヴ・ノリスは心のなかで笑った。(ただし、俺の連れは、カンガルーか。こいつは地球へいいみやげ話ができたってもんだ) 「さあ、ガルー、遠慮することはない。ここへ入んな」  ノヴ・ノリスは決心しかねて耳を神経質に動かすカンガルーを手でさし招いた。 「ひとつ、教えたい。わたしの名は、ガルーではない。ガラ、ガラというのが、わたしの名だ」突然、カンガルーは低い声でそう名乗った。 「いや、これは失礼したなあ、ガラ、わたしの名前はノヴ・ノリス。地球人だ。火星の荒野を旅して見るのが俺の夢だったんだ、それがこうしてかなった。しかも、危ない所をおまえさんに助けられた。ありがとう、ガラ。さあ、ここへ入ってくれ」  ガラと名のるそのカンガルーは、ノヴ・ノリスのあけっぴろげな笑声に、ようやく心を許したらしい。  ぎごちない二足歩行で、ゆっくりとテントに踏み入った。 「それにしても、言っちゃ悪いがガルーとガラでは余り違いはないな」  テントの入口を密閉しながらノヴ・ノリスは何気なく笑った。 「いや、違う。まったく、違う」思いがけぬ強い口調でガラがそれに反撥《はんぱつ》した。「ガラとは、一族が、わたしに与えた、唯一の、名前。ガルーとは、違う、まったく、違う!」 「分かったよ、悪かった、ガラ。俺のことはノリスと呼んでくれ」  肩をすくめてノヴ・ノリスはガラに謝り、太陽車《ソラー・カー》から引き込んだコードの先に照明用のランプを灯《とも》した。エア・コンディショニングのスイッチも入れる。 「ところで、ガラ。あんたひとりで、一体どこまで行くつもりだったんだい」床に敷物を拡げながら、ノヴ・ノリスが訊《き》いた。「水筒もからからに干上ってたじゃないか。もうずいぶん遠くから来たんだろう?」  ガラはちょっと考え込むように視線をテントの天井に向けた。 「そうだ、地球人ノリス。わたしは、遠くから、来た」 「で、どこへ行くんだ。何なら途中まで車で送って行けないこともないぜ」とノリス。 「いや、ことわる」ガラはきっぱりと言い放った。 「そうかい、そうかい、じゃあ、勝手にしな」気分を害して、ノヴ・ノリスはごろりと敷物の上に横になり、持ち込んだ食料のパッケージをほどきはじめた。 「いや、これは失礼した、ノリス。わたしは、まだ、これから、西へ、行く。実は、ここへ来る途中、給水を予定していた貯水池が、干上って、しまっていたのだ。それで、あの場所で、渇きに、苦しめられていた」  ガラは、素直にそう謝った。 「そういうわけか。しかし、こんな荒野に貯水池があるなんて話は知らなかったぜ」とノヴ・ノリス。 「そうだ、人間は知らない。それに、その池を、見つけることもできない。池は、地下に隠されている。池は、我々がつくった、我々のものだ」  ガラの目が、また誇らし気に輝いた。 「ほお! 我々の池か……」ノヴ・ノリスはぼんやりとあいづちを打った。何かが、奇妙だった。 (一体、この火星はどうなっているのだろう? 偵察とは、彼等ガルーを探れという意味だったのだろうか?)ともかく、彼は、何も知らされないままに、たた荒野へと送り出されたのだ。 「ところで、ガラ。西へ行くと言ったな? 俺もこのまま、西へ行くのさ。知ってるだろう? コプラテス・ヨーク、大きな街らしい。そこが俺の目的地だ」  ガラがぴくりと耳を動かした。 「そう、あの道はコプラテス・ヨークに、通じている」 「見たことがあるのかい、コプラテス・ヨークを?」食料のパックをあれこれ探りながら、ノヴ・ノリスが訊いた。 「いや、ノリス。わたしは見たことがない」素気《そつけ》なくガラは答えた。 「そうかい……ところで、俺はそろそろ食事にしたいんだがね、おまえさんも食えそうなものがあったら自由にとってくれ。まあ、今日は半日つぶされてしまったが、コプラテス・ヨークまで、どう遅れても、あと四日だ。食料は、それなのに十四日分はたっぷりあるんだ。少しここで減らして、車を軽くしてやりたい」  草食のはずのガルーが、はたして人間のパック食品を気に入るかどうかは分らなかったが、ともかくもノリスは、食料の袋をガラの前に広げた。 「いや、わたしもわたしの分の食料は持っている。ただ、水だけはもう少しもらいたい。分けてもらえるだろうか?」  ガラは自分が背負っていた、ぼろのように見える雑嚢を示し、目を上げた。 「ああ、いいとも。こっちの水タンクはまだ充分だ。好きなだけ飲んでくれ。もっとも風呂《ふろ》をつかわれるのは困るが、ははは」意味もなくノヴ・ノリスは笑った。 「風呂というのを、わたしは、知っている」ガラがぽつんとそう言った。「わたしも以前、人間の下で、働いていた」 「ん?」ノヴ・ノリスはパックを開く手をとめて、ガラの顔を見返した。 「で、そこから逃げてきたというわけかい、ガラ。いや、いや、そんなこと俺には何の関係もないことだ。火星には火星の流儀があるさ。地球人の俺には関係ない」慌ててノヴ・ノリスは首をふった。  ガラの雑嚢からはみ出ている銃身らしきものが、またノリスの目にとまったからだ。 「そうじゃない、わたしは、逃げてきたんじゃないよ、ノリス」案に相違して、ガラは柔らかに答えた。 「わたしは、追い出された。もう、何年も前のことだ。この荒野には、すでに大勢の仲間が、暮らしている、が、逃げてきた仲間など、余りいないね。みんな、追い出されて、やってきたのさ」 「どういうことなんだ、その追い出されるというのは?」  食料パックのなかから冷えた缶ビールをとり出してプル・トップに指をかけながら、ノヴ・ノリスは訊いた。 「我々の、ずっと昔の祖先は、確かに人間にとって有用だったんだろう。人間のやりたくない仕事や力仕事を、我々がすべて肩がわりしていた時代が、あったのだ」  なにかを振り返るようなまなざしで、ガラは語りはじめた。 「だが、植民地が次第に安定し、それと、これも重要なことだが、我々を食料としなくとも、もっと味のいい兎たちが大量に繁殖しはじめてからというもの、人間は、我々がだんだん目ざわりに思えてきたらしい」 「目ざわりに?」  ビールを口にふくみなから、ノリスはガラの意外な饒舌《じようぜつ》に驚きはじめていた。(こいつは、ただのカンガルーじゃない! じゃあ一体、こいつは、何だ!?) 「そういうことだ。人間たちは、地球を遠く離れ、しかも新しい世代に変わっても、やはり地球人だった。同じように手が使え、片言を喋《しやべ》る、しかも体格的に優るような相手と、同じ場所で暮らすことに、耐えられなくなってきたのだ」 「そういうものかい……」ノヴ・ノリスはつとめて無関心を装いながら、ガラの話に耳を傾けていたが、思いついたように身体を起こす。 「そうだ、ガラ。こいつを知っているかい?」ノリスは、パックの中から、缶に入ったビールをもう一本とりだした。 「ビールだ。飲むと気分が良くなる、まあ、旨《うま》い飲み物だ」ノヴ・ノリスは、それをガラに差し出しながら、自分の片手に握っている缶から、ぐいとひと口、呑み干してみせた。 「知っているとも、ノリス。わたしも好きだ。ただ、我々がビールを手に入れるチャンスは、非常に少ない」  ガラは気軽な様子で、ビールを受けとった。そして今度は、「では、わたしも食べてもらいたいものがある」と自分の雑嚢をかきまわしはじめた。 「おい、おい、ガラ。悪いが俺は菜食主義者じゃないんだ。気持ちはありがたいが、おまえの食い物は、余り口にあわないような気がする……」ノヴ・ノリスは苦笑しながら、ガラを制して言った。 「いや、いや、これならきっと気に入ってもらえると思う」そう言いながら、ガラは、何かの植物の繊維で編んだ籠《かご》のようなものを探しだして、ノヴ・ノリスの前に置いた。そして、蓋《ふた》をとった。 「あっ! なんだ、これは、燻製《くんせい》じゃないか?」  それは程良い褐色にいぶされた、何かの腿肉《ももにく》だ。いや、何かのなどと考える必要もない、それは確かに野兎の腿肉の燻製だ。 「何だい、ガラ……どうしてそんなものを持ち歩いてるんだ?」不確かな疑惑が、にわかにその燻製によって、ひとつの形をとりはじめたように、ノヴ・ノリスには感じられた。 「どうして、と言ったね、ノリス。もちろん、これは、わたしの旅行のための、保存食だ。大丈夫、調理は万全だ。きっと口にあうと思う」平然とガラが言った。 「いや、そんなことじゃないよ」ノヴ・ノリスは思わずテントの中で坐《すわ》り直す。「ガラ、いつからおまえたちは動物の肉を食うようになったんだ? つまり、ガルーは狩りもするというわけなのか?」  ガラの顔が何か奇怪なものに変貌《へんぼう》してゆくような幻覚に、ノリスはとらわれていた。  テントの外では、ようやく激しさを増した砂嵐の咆吼が、あるいは近く、遠く、地鳴りに似た震動ですべてを呑みこもうとしはじめていた。  テントの梁《はり》からつられたランプが、二度三度、弱々しく瞬《またた》いた。それがいっそう、ガラの姿を怪物のように浮かびあがらせた。 「ノリス、我々は何でも食う。つまり、雑食だ。火星へやってきた我々の仲間は、一世代ごと、一世代ごと、ますますこの土地に馴染《なじ》んでゆくんだ。自分たちですら信じられないほど、我々に、この火星の風土は適していたんだ。そう言える」  ごおっ、とすさまじい音で、石塔かどこかで倒れた。  しかし、ノヴ・ノリスはそれを怖れる以上の怖れに、今|捉《とら》われていた。  ガラも、荒れ狂う砂嵐を全く気にとめていないように見えた。  土地を知り抜いている者のしたたかな落ち着きを誇示するかのように、ガラはゆっくりとビールを口に含み、そしてこんがりと褐色を呈する腿肉の燻製を歯で噛《か》みちぎった。     4 「どう思う、パット? あの市長たちは、何にあれほど怯《おび》えてるんだ?」  マルク・ゴゼイは若い副官を振り返って、神経質そうに眉を上げた。 「まるで話の脈絡が掴《つか》めん。我々地球の植民センターが苦心の末に作りあげて、彼等に与えた�食用労働力�を、勝手に都市から追い払い、そいつらが、今度は食い物欲しさに小さな町を襲ったからといっては、やれ火星から撤退だ、プロジェクトの中止だ、と騒ぎたてる。どういうつもりなんだ」  マルク・ゴゼイは半分ひとり言のように、副官パトリック・ブロードを相手につぶやいた。 「何か、重要なことを彼等が隠しているとしか思えませんね」  ゴゼイのための飲み物を用意しながら、パットが応じた。 「核心となるべき問題を、明らかに彼等は黙っている。だから、全体の脈絡が我々には掴めないのでしょう。しかし、いつかは彼等もそれを話さざるを得なくなるのでは?」  ブロードは火星産の肉桂《シナモン》で香りをつけた濃い紅茶をゴゼイの前に置いた。 「そうなんだ、パット。目下の問題は、いつ彼等がそれを喋る気になるか、ということだ……」ゴゼイは深い息を吐きながら、熱い茶をすすった。 「……なあ、パット。わしは、どうも嫌な予感がする。彼等が早く、すべてを話してくれないと、何もかもが手遅れになるような、そんな気が……」ゴゼイはまた、いい香りのするティーカップをとり上げた。 「ご心配には及びませんよ、少将。だってそうではありませんか、相手は、何がどうあれ、カンガルーなんですから」  ブロードの声はあくまで快活だ。 「しかし、彼等の知能はゴリラ以上だと言うからな。それに、いまいましい武器の密売人がいる。つまらん薬草とひきかえに、旧式の武器をガルーたちに渡していたそうだ。まるで、白人とインディアンじゃないか」  マルク・ゴゼイは最後のひと口を、顔をしかめて飲みこんだ。 「しかし、二日間にわたって、あれだけ空中偵察を繰り返して何も見つからなかったではありませんか、少将。あの市長たちは、ガルーが大規模な盗賊団、それも軍隊式の集団をつくりつつあるなどと怖れていましたが、少なくとも偵察機は、多くて十匹単位の見すぼらしい小集団しか報告していません」  ブロードは自分のティーカップを手にして、マルク・ゴゼイのかたわらに腰を下ろした。 「少将、思うのですが、わたしは彼等の極端な罪悪意識が、ガルーに対するこれも極端な被害妄想となって現われていると感じました」 「罪悪意識?」マルク・ゴゼイが目を上げた。 「そうですとも、少将。現在はともあれ、ついこの間まで、彼等はガルーたちを主要なたんぱく源として珍重していたわけでしょう。はっきり言えば、毎日の食卓で食べ続けてきたわけだ。ところが、そのガルーは、牛や豚と違って、感情表現のはっきりした、言わば知性ある動物だ。なかには片言の会話ができるやつすらいる。そんな相手を長年にわたって食い続けたら、いつか心理的反動がやってきますよ。彼等は今、ちょうどその時期を迎えているんじゃないでしょうか」 「うむ……」マルク・ゴゼイは静かに目を閉じて、溜息《ためいき》をついた。 「あるいは……君の言う通りかもしれない……」ゴゼイは、またゆっくりと目蓋《まぶた》をひらき、休憩室の窓外に目を転じた。官庁舎の八階にあたるこの部屋から、南へとゆるやかにのびるコプラテス・ヨークの住宅街が一望のもとに見てとれた。 (あまりにも……あまりにも、地球的過ぎる光景だ)とマルク・ゴゼイは苦々しい思いでそれを眺めた。(ここは火星なんだ。地球ではない。それが、彼等には分かっていないんだ。それこそが、問題なんだ)  ただ写真を見せられただけでは、アメリカ中西部のどこかの小都市と見分けがつかない街並だった。  生存のための闘いが一段落した時、地球人たちがこの火星で最初に始めたことは、自分たちの街を故郷の街々に似せることだった。 (そして彼等は、目ざわりなガルーを都市から追い払ったんだ……)  日が大きく傾いて、窓の影が長く室内にのびていた。  マルク・ゴゼイは物思いから覚め、かたわらのパットを振り返った。 「そうだ、パット。そろそろ偵察隊の報告が集まっているはずだろう」  それは数日前、マルク・ゴゼイ自らが、この火星派遣隊の一部をさいて各地に放った単身偵察車のことだった。  ゴゼイは市長たちにも、それを知らせていなかった。  それに加えて、出発する隊員に、ゴゼイは何の状況説明も、指示も与えてはいなかった。  マルク・ゴゼイは、何よりも生の情報が欲しかった。  妙な先入感を抱いて、この事態を分析して欲しくはなかったのだ。  火星の主要路を中心に、十八方面へ全二十八車の単身偵察隊が放たれていた。隊員をひとりとしたのも、相手に余計な警戒心を起こさせまいという心づかいからだった。  そして何者かに誰何《すいか》されたなら、地球からの旅行者だとすぐ答えるよう命じていた。単独の異邦人ほど、相手に弱々しい印象を与えるものもないだろう、マルク・ゴゼイは考えたのだ。  すでに出発から三日目になっていた。彼等は正確に各地の情勢をこの本部、または火星近傍を巡航している部隊の旗艦にレポートし続けていた。  しかし、これまでの所、その全てはひどく単調な旅行記にしか過ぎず、ゴゼイの注意をひくような報告はひとつとしてなかった。 「それが、少将……」ブロードは届けられた偵察隊関係のファイルを整理しながら、その眉を曇らせた。 「この南西象限北方では、今、かなり大規模な砂嵐が発生中、とあります。もうじき、ここコプラテス・ヨークもすっぽり砂の雲におおわれてしまうらしく、そのために、サウス・ベルト−10や30、ベルト−44などを西進中の各車とは通信が途絶しています」 「ほお……?」かすかな不安がマルク・ゴゼイの顔を横切った。「大丈夫なのかな、そんな砂嵐と遭遇して……」 「ええ。もちろん危険はある程度考えられますが、各車とも火星で調達した防塵ユニットを完備させていますから」とブロード。 「それならいいが……」 「……北西、北東象限の報告は、おおむね、昨日と変わりありません。順調に、予定路を踏破中とあります。ただ……」ブロードの声が、驚きの響きを帯びた。 「どうしたね、パット」 「ひとつ気になるのがまじっています。北西象限を北から南へ下っている第十七偵察員なのですが……」 「ナイルの湖からクリュセ地区を通って、このコプラテス・ヨークへ向かっている隊員だろう?」とマルク・ゴゼイ。 「その通りです、少将。十七号は今日クリュセ平原の中央部に達しているのですが、そのあたりもすでに砂嵐の影響圏に入っているらしく、報告も空電に邪魔されて正確ではありませんが……」 「どうしたと言うんだ」 「少将。十七号は、どうもガルーたちの大部隊と接触したと見られます。これは旗艦が傍受した通信なのですか、ひどい雑音のなかで、十七号が、ガルーの大部隊発見、接敵行動中、といった意味のことを叫んでいたそうです」 「接敵だと?」ゴゼイの眉がぴくりと動いた。 「いや、少将。これは正確なものではありません。砂嵐が発生すると、もうその半球の通信はズタズタになるのが火星の通例です。これは単に、そのように聞こえた、という報告です。その証拠に、この直後、大きな雑音が入り、十七号からの通信は完全に途絶したそうです。回復の見込みはありません……」  パトリック・ブロードはなおも、南東象限の似たような報告を続けて読みあげていった。ここも南西部では砂嵐の影響が激しいらしい。  ただ、他方面で、何の理由もなしに連絡を絶っている偵察員三名がいた。あるいは単なる通信器の故障かも知れない。しかし、少なくとも昨日まで、そのような事故は一件も発生していなかったのだ。 「どうも、悪い日になりそうだ……」マルク・ゴゼイはつぶやいた。 「ええ、夕刻過ぎからは、会議どころじゃなくなるんじゃないですか?」ゴゼイの言葉を、あくまで天候の感想と思いこんで、ブロードは笑みを浮かべながら、それに応えた。 「少将、それに副官。会議室におこし下さい。市長以下全員が、再開を希望しておられます」扉の外から、若い従卒の声が響く。 「うぐぐ……」動物のような息を吐いて、マルク・ゴゼイは立ち上った。 「急がねばならんかも知れない。これは、単なるわしの予感だ、パット。いいか、残留部隊に一級武装を命じておけ!」思いがけないほど鋭い声が、一瞬後、ゴゼイの口をついて出た。     5 「我々の成長は地球人より早い。世代もそれだけ早く交代してゆく……」  少量のビールで、ガラは急速に気持ちをなごませているようだった。 「……そうなんだよ、ノリス。我々はそうやって、新しい世代が生まれるたびに、どんどんこの火星に適応してゆくんだ。それが、どんな気持ちか分かるかい? 歓喜だよ! ノリス、とてつもない、歓喜なんだ!」  ガラの声が、これまで以上に聞きとりにくい、独特のイントネーションを帯びはじめていた。  いや、それだけではない。確かに、ガラの喋る言葉は地球人の言語なのだが、個々の単語のニュアンスが微妙にかけ離れているような印象をノヴ・ノリスは受けた。彼等はすでに自分たちだけの言語を持ちはじめている、とノリスは感じたのだ。 「だが、ガラ。適応と言えば、この火星に植民した人間だって同じだろう。この火星で生まれた火星人と俺たちを比べれば、もう明らかに姿かたちが違ってきているぜ。そうだろう、ガラ」  一瞬、ガラの目が冷えた。 「火星人だ? あの人間どもが、火星人だと言うのか!」ガラはむしろ驚いたように訊き返してきた。 「ん?」ノリスはとまどって、手のなかのビールの缶をゆっくり握りつぶした。「何だい、ガラ。あの人間どももクソもない。この火星には、もともと何の生き物も住んじゃいなかったんだ。そこへ人間が乗り込んできて、惑星改造のプロジェクトをはじめた。水と酸素を少しずつ増やしてゆき、植物も持ちこんだ。この火星は脱出速度が地球の三分の一しかない。だから、大気はどんどん宇宙に逃げてゆく。それを、改造システムが全開でおぎなっているわけだ。分かるか、ガラ。それをやったのは、みんな人間だ。そして、そこに街を作った。火星で生まれ、育った世代がもう人口の大半だ。彼等は立派な火星人じゃないかね?」  わけの分からない焦りに追いかけられて、ノヴ・ノリスは一気に喋った。そして、大きく息をついた。 「我々は地球でカンガルーと呼ばれていた生物の子孫だ」まるで、夢見るような視線を宙にさまよわせながら、再びガラが話しはじめた。 「我々の故郷は、もともと旱魃《かんばつ》の多い、干からびた土地だったと言う。だが、我々の先祖はそれを苦にすることなく生き続けていた。なぜか? それは我々がそうした土地で生きることに長《た》けていたからだ。そうした土地の主人となるべく運命づけられていたからだ」 「何が言いたいんだ、ガラ。確かに、おまえたちガルーは、この火星の苛酷《かこく》な荒野で、信じられないほど巧みに生きている。言葉も上手だ。肉食の習慣も身につけた。狩りもするだろう。だが、望んでそうしたわけではないだろう? 人間が、あるいは酷《むご》いことを、おまえたちに強いた結果にすぎないじゃないか」  ガラはまだ視線をさまよわせたまま、何かに耳を澄ましてでもいるように、時々首をめぐらしている。 「ガラ、悪いが、俺は少し眠るよ。もう旅も三日目だ。身体が痛くてたまらん」  ノヴ・ノリスは、突然の深い疲労を覚えて、ごろりと腕枕で横になった。  激しく吹きすさぶ砂嵐に、ランプは幾度もチラチラと明滅を繰り返す。テントの外は、すでに、まったくの闇《やみ》にとざされていた。 「ノリス……」  目を閉じたノリスに、ガラが歌うような調子で呼びかけてきた。 「ノリス……」 「ん? 何だい」目を開くのがノリスには億劫《おつくう》だった。そのままの姿勢で、彼は声だけをガラに返した。 「地球で最後のカンガルーが死んだ日を知っているか……」ガラの声は、あくまで歌うようだ。 「知らんよ。それにカンガルーなら、オーストラリアにも、世界中の動物園にも、いくらでもいるだろう……」  だが、それは嘘《うそ》だった。ノヴ・ノリスは、以前何かのニュースで、地球上に残る本物のカンガルーが、ほんの数つがいにまで減少していることを聞いたおぼえがあったのだ。 「ちがうね、ノリス。地球には、もうカンガルーは一匹も残っていない。我々は皆それを知っている。さあ、ノリス、地球から最後のカンガルーが姿を消したのはいつのことか、言ってくれ」  妙にしつこいガラの追求に、ノヴ・ノリスは少し腹を立てた。 「知らんと言ってるだろう。本物のカンガルーの数が減少しているとは聞いたことがあるが、全滅した話など、俺は知らん。少し黙って俺を眠らせてくれ、なあ、ガラ」 「ノリス、知らないのも無理はないな」ガラが忍び笑いに似たおかしな声をたてた。 「知らんよ、俺は……」あくびまじりでノヴ・ノリスがつぶやく。 「教えようか、ノリス。それは、ついさっきのことだ。地球で、最後のカンガルーが死んだ」  また歌うような調子にもどって、ガラが言った。 「何を馬鹿なことを言ってる……ガラ、酔っ払ったんじゃないだろうな」  だが、ノヴ・ノリスの言葉を全く意に介さず、ガラは歌うように続けるのだった。 「そう、ついさっきのことだ。地球で、最後のカンガルーが死んだ。もう、地球にカンガルーはいない……そして、その子孫は皆、残らず、この星、火星にいる……カンガルーの子孫は、ひとり残らず、火星にいる……」 「分かった、分かった。ガラ、水なら、そっちのタンクだ」ノヴ・ノリスは、寝返りを打って、次第に早い口調で喋り続けるガラの声を遠ざけた。 「……もう、我々は、カンガルーの子供ではない……我々は我々だ……我々は運命の土地をここに見つけた……運命の土地は我々の土地だ……いまや最後のカンガルーは死んだ……地球はもはや、我々の土地じゃない……地球は地球人のための土地だ……そして火星は、火星人のための土地だ……今や火星は、我々火星人のための土地だ……」  際限なく、まるで呪文《じゆもん》のようにガラのひとり言は続いていた。眠りに入ろうとするノヴ・ノリスの頭に、その断片が、いくつか鋭く突きささって聞こえた。 (……地球はもはや、我々の土地じゃない……今や火星は、我々火星人のための土地だ……)  心のなかで警戒信号が鳴り響いた。  ノヴ・ノリスは無我夢中で、のしかかろうとする影を突きとばした。     6 「こうなると、もう誰《だれ》もこの庁舎から出られません」軽食を用意したテーブルに、マルク・ゴゼイを案内しながらコプラテス・ヨーク市長が説明した。 「もちろん、一部には地下街もあって、砂嵐の最中でも、ある程度の交通はできるようにしてあるのですが、それも、これだけひどい嵐では使えんのですよ。今日は、地下道もすべて防塵シャッターを下ろしたはずです」  まるで迫りくる不安を忘れようとするかのように、市長は喋り続けている。  だが、ゴゼイにはそれか苛立たしい。  市長は、いや、ここに集まっている�火星人�たちは何かを隠している。彼等の言動やふるまいを観察するにつれ、マルク・ゴゼイにはその確信が強まっていった。 (早く、その情報をこちらに渡してくれなくてはとり返しのつかんことになるぞ)とゴゼイは、湧きあがる嫌な予感に耐えきれず、そっと悪態をついた。 「しかし、これほどの砂嵐が来るというのに、予報ひとつ出なかったのは、どういうことですかな、市長」  市長と並んで食事をつまみなから、マルク・ゴゼイがそれとなく不信を述べた。 「ああ、そのことですか、少将。いや、よくあるのですよ。昔に比べて小規模になったとはいえ、火星の砂嵐の突発性だけは少しも変わりませんので……」市長は力なく笑った。 「しかし、砂嵐が近付くと、大気の性質や、電波の空中状態が著しく乱れるというではないですか。そういうものを、もう少し早く察知できないのでしょうか」ゴゼイはなおも食い下った。  黙っていれば市長がひとりで喋り続けるだけだ。それなら、こちらからも少々喋っておかなくては、疲れるばかりだ、とマルク・ゴゼイは決心したのだ。 「それが、最近、地上測候所のいくつかが事故に遭いまして。活動を停止している局が多いんです。それで、どうしても予報が遅れがちになっているんですよ」と市長。 「事故、ですか?」 「ええ、まあ……修理のための人員をなかなか募りづらくて、それでそのままになっているのですが……」 (なぜだ、なぜ人員が募れないのだろうか?)  マルク・ゴゼイの胸に、また暗い予兆が走った。 (偵察隊は、この砂嵐のなかで、どうしているだろう?)彼はふと、闇にとざされた荒野にひそむ幾人もの隊員を思って身震いした。 「ところで、少将。あなたは先程、何か独自の調査を行っているとほのめかしておいでだったが……」  いつの間にか市長の後に立った総督代理が、デザートの皿をゴゼイに差し出した。 「ええ、確かに」ゴゼイはそれを断り、テーブルから東洋風のお茶をとり上げた。 「もう、お話ししてもいいでしょう。はじめは、どうも市長に反対されそうな気がして黙っていたのですが、実は、わたしは部下を使って各地に偵察を出しているのですよ」 「何ですって!? 偵察隊を……」市長が目をむいて絶句した。 「いや、いや、ご心配には及びません。偵察隊などという大げさなものではなく、各々単身で二十八名、主に幹線路沿いにパトロールに出したのですよ」  しかし、ゴゼイの言葉に、市長や総督代理の顔は見る見る蒼《あお》ざめていった。 「どうしたんです、皆さん。心配はありませんよ。彼等は武器といっても拳銃《けんじゆう》くらいしか身に帯びていません。また、何かあった場合は、地球から来たただの旅行者だと名乗るよう命令を受けています。それにこれまでの所、彼等からこれといった異常事態は何ひとつ報告されていない。ご安心下さい。この火星は、今日も平和です」  マルク・ゴゼイは嘘をついた。とにかく、彼等の怯えようはひと通りではない。もしパトロールのひとりが、ガルーの大部隊を発見したらしいなどと報告したら、それこそどんな狂態を示すか分らない。 「し、しかし、もし、偵察隊が彼等を刺激するようなことがあると……」市長がおろおろ声で、総督代理の腕にすがりついた。 「彼等? 彼等ですって、市長? 彼等とはガルーのことでしょう? なぜ、それほどガルーを怖れるんですか。たかが、猿の脳ミソを持ったカンガルーですよ、市長」  思わず大声で、ゴゼイは市長に食ってかかった。 「いや、少将。あなたは火星の方ではない。だから、分からないんですよ。あなたには、分からないんだ……」負けずに市長も怒鳴り返した。  一瞬、会食場が静まり返り、そしてざわめきがふたりを包んで拡がった。 「まあ、まあ、市長。興奮しないでいただきたい。いいですか、地球の軍隊に、助力を依頼なすったのは、あなた方�火星人�なのですよ。だから、わたしはこうして一億キロ近い宇宙を飛んでやってきた。部隊は精鋭ぞろいです。皆、局地戦のベテランばかりです。さあ、ご安心なさい、市長」マルク・ゴゼイは、しっかりと市長の手をとった。 「だが、わたしにはまだ分からないことが多すぎる。それは事実だ。しかし、なぜ分からないかと言えば、それはあなた方が、我々に重大な隠し事をしているからだ!」  ゴゼイは市長の腕を握ったまま、そうきめつけた。 「か、隠し事……」 「そうですよ、市長。我々はここへやってきた。するとあなたたちは、ガルーが暴動を準備しているので、もうこの火星を維持できない、すぐに撤退したい、などと言いだす。せっかくここまで来た惑星改造プロジェクトを打ち切って、もう一度火星を死の星にもどそうなどと言いだす」 「いや、何も、そこまでは……」市長は怯えきった目で、ゴゼイを見つめている。「わたしはもはや、人間の手ではこの火星を管理できそうもない、と……」 「同じことじゃないですか、市長。どうして、できない、などと弱音を吐くんです。あなた方は、もう地球人じゃないんだ。れっきとした�火星人�なのですよ。もし力が必要なら、我々地球は全力を挙げて、あなた方を応援します。武器が必要なら、持ってもきましょう。兵隊が要りようなら、血の気の多い連中を連れてきましょう。わたしは、そう言っているんです。だが、あくまでも、火星はあなたたちの星だ。あなたたち火星人の土地だ。あなたたちは、自分たちの星の運命を自分たちで切り拓く権利と義務があるはずだ」  だが、腕を掴まれたままの市長は、ただ怖いものを見る目でマルク・ゴゼイを見返すばかりだ。 「さあ、市長! 何があるんです、この火星で一体何が起こっているんですか? それを話しなさい、すべてをわたしに隠さずに教えるんです!」  思わず知らず、マルク・ゴゼイは市長を乱暴にゆさぶっていた。副官が慌ててとめに入らなければ、いつまでもその拷問に似た演説を続けていたに違いなかった。  その時である。  会食場に息を切らした制服姿の男が転がるように駆け込んできた。 「市長ーっ! ゴルジアにいる総督から、ケーブル通信です! 最優先電信です!」  市長の身体が、前にもまして硬直したように見えた。  その電文に手をのばす勇気すら失せてしまっているらしい。  マルク・ゴゼイはたまりかねて、手をのばし、制服の男からひったくるように公用紙を取り上げた。  小さく声に出して、それを読む。 「……本日、地球時間の十二月四日、午前三時、オーストラリア、シドニー動物園において、地球最後の一匹と思われている牡《おす》のカンガルーが死亡。地球からカンガルーという種は消滅した……」  読み終えて、マルク・ゴゼイは顔を上げ、会場を見回した。  水を打ったような静寂が、そこにあった。 「いったい、これが何だというんだ。カンガルーなら、この火星に棄てるほどいるじゃないか、諸君!」ゴゼイが叫んだ。     7 「我々には分かっていたんだ、ノリス。我々こそが、火星人となるべく運命づけられた種族だということが……」  ガラは、まるで幼児に言いきかせる大人のように、ゆっくりひと言、ひと言を発音した。 「あの都市に住む地球人は、いつまでたっても、何世代が交代しようと、地球人にしか過ぎないことを、我々は見抜いていたんだ……」  やや、おさまりかけたとは言え、嵐の轟音《ごうおん》はまだあたりを満たしていた。  しかし、夜明けが近づいているのだろうか、テントの外には、かすかながら薄明がたゆたって見える。 「地球人には地球がある。だが、我々には我々のための土地がない。人間は地球に帰ることができるけれど、我々にはその理由がない……」  細い旧式の銃口を喉元に突きつけられたまま、ノヴ・ノリスは身動きひとつできずにいる。 「そして、今日、我々は全ての意味において火星人となった。我々は、いつか、この象徴的な日がやってくることを、予見していた。そして、その日を待っていた……」 「だが……いいか、ガラ……この火星の、この環境をつくりだしたのは人間だぞ。そして、おまえたちをこの惑星へ連れてきたのも、皆人間のやったことだ。それを忘れるつもりか!」こわばった両腕で身体を支えたなり、ノリスは精一杯の反撃を試みた。 「ほんとうに、そうかね? 我々がそれを望み、我々が人間にそれを命じたとは考えられないかね」面白がる者の表情が、ガラの顔にはあった。 「それだけじゃない。有袋類の下等な生き物だったおまえたちの遺伝子を操作して、ちょっとはましなアタマに仕上げてやったのは、一体、誰だ? 人間じゃないか!」  ノヴ・ノリスは、すでに死を覚悟していた。その瞬間から、彼の口は、思いきった言葉を次々に吐きだすことができるようになっていた。 「ノリス……それもこれも、我々の運命の神が、人間にそう命じた結果ではないのかね?」  ガラは、ノリスの挑発に少しものってくる様子がなかった。それどころか、内からあふれ出る自信に、その表情はますます豊かさを増してくるようにさえ、ノリスには見えた。 「ノリス……聞きなさい。この火星には何十万人もの人間が住んでいる。だが、彼等の思いは、ただひたすら、地球と同じ生活が送りたい、この火星を一年でも早く地球と同じにしたい、ただ、それだけだ。だが、我々は違う。我々は一日一日、一刻一刻、この火星そのものに馴染《なじ》んでゆく。火星人そのものに育ってゆく……分かるか、ノリス。勝負はついている」  ノヴ・ノリスは、次第にガラの目を見返す力を失ってゆく自分に気づいていた。 「だが、今はいいさ。もし人間がこの火星から撤退するようなことになって、あの惑星改造システムが停止したとしたら、質量の小さなこの星は、何十年と経たないうちに、もとの死の世界にもどってしまうんだぞ。そのことを考えたことはあるのか、ガルーたちは?」  ガラはゆっくりとうなずいた。 「もし、今、この瞬間にシステムが破壊されたとしても、火星は死なない」 「どうして、そんなことが分かる?」 「我々はそのくらいのことは直感で分かる。火星の本当の自然を知ろうとしない地球人には分からないだろう……すでに、火星の植物がつくりだす酸素は、均衡点に達している。だからシステムがあろうがなかろうが、もはや火星の環境は過去へと逆もどりすることはない。火星は、我々の火星は、すでに完成されているのだ。我々火星人は、それを知っている。この日を、我々は待っていたのだ。そして今日、我々は、我々の星の本当の主人が誰なのかを、人間たちに教えるのだ」  ノヴ・ノリスは、がくりと全身の力を抜いた。彼には、この事件の全体像がはっきりとは理解できなかったけれども、兵士の直感が、勝敗の行方を敏感に悟っていたのだ。 「で、俺を一体どうするつもりだ」つぶやくように、ノリスは問いかけた。 「何も……」素気なく、ガラは答えた。「地球人は地球へ帰ればよかろう」 「しかし、他の、この火星に住みついている人間たちはどうなるんだ」  うめくようにノリスは言い返した。  火星に散らばる大小さまざまな植民都市で今一体何が起こっているのか、ノリスには想像できるような気がした。  そしてこの時はじめて、ノリスは自分に与えられた偵察任務の目的が理解できた。遅すぎた。ノリスの理解が遅かったのではなく、その命令が遅すぎたのだ。 「地球人は知らないだろうが、我々はこの日の来ることを、ずっと以前からはっきりと見つめていた。我々は幾度も代表を送り、総督や各主要都市の市長に我々の確信を告げた。だが、彼等は一切の話し合いを拒絶した。彼等とて馬鹿ではない。この火星で、人間と我々のどちらが真に支配的な種族なのかを彼等は見抜いたのだ。そして怖れ、怯え、その事実を認めまいとした。そこで我々は、ある小都市に対して警告を与えた。すると、彼等はすぐさま、母星、地球に泣きついた。そして、君たちがやってきた」  ノヴ・ノリスは我が耳を疑った。 「何だって!? じゃあ、おまえは、俺が何者かを知っていたと言うのか?」 「その通りだ。わたしがここで足止めを食わしている間に、我々の部隊はコプラテス・ヨークに向かった」 「なんてことだ……」ノリスは頭をかきむしった。 「我々は、我々の星を我が物としている。無用な混乱を招くことなしに、すべてを実行したかっただけだ」 「実行? それは何だ! この火星で、人間を皆殺しにするつもりなのか!」ノヴ・ノリスはたまらず震えだす全身にかまわず、ガラに食い下がった。「一体、その部隊とやらは、何を実行するつもりなんだ!」 「我々は殺戮《さつりく》を好まない。だから、できれば地球の軍隊に乗り込んで欲しくなかった。だが、その兵士も、現在、ほとんどがコプラテス・ヨークにいる。しかも地球人は、この砂嵐のなかを出歩けない。大丈夫だ。我々は、火星人だ。火星は、真の火星人によって支配されるべきなのた。我々はただ、この事実を伝えに行くだけだ。ただそれだけだ」  ガラは、自分に言いきかせるように、幾度もうなずいた。ノヴ・ノリスは、ガラの銃を奪い、逆襲に転ずる機会を何度か見つけながら、ついに、その身体を動かそうとはしなかった。  何故なら、彼は地球人であり、ここは、彼にとって、どうしようもなく遠い異邦だったからだ。そして、今、ここに生起している問題は、その異邦の見知らぬ種族たちの問題なのだ、とノヴ・ノリスは悟ったのだ。彼には、そこに介入するどんな資格もなかったのだ。  日がすでに顔を出したのであろう。  テントの外で荒れ狂う砂が、血のように赤い複雑な影を、ガラとノリスの顔に躍らせていた。     8  庁舎を囲んでいっせいに湧き起こった激しい銃声は、しかし、それほど長くは続かなかった。  マルク・ゴゼイの部下たちは、砂嵐の中で戦闘どころではなく、わけも分らぬまま、次々に武装解除されてしまったからだ。  憤懣《ふんまん》やる方なく、顔面を朱に染めているマルク・ゴゼイ少将を除けば、そこに集まっている市や政庁の要人たちは、不思議なほど冷静さをとりもどしつつあった。  誰もが、全てが終ったことを暗黙のうちに了解しあっていたからだ。  長い沈黙が続いた。  やがて、ホールの扉が正確に二度、ノックされた。  そっと腰のホルスターに手をのばそうとしたマルク・ゴゼイは、強い力でそれを押しとどめられた。副官のパトリック・ブロードだった。彼はこわばった笑顔を、左右に振ってささやいた。 「少将、これは、我々の問題じゃありません。火星人どうしの問題です。彼等にまかせるべきです」  マルク・ゴゼイは荒い息を吐いて、ブロードの目をのぞきこんだ。 「分ったよ、パット。言う通りだ……」ゴゼイは肩を大きく落として立ちつくした。  再び、ホールの扉が二度鳴った。 「お入りなさい」  ゴゼイはその時、はじめて確固たる市長の声を聞いた。それは凜《りん》として、ホールの空気を貫いた。  扉が左右に大きく開かれた。  そこには、六人の火星人が立っていた。  彼等は皆、丸腰だった。野兎の毛皮を貼《は》り合わせて作ったらしい粗末な外套を身にまとっている。  彼等が踏み出すたびに、その身体から細かい砂が流れ落ちた。それは、赤茶けた火星の荒野の砂塵だった。  中央のひとりが、その太い尾で、バンと床を打った。 「我々は、地球人の家畜だった。地球人の食料だった」ぶっきらぼうに、火星人はそう切り出した。 「何故なら、地球は地球人の支配する惑星であり、その植民地もまた地球人のものだったからだ」  太い尾が、また振り下ろされた。  マルク・ゴゼイはびくり、と背を震わせた。しかし、他の要人たちは魅入られたように、身じろぎひとつせず、その言葉に聞き入っている。 「だが、いまや、火星は、火星人の惑星となった。火星の運命は、火星人が担うべきである。我々はその義務を遂行する。諸君、火星人によって支配される生物としてこの土地にとどまるか、あるいは、地球人としてその故郷へ帰還するか、諸君はそのどちらの途も選ぶことができる。ただし、我々はこの火星において、火星人以外の知的生物と共存する意志は持っていない。ひとつの惑星は、ひとつの種によって支配されるべきだと我々は地球人によって教えられた。我々は、だから、この惑星を支配する。我々は火星人であり、我々はこの土地以外に住むことはない」  マルク・ゴゼイは、一歩前に出た。彼には全てがようやく理解できたのだ。彼はうなずくと、火星人に呼びかけた。 「わたしは地球人の一代表として、今後とも末永く、火星人との友好的な親善、外交関係を望むものである。地球人と火星人は一致協力して、この宇宙に……」  パン、とひときわ高く、火星人の尾が鳴らされた。 「我々はいかなる交流も望まない。火星は火星人だけの土地だ。この土地にいるかぎり、火星人以外の生物は、すべて家畜だ。我々は火星人以外の生物と、友誼《ゆうぎ》を結ばない」  火星人はくるりと一同に背を向け、誇らし気に太い尾をひと振りすると、ぎごちない二本の足で、未来へと向けて歩み出した。  第2章 異  境     1  炎に包まれている今でさえ、総督府ゴルジアの気品あるたたずまいは、それなりの美しさを保ち続けていると言えた。  植民地《コロニアル》風の白い瀟洒《しようしや》な家並を、もしその部分だけ切り離して眺めたとしたなら、まるでそれは何世紀か昔のアメリカ南部を再現した映画のセットのようにも見えたことだろう。  実際、それはひどくノスタルジックな錯覚を誘う光景だった。  しかし、その余りに地球的な建築物の一角から、さらに視界を拡げてゆくならば、そんな感傷は一挙に吹きとんでしまう。  それほど、周囲に果てしなく続く赤い大地の荒々しさはすさまじかった。  すぐ後方には、火星有数の高峰ゴルジーが、地球人の常識を楽々とくつがえす雄大な姿で、はるか上空二万メートルの高みにその頂きをそびえたたせていた。それだけでも充分だった。  そのふもと、夢のように繊細な総督府ゴルジアの街並は、その美しさのために余りにも儚《はかな》いものに見えた。  まるで狂気の画家が一瞬の正気の間に描きとめでもしたような、とてつもないアンバランスの中の均整美——  そのゴルジアは、今、炎の中にあった。  この圧倒的な異境にあって、最も地球的なもののひとつが燃え落ちようとしていたのだ。  再び、総督府の中央部で、小爆発が連続した。  ばらばらと文字通り跳ぶように街路を駆け抜ける黒い影が見てとれた。  勝ち誇ったガルーたちは、ついに総督府を完全に制圧し終え、掃討戦に転じていた。  爆発で巻き上げられた赤い細かな砂塵とともに、強烈な無煙火薬のにおいが吹き寄せられてくる。ノヴ・ノリスは、慌ててゴーグルをヘルメットから下ろし、息をつめて、これをやりすごした。  握りしめている短針カービンの精密な銃口には、もうびっしりと磁気性の砂鉄がこびりついてしまっている。戦闘開始数時間で、全く使いものにならなくなるウェポン・システムを平気で送りつけてくる地球の用兵者たちを、ノリスは心底憎悪した。  だが、今は何を思っても遅かった。  彼の小隊は、ゴルジアの街はずれ五百メートルほどの岩場で、完全に孤立していたのだ。  そこは、ゴルジアの東端からはじまるタルシスの複雑な渓谷の入口にあたった。  しかし、すでに渓谷の奥深くまで、ガルーの追撃隊が展開しており、しかも眼前では彼等の本隊が本格的な破壊作戦を開始している。  退くことも、進むことも、少なくとも今の状況では不可能だった。  いや、むしろ、この岩場がつくった天然の塹壕《ざんごう》にもぐりこみ、現在まで敵をやりすごし続けていられることの方が奇跡に近かった。  その狭い窪みには、生きのびた六人の空挺《くうてい》隊員が、目ばかりを光らせてただうずくまっていた。  と、上空を横切る影に、六人の目がいっせいに吸い寄せられた。 「おい、攻撃機だぞ!」誰かが短く叫んだ。  あとの五人は声にならない歓声を上げる。  それは一機の対地無人襲撃機だった。  翼下のパイロンに、各種のロケット・ランチャーを鈴なりに吊《つ》っている。機首のターレットからも、ものものしい砲口がのぞいていた。  襲撃機は滑るように頭上を通過すると、大きく弧を描いてゴルジアの上空を旋回した。  チトヌス湖周辺まで後退した大隊から発進したものであろう。だが、それも確かなことは分からなかった。  四分五裂してゴルジアから撤退した総督府防衛大隊は、今も完全な混乱状態にあるらしかったからだ。  ノヴ・ノリスたち空挺部隊には、今、正式な司令部がどこにあるのかも掴めてはいなかった。  ガルーとの初めての正面きっての決戦で、地球からの派遣軍は、完全な総くずれの状態で敗走した。  総督府ゴルジアをめぐるこの攻防の終盤近く、無謀としか言いようのない特攻作戦によって投入されたのが、ノリスたちの空挺部隊だった。  しかも、すでに防衛大隊はゴルジアから遠く撤退しており、敵の真只中《まつただなか》に降下した二個中隊は、まるで戦闘とも呼べないような混乱の中で分断され、各個に撃破されていった。  ちりぢりに敗走したいくつかの小部隊が、かろうじてタルシスの渓谷に逃げ込みはしたものの、それを追ってガルーたちの掃討部隊もまた、多数渓谷に突入して行くのをノリスたちは目撃していた。  だから、彼等の運命を楽観する者は一人もいなかった。そしてノリスたち六人のうち、自らの運命を楽観している人間も誰ひとりとしていなかった。  すでに戦闘は終結していた。  後は、敗残兵が本隊まで逃げかえることができるか、あるいは敵に殲滅《せんめつ》されるか、という処理の問題が残されているだけだった。  退路を絶たれ、しかも敵の本隊を眼前にしているノリスたちにとって、この処理の行方は苦く悲痛なものだった。  そこへ出現した一縷《いちる》の望みが、上空の無人襲撃機だったのである。  これが何かの前触れであってくれればいい……大隊がせめて救出作戦なりとも敢行しようとする伏線であってほしい……と、岩陰の六人は一様に祈った。 「ガント! 大隊司令部とのコンタクトはまだ回復しないのか」  ノヴ・ノリスは背後の通信兵に鋭く呼びかけた。しかし、目だけはゴルジアとその上空をうかがうペリスコープから離さない。 「駄目です、小隊長。かろうじて受信は各バンドとも聞き分けていますが、こちらの発信を向こうでキャッチしている様子はありません」  不必要なほど声を落として、通信兵のガントが報告する。 「その後、何か情報はないか。あの襲撃機は一体何なんだ! 接敵面は、今どこに移動しているんだ!」  古参の砲手ナギが、苛立って若いガントに八つ当りしている。 「先程傍受した味方の交信によれば、タルシス渓谷の中央部は、完全にガルーの部隊に制圧された模様です。防衛大隊も未だに混乱を脱していません。全く相反する指令が、めちゃくちゃな系統から発せられています。しかし、どれを信じていいか、わたしには判断できません……」  大柄なガントも、今はまるでネズミのような声になっている。 「あの襲撃機については何と言ってる。何をしに来たんだ、たった一機で……」  ノリスはなおも上空をペリスコープでのぞきながら、報告をうながした。 「……それが」ガントはレシーバーを耳に押しあてたまま、言いよどんた。 「何だ!?」 「あの襲撃機を発進させたのは、臨時大隊指揮所と称している部隊らしいのですが……その指揮所は、ついさっき優先指令として、襲撃機の上空制圧に呼応して、空挺部隊は全軍突撃せよ、と……」ガントがおそるおそるそう伝達した。 「何だと!?」今度はノヴ・ノリスもペリスコープから目を離して振り向いた。 「馬鹿も休み休み言え!」ナギは本気で怒り出した。 「いえ、しかし、大隊副官代理司令は、先程から、空挺隊員は速やかに自力で渓谷を突破し、本隊に合流せよ、と繰り返していまして……けれど、どちらも聞いたことのない命令系統ですし……」 「それにどちらも、不可能な命令であることに変わりはない」  ノヴ・ノリスは呻《うめ》くように答え、再びペリスコープに目をもどした。  襲撃機は次第に高度を下げはじめている。  攻撃態勢に入ろうというのだろう。  ノヴ・ノリスは他の小隊員に合図して、岩陰から目だけをのぞかせ、その光景を見物させることにした。  これが生きて目にする最後のショウとなるかもしれなかったからだ。  索敵用TVアイで、ようやく戦場を把握し終えたらしい無人襲撃機のコンピュータ・パイロットは、おもむろに鈍い灰色の機体を反転させる決心をしたところだ。  そのまま、ゴルジアの南側街区へ突っ込んで行く。  そして翼下の小型ロケット弾を、ひどく無造作にばらまいた。  今もくすぶり続けている家並の一角が、その攻撃で跡形もなく吹き飛んだ。 「何をしてやがるんだ、あいつはァ! あれじゃあ、ガルー共の手伝いをやってるようなもんじゃないか」  ナギが情ない悲鳴を洩《も》らす。  実際、吹き上げられた破片は家屋のものばかりで、ガルーとおぼしき影はひとつも見えない。  第一撃を終えた襲撃機は、無人機特有のシレッとした動作で機首を引き起こし、第二目標へ向けて翼をひるがえした。  その途端、半ば破壊しつくされた総督府のあちこちから、無数とも言えるガルーたちの黒い影が跳び出してきた。  手に手に、旧式のライフルを掴んでいる。同じく古い時代の重機関銃をかつぎ出そうとしているガルーもいる。  慌ただしげにボルトを操作する彼等の小さな腕の動きも見てとれた。  すると次の瞬間、彼等は全員が同時に号令をかけられたかのように、完全にいっせいにその銃身を空に向けた。  襲撃機はそんなガルーの動きも知らぬ気に旋回に入る。  と、まるで機械のように同調した銃の発射音があたりに響きわたった。  数百、数千という銃口から放たれたものであるにもかかわらず、それはとてつもなく大きな一発の砲声のように聞こえた。  そして、襲撃機は文字通り空中で消滅した。  完璧《かんぺき》な集中射撃によって、その破片までが粉々に打ち砕かれたのだ。 「な、なんてこった……」ノヴ・ノリスは舌打ちして、ずるずると岩陰に身体を引っ込めた。 「駄目だ! 駄目だ……これでは、どうしようもない」ナギが歯をぎりぎりと鳴らす。  そして誰もが黙り込んだ。  この戦場へ降下した時の、忘れようにも忘れられない地獄の光景がぶり返してきたからだ。  ノリスたちの空挺部隊二個中隊は、強襲降下艇三十機に分乗してゴルジアの郊外に殺到した。  艇が、地上百メートルほどまで降下した直後、部隊を見舞ったのが、やはり今と同じ、無数の銃口から発せられた集中砲火の槍《やり》ぶすまだったのだ。  人類とのなしくずし的に開始された戦闘が長びくにつれ、ガルーたちは初期の兎撃ちの役にしか立たぬ豆鉄砲に加えて、かなりの鹵獲《ろかく》兵器を手に入れていた。  しかし、それは主に、火星植民者たちが自衛のために持ち込んでいた旧式火器であり、彼我《ひが》の総合破壊力、装備には、依然として問題にならないほどの開きがあった。  だが、その決定的な戦闘力の差を全ての場面で埋めてきたのが、ガルーたちの見せる正確無比な一斉集中射撃だったのである。  最新式の五百連短針カービンがどれだけ高性能であろうとも——実際は、火星の風土を無視して設計されたこれら地球製《ホーム・メイド》の精密極まりないウェポンは、ただのやっかいな代物にしか過ぎない場合が多かったけれど——、百丁の完全に訓練された旧式小銃には敵わない。  ガルーたちは、そのことをはっきりと、地球人兵士の胸の奥深く叩き込んでいた。  空挺部隊の強襲降下艇の約半数は、空中でこの火線にさらされ、撃墜された。  かろうじて着陸に成功した艇も、乗員を脱出させる間もなく次々と火に包まれて爆発し、部隊は降下早々、すでに全滅に近い打撃をこうむっていた。  わずかに戦場から姿をくらますことに成功した少数の部隊員にとっても、運命がただちょっとの間小休止しているに過ぎないことは明らかだった。  襲撃機を、ただの一撃で消滅させたガルーたちの一糸乱れぬ射撃術が、それをノリスにいやというほど思い知らせた。 「……ともかくだ」ノヴ・ノリスは半ばあきらめきった口調でつぶやいた。「ここでこうして待つしかないだろう。夜になれば、また何かチャンスがないともかぎらないし」 「しかし、小隊長。夜戦だけは絶対にやりたくないですなあ。ガルー共の夜目には、どんな暗視装置《ノクト・ヴイジヨン》も勝てやしないんだ」ナギが、かすかに頬をひきつらせた。 「小隊長! 新しい指令をキャッチしました。これは、どうも、本物の大隊司令部発らしい!」  再び通信器にかじりついていたガントが小さく叫んだ。 「何だ、何と言ってる!?」 「……我々です、我々、空挺部隊のコード・ナンバーを呼んでいる!……まず、状況の報告を求めています……まちがいない、大隊司令部が我々を捜している……」  ガントは必死で調子の悪い通信器と格闘している。 「……ええ……�大隊長指令……現状を詳細に報告せよ�……�空挺部隊は全力を傾注して、総督府ゴルジアを死守せよ! ゴルジアを失えば、我々人類の未来にとって……�」  なおも通信を読み上げようとするガントをノリスが制した。 「分った、分ったよ……いいか、ガント。一刻も早くその通信器を調整するんだ。そして、その大隊司令部とやらに報告してやれ。�総督府は健在なり! ガルー部隊はすでに敗走、我が空挺部隊の意気は極めて軒昂《けんこう》! 速やかに大隊旗とともに入城されんことを望む�とな」  しかし、ノヴ・ノリスの声に力はない。 「ま、まさか!? 冗談ですね、小隊長」極度にユーモアの感覚を欠く、典型的な従卒タイプのガントが驚いて訊き返した。 「冗談なもんか、小隊長は本気さ」  ナギがめずらしく快活な調子で言った。「ただし、通信器が直るまで、俺たちが生きていられるとは信じられんがね」 「ナギの言う通りだ。さあ、腹を立てたり、ビクついてたりしててもはじまらん。どうせ、ここは敵の真只中なんだ。どうだ、ひとつ交代で午睡《シエスタ》と洒落《しやれ》ようじゃないか。全員で神経とがらしていることもない」  ノヴ・ノリスは、短針カービンのセレクターを安全位置にもどし、すっかり開き直ったかえって晴れやかに見える表情で他の五人を見回した。  そして、岩陰の狭い隙間《すきま》に足をのばした。  ナギとジルが見張りを引き受けた。  風に乗って、ガルーの戦士たちの言い交す、張りのある声が切れ切れに聞こえてくる。  そして、彼等が、一跳躍十五メートルを越える素晴らしい脚力で駆け抜けてゆく時の、微かな地面の振動までが、ここには伝わってきた。  それほど敵は近かった。  しかし、だからと言って今の六人に出来ることは何もなかった。  あきらめが、妙に平穏な心をノヴ・ノリスにもたらして、彼はいつしか、本物の鼾《いびき》を立てはじめていた。     2 「だから何度も言っているように」マルク・ゴゼイ少将は、湧き上がる怒りを無理矢理噛み殺す時の険悪な口調で、若い参謀たちの議論に割って入った。「わたしはいかなる意味でも兵器を限定するつもりはない。いいか、諸君。戦術核兵器だろうが、戦略核だろうが、生物兵器であろうが化学兵器であろうが、もし、有効な時と場所を諸君が見つけられると言うのなら、いつでも使用してよろしい、と言っているのだ。違うかね? ただし、ひとつ考えて欲しいのは、我々の目的が何かと言うことなのだ」 「もちろん、ガルーどもを殲滅、もしくは反抗不能にすることであります、少将」  マルク・ゴゼイの見幕に押されながらも、北米人らしい赤毛の少佐が発言した。  ゴゼイは、その伝統的なクルー・カットの青年をひとにらみすると、急に背後のヴィジ・プレートに向けて、くるりと自分のシートを回した。  そこには画面いっぱいに火星の南半球が写し出されていた。  今、その視点は直径二千キロメートルに及ぶ大クレーター、第一アルギューレのちょうど上空にあり、ゆっくりと西へ向かって移動していた。  やがて西の地平線に火星を代表する高峰ゴルジーの頂きが現われることだろう。  その地表はカビを思わせる暗緑色のしみに半ばおおわれ、むきだしの赤い大地と鋭い対照を見せている。  火星はまぎれもなく生きていた。  例えそれが、地球と比ぶべくもない醜い表情に思えたとしても、まちがいなく火星は、生命の舞台として、しぶとく息を吹き返しはじめているのだ。 「いいかね、諸君」スクリーンに見入ったまま、マルク・ゴゼイは重苦しい口調で言った。 「この、決して美しいとは言えないが、少なくとも緑におおわれつつある大地は、我々人類が、途方もない努力と投資によってよみがえらせたものなのだ。分るかね、この意味が……」 「だからこそ、我々は思い上がったガルー共に�火星人�などと名乗らせておくわけにはいかないのです。惑星改造システムの拠点を叩き、火星の気圧を低下させれば、奴等はいやでも低地に集結せざるを得なくなります。そこへ一挙に中性子爆弾を投下すれば……」 「そうすれば、火星は再び死の惑星にもどる……」  はやり立つ声に、ゴゼイはむしろ穏やかな口調で応じた。そして次の瞬間、怒りを爆発させた。 「おまえたちは一体、何を考えているんだ。ガルーどもを殺せば、それで任務が成功するとでも思っているのか! そうじゃない、そうじゃないんだ! 我々は、このままの火星を、もう一度我々の土地、我々の領土として回復せねばならんのだ。ガルーを一匹残らず殺せても、それで火星が、また元の死の惑星にもどってしまうなら、我々は敗北したことになるんだぞ。何故地球が、あんなボロをまとったサル頭のカンガルーと戦うために、これだけ莫大な軍事力を我々に託していると思う! それは、火星をそっくりそのまま、投資の成果をそのままそっくり、傷つけずに取り返さなくちゃならないからだ。そうでなければ話は簡単だろうが、ええ!? 火星に一発、大きなのをお見舞いして火の玉に変えてしまえばいいのだからな。だが、地球が望んでいるのは、そんな燃えがらや、放射能まみれの火星じゃないんだ!」  一気に怒鳴り散らすと、マルク・ゴゼイはがくりと肩を落とした。  心配そうに副官のパトリック・ブロードが、そのかたわらに近づいた。 「いや、済まん。つい興奮してしまった。ちょっとひとりで考えたいことがある。今日の会議はこれで散会としよう。それよりも、総督府の様子はどうなっている? そろそろ、上空に進入するはずではないのかね?」  マルク・ゴゼイは片手を振って、ヴィジ・プレートの画像をもっとズームするようブロードに命じた。  ここは火星をめぐる近地点六百キロの軌道上、火星派遣軍総司令部を構える旗艦ドヌスの艦上である。  全長六百メートル、三十万トンクラスの戦闘母艦は、八隻の補助艦をしたがえて、悠然と総督府ゴルジアの上空にさしかかったところだ。 「先程、無人偵察機を八機降下させました。そろそろ報告が返ってくると思いますが……」  ブロードは答えながら、スクリーンのチャネルを操作して、偵察機からの中継画像に切り変えた。  白っぽい荒い走査線がスクリーンに現われ、やがてすさまじい速度で眼下を走り抜ける火星の大地が写し出された。 「これは一番機の画像です……次は二番機」  ブロードは説明を加えながら、次々に別のチャネルをつなぐ。  八機の内、四機からの送信は途絶していた。  しかし、残り四機が捉えた光景だけで、総督府ゴルジアの運命は余りにも明らかだった。  マルク・ゴゼイの背後で、立ち去りがたくスクリーンをのぞきこんでいた青年将校たちの間から、溜息とも悲鳴ともつかないざわめきが起こった。 「な、なんてこと……」 「あの、太陽系で最も美しい都が」 「リンの弟があの大隊にいたはずだが……」  彼等は口々に言い交した。 「これではまるで、どちらが制圧軍か分らんじゃないか!」 「だいたい、植民者たちの逃げ腰が奴等を増長させたんだ」 「その通りだ、ゼンダ総督は真先に撤収の音頭をとったと言うではないか」  彼等の敗北感はやがて怒りに、そして植民者たちへの憎悪へと変わってゆく。 「諸君、会議はもう終ったと言ったはずだ。そこで無駄話をしているヒマがあったら、作戦室へもどって、大隊や、空挺特攻隊の生き残りをどうやって救出するか、そのやりくりでも考えたらどうだ」  うんざりしたような声で、彼等を振り返りもせずにゴゼイが言った。  将校たちは静まり返り、やがて足音をしのばせて派遣軍総司令室から退出していった。  その短い間に、さらに二機の偵察機が、通信を絶った。 「少将、ガルー共は今完全に戦いのペースをつかんでいます」  チャネルを再び旗艦ドヌスのTVアイに切り替えたブロードが、ニュース解説者のような口調でそう言った。 「うむ……」マルク・ゴゼイも虚脱感に勝てず、まるで他人事《ひとごと》のような受け応えしかできない。 「このままでは、ますます奴等は波に乗って、本格的な都市攻撃や、宇宙港、空港などの制圧に乗り出してくるでしょう」 「ああ、いずれは……」 「総督府ゴルジアを守りきれなかったのは、もちろん痛恨事ではありますが、あの街は言ってみれば、象徴的な意味しか持たない庭園都市のようなものです。実質的に戦略的損失とは言えないと思います」  パトリック・ブロードの声が次第に熱を帯びてきたのに気づいて、マルク・ゴゼイはようやくスクリーンから視線をひきはがした。  かたわらのブロードをゆっくりと見上げる。「で? 何か考えがありそうだな、パット」 「わたしはクリュセの宇宙港や、新山《シンシヤン》などの工業地区も、今や安全ではない、と考えているのです」と、ブロード。 「だが、クリュセや新山《シンシヤン》の自衛能力はゴルジアなどとは比べものにならないぞ、パット。それに、ガルーたちの望みは、あくまでも地球人をこの火星から追い出すことにあるはずだ。地球と火星の最大の窓口であるクリュセ宇宙港を奴等がおさえてしまったら、植民者や地球人は、出て行こうにも出て行けなくなるではないか」ゴゼイは、かすかに眉を上げた。 「少将、わたしの判断はすでに違います。確かに、自らを火星人であると宣言した当初のガルーたちの望みは、とにかく地球人にこの惑星を明け渡してもらい、自分たちの領土とすることだけでした。そして実際、ガルーを極端に怖れるようになっていた植民者の多くもまた、火星からの撤収を切望していた、これも事実です」  話しながら、ブロードは壁際のミニ・バーで飲み物をつくり、ゴゼイの前へ運んでくる。ゴゼイはそれを無意識のまま受け取った。 「……ですが、少将」ブロードは、マルク・ゴゼイと向かい合う位置のシー卜に腰を下ろし、なおも話し続けた。 「結局、地球はそれを許そうとしませんでした。厳罰や受け入れ拒否で植民者を恫喝《どうかつ》して火星へ追い返し、さらにこのように強大な派遣軍を急派して、ガルーたちとの完全対決姿勢を打ち出したわけです」 「…………」 「しかし、地球は、明らかにガルーたちをただの獣としか考えていなかった。だから、武力を見せつけ、ちょっと横っ面を張りとばしてやれば、またすぐに帰順してくる奴隷にしか過ぎぬとタカをくくっていたのです」 「おおせの通りだ、パット。地球は、今でもそう思っているよ」  マルク・ゴゼイは宙に目を遊ばせたまま、ブロードから受け取った飲み物をすすった。やわらかなアルコールの芳香が、ほんの少しゴゼイの神経をもみほぐした。 「しかし、その時すでに、ガルーは、地球上でただひとつの大陸にしか棲息《せいそく》していなかった古いタイプの有袋獣とは別種の生き物になっていたと言えます。彼等は、実際、自らを火星人と呼ぶに充分ふさわしいだけ、この火星に適応しはじめていたのです。そして、さらに、日いち日と、ガルーは火星人としての資格を身につけ続けている……」 「パット、君の分析はまことに率直だと認めるよ。しかし、にもかかわらず、ガルーたちの望みは地球人にこの惑星から立ち去って欲しいということではないのかね?」  マルク・ゴゼイは、パトリック・ブロードにも飲み物をとるように片手で合図すると、ゆったりシートに身を沈めた。  ゴゼイはブロードの話に耳を半分貸しながら、自分だけの考えに浸りはじめた様子だ。 「いえ、少将。ガルーたちはすでに、地球人が出て行こうが行くまいが、どちらでもよいと考えはじめているのではないでしょうか」 「……ん?」 「最近の、これまでに例のない、正面きっての攻勢……その意味をわたしは考えてみたのです。ガルーたちは、しかも、その作戦のほとんどに勝利しているのです。各司令がどう言いつくろおうと、それは隠しようのない事実です。そして、今回、ゴルジア防衛大隊との初めての正規軍決戦……これにもガルーたちは完勝しました」 「……パット、君はわたしの解任動議を提出しようと言うのかね?」マルク・ゴゼイが弱々しく口元を歪《ゆが》めた。 「とんでもない、少将。そんなことが言いたいんじゃありません。ともかく、ガルーたちが、今や完全に火星全域で、戦争の主導権を握りつつある、という認識をお話ししているだけです」  ブロードはちょっと言葉を切って、自分用の飲み物に口をつけた。 「分ってるよ、パット。それにガルーたちが、戦争の緩急の波調をぴったりと捉えている、という君の主張もその通りだと思う。しかし、クリュセや新山《シンシヤン》には……」 「ゴルジアでは、最精鋭をうたっていたヴァリュウ大隊が、為す術もなく敗走したではありませんか。この戦いは、まるで他国の領土に踏み入った侵略車が、その土地の利、風土、時の利を知りつくしている土着のゲリラにえじきとされる、といった古典的なパターンを辿《たど》りつつあるように思えるのです」 「つまり、火星人の土地へ侵攻する地球人という図式か……」マルク・ゴゼイが呻くように言った。 「そう言い替えても不都合ではないでしょう。なにしろ、我々はあくまでも点、彼等は圧倒的に面を支配しているのですから」 「今ここで、戦争の大義がどちらにあるか、などという問題を話し合うつもりはない」苦い声でマルク・ゴゼイは続けた。「我々が考えねばならないのは、いかにしてガルーたちに勝つか、いかにして彼等から、この火星の主導権を奪いとるか、ということだ」 「その通りです、少将」ブロードがうなずく。「わたしは、未だにこの総司令部を支配している非現実的なガルー観を洗い直してみようとしているだけです」 「よく分るよ、パット。続けてくれ」 「わたしは、現在ガルーたちが、我々の想像するよりはるかに強く、自分たちの優位を確信していると思うのです。その確信がさらに優位を確固たるものにし、そして彼等の軍団を強化してゆく……」 「つまり、最早やガルーたちは、地球人の撤収など待たず、自力で我々を殲滅できる、と考えはじめているということか?」  マルク・ゴゼイの眉がぴくりと動いた。 「だから、クリュセも新山《シンシヤン》も、彼等にとって特別な意味はなくなった、とわたしは判断しているのです」パトリック・ブロードが、大きく身を乗り出した。 「う……む」 「貧弱な武装しか持たぬにもかかわらず、ガルーの軍隊は、勢いに乗っています。それにひきかえ、我々の高度に破壊力を集約した軍隊は、実はそのために、この火星を死の惑星に引きもどす以外の、有効な反撃手段を思いつけないでいます。ここで、なによりも重要なのは、ほんの小さなことでもいい、その全体の流れを乱す糸口を見つけることだと、わたしは思うのです」  ブロードが、こぶしでテーブルの角を打った。  マルク・ゴゼイは、びくりとしたように顔をめぐらし、ブロードの目をのぞきこんだ。 「で、どうやってガルーをつまずかせるんだ、パット。何かとんでもないことを考えているようだな。さもなければ、いつも単刀直入な君が、長々と前置きをするはずがない。違うかね? 話してくれ、パット。君の考えている、その途方もない計画という奴を」  ゴゼイの目が、一瞬ギラリと光った。  ブロードは、そのゴゼイを見据え返した。 「少将、これはあくまでも私個人の妄想に近い計画なのです。ですから、人道上の見地などという問題は、全く考慮に入っていません」慎重な言い回しでブロードが言う。 「そのつもりで聞こう、パット。ともかく話してくれ」  ゴゼイが飲み忘れていたグラスの残りを、ぐいと喉に流し込んで言った。 「わたしは昨日、野戦病院からもどってきたばかりの軍医長ミネ博士と話す機会があったのですが……」 「ミネ軍医長?……ああ、あの東洋人の外科医だな」 「そうです。彼は戦傷者に対する移植処置や生体合成、人工人体手術の世界的な権威で、古くから軍で働いている人物です。火星派遣軍には真先に志願したと聞きました」 「それだけじゃない。ミネは、後期のガルー計画にも関係していたはずだ。つまり、無能無害なカンガルーを、あそこまで仕上げた責任者のひとりなのだ……」  マルク・ゴゼイは、ふと嫌な予感が走り抜けるのを感じて口をつぐむ。 「ご存知でしたか、少将」  パトリック・ブロードの表情に、一瞬悪魔的なものが横切るのを、ゴゼイは見逃さなかった。 (有能な男だ。有能すぎる副官だが、同時に恐ろしいところのある男だ)ゴゼイは、ブロードを見つめながら思った。(こいつがミネと組んだとすると……) 「少将、この計画のアイデアは、実はミネ博士がもたらしてくれたものなのです。いや、博士以外の誰一人として実現不可能な計画と言ってもいいでしょう」  ブロードが不意に笑みを洩らした。  マルク・ゴゼイは、ブロードが言い出そうとしている�計画�の内容をその時予感した。彼は大きく背を震わせて、意味もなくあたりを見回した。     3 「……ノリス!」  押し殺したナギの声と硬い拳《こぶし》に小突かれて、ノヴ・ノリスははっと目を開いた。  いつの間にか本当に眠り込んでしまっていたらしい。  と同時に、ノリスはひやりと冷たい鉄の感触を左頬に感じて、震え上がった。 「人間ども《メン》!」  頭上から降ってくる声は、独特の甲高いしわがれ声だ。  あたりはすでに暗い。  突然のことで、ノリスはその声の主を闇の中で見つけることもできずに焦った。しかし、まちがえるはずもない。それは、成熟した牡のガルーの声だった。  かすかに獣の臭いが鼻に届いてきた。 「人間ども《メン》! さあ、武器をすてろ。抵抗するそぶりを示せば、殺す」  別な方角から、また声がかかった。  ようやく闇に馴れはじめたノリスの目は、彼の小隊が潜んでいる岩の窪《くぼ》みを取り囲む五つの影を見分けることができた。  そのうちの一匹が、ノリスに銃口を突きつけている。 「ゆっくり、装備をはずせ。おまえたちは捕虜だ」  ひときわ巨体の目立つガルーが、吐き出すようにそう発音した。  その時だ。 「アギャーッ!」  人間とも思えぬ奇声を発して小隊員の一人が岩場から跳び出そうとした。恐怖に耐えかねた若いジルだ。 「やめろ、ジル!」ガントが叫ぶ。  しかし、ガルーは何の躊躇《ちゆうちよ》もしなかった。  鋭い撃発音がノリスたちの耳を一瞬|麻痺《まひ》させ、長い紫色の発射炎が目を灼《や》いた。  ジルの悲鳴は熄《や》んだ。 「抵抗すれば、殺す。このように、だ」  巨体のガルーが、一語一語を強調した。  不覚だった。脱出を半ばあきらめていたとはいえ、岩陰に潜んでさえいれば、何とかガルーの発見を免れると思っていた自分がくやまれた。  彼等には、目の他に鼻という有力な知覚手段があったのだ。  まして闇が降りれば、彼等の嗅覚《きゆうかく》は一段と鋭敏になる。逆にノリスたちは闇に盲《めし》い、彼等の接近にも気づけなかったのだ。 「小隊長……」  ガントの消え入りそうな声が背後から聞こえた。 「……きしょう」ナギの歯ぎしりもはじまる。  ノヴ・ノリスは決断した。もっとも選ぶべき運命はふたつしかなく、その一方は死だった。 「……分った、投降する」  ガチャン、とナギが短針カービンを地面に投げつける音がした。 「武器を粗末にしてはいけない。その武器の主人はもはやおまえたちではなく、我々なのだ。破壊行為を行えば、殺す」  ほとんど感情の感じられないガルーの声が、また頭上から降ってきた。 「くそったれ……くそったれめが……くそ……」つぶやいているのはガントだ。 「やめろ、ガント!」ノリスが鋭く制した。「言われた通りにするしかない、武装解除にしたがうんだ」 「その男《マン》の言う通りだ。おとなしくしていれば、殺さない」ガルーが銃口を心もち下げながら言った。 「嘘だ!」叫びだしたのはデンブラだ。 「嘘にきまってる! 俺たちを安心させておいて、後から嬲《なぶ》り殺しにする気なんだ! そうに決まってる、嫌だ! 俺は死にたくない。ガルーなんかに殺されたくない!」小柄なポリネシア人デンブラは、完全な狂気に捉われて、なおもわめき続けようとする。  ナギがデンブラにとびつき、必死で暴れ出そうとするその身体を組み伏せた。 「好きにさせろ! 抵抗する人間《マン》は殺すだけだ」  ガルーの五つの影が面白そうにゆらいだ。 「待ってくれ。すでに俺たちの仲間は充分すぎるくらい殺された。言う通りにするから、少しだけ時間をくれ」  ノヴ・ノリスは乾ききった声で、ガルーに懇願した。屈辱感で、おそらく顔は真紅に染まっているにちがいなかった。しかし、優しい闇が、それを隠してくれていた。  数人がかりで脅し、すかし、ようやくデンブラは静かになった。 「よし、そこから出るんだ。武器や装備はひとまとめにして両手で持って来い。おかしなそぶりがあれば、殺す」  殺す、殺す、を乱発されながら、生き残った五人は岩場から滑り降り、ガルーの銃口に追い立てられて歩き出した。  どうやら夜営地へ向かうらしい。  ガルーたちは、人間の遅いペースに合わせるため、かなりぎごちなく後肢と尾をつかって進む。時にはかがみこんで、前肢で身体を支えながら歩くガルーもいる。 「おまえたちの中で、命令を与える男《マン》は誰だ」  二メートル近い身長の堂々たるガルーが、不意にそう言いだした。 「つまり、隊長だ! 隊長は誰だ!」 「待ってくれ、何でそんなことを訊く? 隊長は戦死した。殺されてしまった。だから、ここには隊長はいない」  咄嗟《とつさ》にナギが言い返した。  その半分は本当のことだった。ゴルジアへの降下の途中、ノリスたちの属する中隊の指揮グループは、強襲降下艇ごと撃墜されて全滅していたからだ。 「ならば、それに次ぐ隊長は誰だ? おまえたち五人のなかで、もし誰かが命令を下さねばならない事態となったら、誰が命令を出す?」  ガルーはなおもしつこく食い下がってくる。 「そんなものはいない、と言ったろう。小隊長がさっきまで生きていだが、おまえたちが殺してしまったじゃないか。だから、ここに残っているのは、全員、ただの兵隊だ」ナギがノリスをかばって嘘を主張した。 「なるほど……」  そのガルーはちょっと考え込むような様子で足を停めた。他のガルーたちも立ちどまり、ぐるりと地球人を取り囲むように散開した。  すでに夜営地のすぐそばまで来ている。  彼等が何をはじめようとしているのか、ノヴ・ノリスはすぐには理解できなかった。 「ど、どうしたんだ……」  ガントがおびえきった声でつぶやく。 「いいか、人間ども《メン》! おまえたちに隊長は誰だ、と質問したはずだ。しかし、その男は�いない�と答えた。そして、他の人間も、その答に反対しようとしなかった」  ガルーの目が、夜営地の焚火《たきび》を映して不気味に光った。 「それが、どうした」ナギがなおも食ってかかる。 「どうした、だって?」ガルーの表情が微《かす》かに歪んだ。笑ったのかもしれない。「おまえは嘘つきだ!」  ガルーはそう決めつけると、銃口をまっすぐナギに向けた。 「ど、どういうことだ。どうして俺が嘘つきなんだ。な、なにをする気だ!」  ナギがわめいた。 「教えてやろう。あの岩場で、その男は、この男に�小隊長�と呼びかけた」ガルーは銃口でガントとノリスを順に示した。「しかも、その時、逃げようとしたひとりはすでに死んでいた」 「そんなことを言った覚えはない!」ガントが慌てて首を左右に振る。 「そら、おまえも嘘つきだ。ちゃんと、我々はそれを聞いた。だから、確かめてみようと思ったのだ」  ガルーたちが包囲の輪を縮めた。 「おまえ、おまえは小隊長なのに、たずねられても申し出なかった。だからおまえも嘘つきだ」巨体をゆすりながら、そのガルーはノリスに銃口を向けて言った。 「他の二人は、他の三人が嘘をついているのに、それを全く正そうとしなかった。つまり、嘘つきだ。おまえたちは全員が嘘つきだ。幾度も共謀して嘘をつき、我々を混乱におとしいれようとした」別のガルーが、結論を補足した。 「ちょっと待ってくれ、その責任は全て俺にあるんだから」  ようやく、容易ならざる事態であることに気づいて、ノヴ・ノリスが一歩前へ進み出た。 「確かに小隊長はこの俺だ。この男たちは、俺が嘘をついて申し出ないのを見て、それを助けようと……いや、こんな嘘つきの上官はもう上官ではない、と考えたのだろう。そうに違いない。嘘つきはこの俺ひとりだ。しかも、俺は小隊長だ。何か気に障るような、いや、何かそのことが問題となるというのなら、その罰は俺が受けるべきだ」 「いや、違うね」とガルーはゆっくり首をゆらした。「罪は全員にある。全員が故意に嘘をつき、我々を混乱させようとした。明らかに反抗に類する行為だ。しかも、全員が共謀した」 「わ、分ったぞ! やっぱりだ」突然、叫び出したのは、またしてもデンブラである。「おまえたち、最初から俺たちを殺すつもりだったんだ。そうなんだ。ただ俺たちの武器を野営地まで運ぶ手間を省くために、捕虜を連行するようなフリをしただけなんだ。どうだ、そうだろう! 分ってたんだ、俺には。はじめから、俺たちを殺す気だったんだ! 嫌だ! 嫌だ! 嘘をついたのは小隊長ひとりじゃないか。そうだろう、俺は関係ないんだ。なのに、無茶な理屈をこねあげて、この俺まで殺すなんて! あんまりだ、助けてくれ! 俺は死にたくない! こんな死に方は嫌だ、ぜったいにイヤだ!」  デンブラはひとしきり、わめきたてた。  ガルーたちは無造作に銃をかまえて、デンブラの狂態を嘲《あざけ》るように眺めている。  だが、ノヴ・ノリスにも、デンブラの叫びが、まさに真実を言いあてていると分っていた。  ガルーたちは、ともかく荷物を地球人に運ばせ、その後で、適当な処刑の理由を見つけ出して、運び屋を始末する、という予定を最初から持っていたに違いない。  しかし、それなら、野営地へ着いた所で、有無を言わさず撃ち殺してもよさそうなものなのに……とノヴ・ノリスはいぶかしんだ。  なぜ、あのような詭弁《きべん》を弄してまで処刑に理由づけを欲しがるのか、ノヴ・ノリスには不思議だった。それがガルーに特異な精神構造なのだろうか。 (いや、違う)とノリスは突然思いついた。 (そうだ、ガルーたちは遊んでいるのだ。論理をあちこちはぐらかして、地球人が混乱する様子を楽しんでいるのだ!)ノヴ・ノリスはそう確信した。 (そうだ、そうに違いない。これは植民地時代初期、地球人が低能の奴隷ガルーをからかったのと、ちょうど同じなんだ。同じことを、彼等は立場が逆転した今、試そうとしているに過ぎないんだ……)  そう考えた途端、ノヴ・ノリスの全身から力が抜けた。 (そうなんだ。これは人類の罪に対する、皮肉たっぷりの罰なんだ。今、ここで�嘘つき�と裁かれ、処刑されようとしているのは人類全体なんだ。地球人全体が、火星人によって嘲られ、そして断罪されているんだ) 「もういい、分った! 殺《や》るなら、早く殺ってくれ! 悪いのは俺ひとりだ。他の隊員は関係がないはずだ!……もっとも、そんな事を言っても、この際しようがないとは思うけどな」  ノヴ・ノリスは、余りにも錯綜《さくそう》した憎悪や屈辱、侮蔑《ぶべつ》や自嘲《じちよう》など、ありとあらゆる感情のもつれを、思いきり口のなかにためこむと、地面に向けてツバを吐きかけた。  ノリスは火星人のいやらしいやり口を呪《のろ》い、それ以上に地球人の愚かしさを呪った。 「さあ、キリのいい所で殺ってくれ!」  その時である。  突然、空が裂けた。  続いて、地面がごうごうと唸《うな》りをあげて波打った。  ノヴ・ノリスは、まずその一撃で空中に投げ上げられ、そして地面に叩きつけられた。  一瞬、全ての方向感覚、上下感覚が失われる。  再び、空が裂けた。そして、大気が、まるで形あるもののように思いきりゆさぶられ、そして崩れ落ちた。  しかし、その混乱した知覚の端で、ノヴ・ノリスは、まるで無数とも呼べそうな数の新鋭戦闘艇が、ありとあらゆる火炎やビームを無差別にまき散らしながら、すさまじい強行着陸を試みようとしている姿をちらりと捉えることに成功していた。  考えるまでもなく、それは軌道上の派遣軍総司令部が切り札として下界へ送り込んできた奇襲上陸部隊に違いなかった。  だが、ガルーたちの反撃はすでにその時点で開始されていた。  完全に気を失うまでの数秒間に、ノヴ・ノリスは火の玉となって自爆する五機の戦闘艇を数えることができた。     4 「おお、この男を知っているぞ!」  マルク・ゴゼイが小さく叫んだ。 「えっ!? ほんとうですか?」軍医長の従卒が目を丸くする。 「うむ……この男は、わしが最初に火星へ派遣された時、つまりガルーの�火星人宣言�事件の直前に、地球から同行した百人の局地戦エキスパートのひとりだった。名前は確か……」 「ノリス、ノヴ、ノヴ・ノリスです」  信じがたい記憶力を発揮して、パトリック・ブロードが答えた。 「あの事件前夜、少将がご自分で選ばれた秘密偵察隊員のひとりで、反乱の最中、ガルーたちに捉えられ、後に交換交渉によって地球側にもどってきたのです」 「そうだ……そんなことがあった……」  マルク・ゴゼイは手術室の処置台に並べられた無惨な人体を見下ろし、大きく溜息をついた。  そのノヴ・ノリスと呼ばれた男は、実に平和な寝顔を見せ、軽いいびきすらかいている。しかし、その男に下半身はなかった。 「どうして、彼があそこに居たんだ?」  マルク・ゴゼイは唇をとがらすようにして、ブロードを振り返った。 「彼は生還後も軍務を希望して火星に留まっていましたからね。少将と同じく、派遣軍最古参のひとりだと思います。恐らく、ヴァリュウ大隊救援のためにゴルジアへ降下した空挺部隊に加わっており、そこでガルーの捕虜となっていたものと思われますが……」 「なるほど……そして今度は、下半身を吹き飛ばされて帰ってきたと言うわけか……」  マルク・ゴゼイは、また深い溜息を長々と洩らした。 「あのキャンプの夜襲は大成功でしたな」  突然背後から声をかけられ、ゴゼイは驚いて物思いから醒《さ》めた。  やせた、浅黒い肌の東洋人が、白衣を無造作にはおって、そこに立っていた。かなりの長身だ。 「これは、ミネ博士。ひと足先に、素材を見せてもらっていました」  快活にすら聞こえる声で、ブロードがあいさつする。彼は、手術室いっぱいに並べられた各々十数体のガルーや人間を、�素材�と呼びすてた。  ゴゼイの背にぞくりと悪寒が走った。 「少将、いかがです。なかなか、いいサンプルがそろったでしょう」  ミネ博士はブロードよりももっと無邪気に、処置台を指さした。 「ああ、ミネ博士。確かに、言う通り、夜襲は半ば成功した。ともかくも、ガルーの正規軍規模のキャンプに大被害を与えたのだから、まあ、ここ数か月来、最大の戦果と呼んでもいい。だが、こちらも虎《とら》の子の全天候型戦闘艇を二十八機失い、二百人近い兵員を失った。たかがガルー十六匹を生けどるにしては、割の合わない出血だと思うが……まあ、それは口に出来ないことだ……」  マルク・ゴゼイは口をつぐんだ。 「少将にそう言われると、どうも……」ミネ博士は微妙な笑いを浮かべた。「それにしても、移植に最適状態の人体も揃《そろ》ったので、我々としては、すぐにも計画を進めたいのですが。許可願えますかな、少将?」  ミネはしきりに鼻のわきを人差し指でこすり続けている。 (嫌なクセだ)とゴゼイは心の中で舌打ちした。 「いま、これら生体は、順調に生命活動を維持しています。もちろん、装置さえ停止しなければ、十年でも二十年でも生かし続けることは可能ですが、余りこの状態を継続すると筋肉がまず簡単に衰弱します。次に脳組織がいわゆる�ボケ�を起こします。やるなら、出来るだけ早い方がいい」  ミネはそう言いながら、処置台上で眠り続ける人間やガルーを見回りはじめた。 「あっ、いかん! この重傷者はもう使えん。脳死が決定的だ」  ミネは、かろうじて人間の姿をとどめているだけの一体を指さし、従卒に合図を送った。すぐに、数人の医官が呼ばれ、その男の生命維持装置を停止させると、瞬間的に遺体となったその男を運び出して行く。  その余りにも機械的な作業が、マルク・ゴゼイに軽いめまいをもたらした。  思わず、ゴゼイはこめかみに手をやった。 「大丈夫ですか、少将。大分、お疲れのようですか」  ブロードが素早く気づいて、ゴゼイのひじを支えた。 「何でもない、ちょっと頭痛がしただけだ」  ゴゼイはいつになく強い口調でブロードを制した。そして、顔を上げた。 「よし、分った。計画の次のプロセスを許可しよう。ただし、これ以上の死人は絶対にごめんだ。君たちの言う�素材�を、決して無駄にすることは許さん。この中には、わしの古くからの戦友もまじっているのだ……」  マルク・ゴゼイは、くるりと処置台に背を向けた。 「パット、これから先の進行は君にまかせる。万全を期してもらいたい。もちろん、わしはミネ博士を全面的に信頼している。この計画には、人類の、いや火星人の未来がかかっていると言ってもいい過ぎではない……しかも、決して歴史の舞台で明かされることがあってはならない計画だ。その事を、よく理解して欲しい」  そう言い残すと、マルク・ゴゼイは手術室から歩み出た。  遠心力によって作り出されている見せかけの引力は、この階層ではかなり弱く、火星表面の三十パーセントほどだった。  それが、精神的にも打ちのめされたマルク・ゴゼイの歩行を助けてくれた。  後ろから影のようにパトリック・ブロードがつきしたがってくる。  巨大な戦闘母艦ドヌスは、眼下の死闘も知らぬ気に悠然と航行を続けていた。  マルク・ゴゼイは、ただ黙々とドヌスの回廊を進んで行った。  戦闘艦橋のある外周部に近づくにつれ、引力のためばかりでなくゴゼイの足は重くなった。 「……パット」ゴゼイはまるで少年のように頼りない声で、ブロードに呼びかけた。 「何でしょう、少将」即座に、歯切れのいい応答がある。 「我々のやっていることは、許されることなのだろうか……いや、軍規上とか、人道上とか言う以上に、もっと何か、根源的な部分で、道を踏みはずしているのではないだろうか……」  ゴゼイは、自動的に目の前で開き始めた総司令部エリアの隔壁の前で立ちどまり、自分自身に問いかけるようにつぶやいた。 「少将、こう考えてはいかがでしょう」ゴゼイとともに隔壁をくぐりながら、ブロードが妙に深刻な声を出した。 「……つまり、我々人類はとうに根源的な所で道を踏みはずしてしまっているのだ、と……石のかけらを握り、初めて同族の隣人を殴り殺した時から、えんえんと誤り続けているのだ、と……わたしは、そう考えることにしているのです」  ブロードの声が、すこししわがれて、老人のように聞こえた。 「…………」ゴゼイは自分の手で総司令官室のドアのオープン・ボタンを押した。 「……人類が宇宙へあふれ出したのも、この火星へ植民を開始しようとしたのも……そして、罪もない無害な有袋獣を無理矢理ミューテーションによって進化させ、その未来を操作したのも……全てが、考えてみれば許されない、根源的に誤った道だと、わたしは考えているんです、少将。だから、我々は、もう引き返せないんです。この道を、行くところまで行かなくてはならない運命にあるんだと、わたしは、思うのです」 「きみはなかなかの哲学者だな、パット」  ようやく自室へもどった安心感で、ゴゼイは、はじめて自分が本当に気分が悪いことに気づいた。  彼は深いシートに身を投げ出し、しっかりと目蓋を閉じた。  ブロードが飲み物の用意をしている音が聞こえたが、ゴゼイはかまわず目をつぶり続けた。 「少将。ガルーの本質は、ゲリラです。たまに正規軍を繰り出してはきても、基本的戦略、戦術の本領はやはり遊撃戦にあります。内部的な連帯感こそが、彼等の唯一の活力源であり、より所です」  急に現実的な口調にもどって、ブロードが話し続けている。 「だから、まず内部を攪乱《かくらん》することが必要なのです。それが成功すれば、奴等は簡単に崩れる可能性がある。地球での戦争ではごく普通に用いられた対ゲリラ戦の手口ですからね。スパイや特殊部隊を敵に変装させて送り込む……そして、後方から、敵の団結、連帯にほころびをつくって行く……」 「それが出来ない相手だったから、我々は正面からの戦いを強要され、そしてガルーのいいように料理されてきた……」  答えるともなしに、ゴゼイはつぶやいた。 「少将、今や我々はその糸口をつかんでいます。ミネ博士の計画が成功すれば、我々は敵と、まったく見分けのつかない特殊部隊を手に入れることになるのです」 「分っている……分っているさ……しかも、修復不能な身体的損傷を受けた兵士の生体維持、再生も可能になる、と言うんだろう……だが、しかし、それを望む者が果たしているだろうか……」  苦悩が、ゴゼイのひたいに深く刻まれている。 「だから、我々は素材を吟味したのです。例えばあのノヴ・ノリスなどは、根っからの兵隊、エキスパートです。必ずや我々の意図を理解してくれるものと……」  パトリック・ブロードが、香りの高いお茶を運んできた。 「少将、どうぞ一服してください」 「パット、言っておくが、彼等を�素材�と呼ぶのはやめたまえ。それからノリスだが、君が思っているような殺人機械ではないぞ。実に人間味あふれるいい男だった……だんだん思い出してきたよ、あの�火星人宣言�前後の部下たちのことを……」  ゴゼイは一度開いた目を、また閉じた。 「失礼しました。しかし、計画が順調に進めば、我々は三週間以内に、ガルーの肉体と人間の頭脳を持った一戦隊を持つこととなるのです。わたしはまず、新山《シンシヤン》に近いイシス周辺の赤道地帯に彼等を投入しようと考えているのですが」  ブロードが自分のカップからお茶をすする音が聞こえた。ゴゼイには、まるでそれが、血を吸い込む野獣の舌つづみのように感じられた。 「まかせるよ、パット。責任は全てわしがとる。この計画については、君の進言を全面的に受け入れる他あるまい」  ゴゼイはいっそう固く目蓋を閉じ、片手を挙げてブロードに退室するよう合図した。 「何かあったら、いつでも知らせてくれ。わしは少し休みたい」 「分りました。わたくしをご信頼いただいて、ありがとうございます」  ブロードは軽く頭を下げ、得体の知れぬ表情をつくった。  それは聖人とも悪魔ともつかないものの領域に、すでに達してしまった人間特有の表情と言えた。  もし、ゴゼイがその顔を見たら、あるいは計画そのものの取りやめを指示する気になったかもしれない。  しかし、ゴゼイ少将の目は、その後、二度と開かれることはなかった。  そのことをブロードが知るのは、三時間を経てからだった。     5  ノヴ・ノリスは果てしのない悪夢のなかにいた。  そのなかで、彼はわけの分らぬものと必死で闘い続けていた。  しかし、夢の世界にあって、すべては余りにもちぐはぐだった。  ある時、眼前のものに掴みかかろうとすると彼の腕は消え失せ、圧迫からのがれようとして走ろうとしても、両足が全く意志とは関係なしにばらばらに動き回った。  何か考えをまとめようとすると、自分とは別の頭脳が、とんでもないことを考えはじめたりもした。  悪夢の海は、広く、深く、ノヴ・ノリスをどこまでも重く取り囲んで離そうとしない。  ノヴ・ノリスは苦しさの余り叫ぼうとした。  幾度も……  幾度も……  そしてついに、彼は声を上げた。  しかし、それは、悲鳴とは似ても似つかない、この世のものとも思えないような笑い声だった。  ギハ……ガハ、ハハハハ、ググ……ギヤ、ギヒ、ヒハハハハハハ……  そして、ノヴ・ノリスの目は、意志とは関係なく、突然開いた。  グブブブブ……ブヒヒハハハハハ……ググググググ……ヒハハハハハハハハハハハ……  耳障りな笑いはまだとまらない。  ノヴ・ノリスは、自分の喉と思われるものが発し続ける声をとめようとする努力をあきらめ、不意に回復した視野に映る見慣れぬ天井の暗い照明をぼんやりと見つめ続けた。  しかし、どうも変だ。  まだ完全には去ろうとしない悪夢の余韻に浸りながらも、しかし、それとは明らかに別種の違和感が、次第に強くノヴ・ノリスを苦しめはじめた。  ノリスは強く首を振ろうとした。  すると、首だけでなく、全身が激しく痙攣をはじめてしまった。  ググギイイヒヒヒヒ……ムムハムハハハハハハハハ……  狂ったような叫び声を上げ続けながら、ノリスの全身はのたうった。  その瞬間、ノリスのどこかおかしな目は、さらに信じがたいものを見出した。  なんと、ガルーのそれのように剛毛におおわれ、不様に折れまがった二本の足と一本の太く長い尻尾《しつぽ》が、彼の半身にとって変わっていたのだ。 (夢だ……)  ノヴ・ノリスは簡単にそう信じた。 (俺はまだ悪夢から醒めていない……)  しかし、無意識のどこかで、その結論に抗議するものがあった。  ノリスは目を閉じようとした。  しかし、彼の目はその指令にしたがおうとはしなかった。  全身も勝手にのたうつことをやめず、相変わらず気味の悪い声が喉から洩れ続けている。  それは拷問に近かった。  勝手に暴れ回る身体を、彼の目が勝手に見続けている。  しかも、その身体は、どう見てもガルーのそれに似ていた。  どうゆずっても、ノヴ・ノリスの身体でないことは確かだった。  ついに、彼のそのガルーに変身した肉体はベッドから転げ落ちた。  身体のどこかにつなげられていたらしいコードが、幾本もはじけ飛ぶ。  ここは病室らしかった。  床を転げ回りながら、ノヴ・ノリスは状況を否応なく確認させられた。  この暗い部屋には、他に十いくつかのべッドが三列に並べられていた。  しかし、彼の見たかぎり、どのベッドに寝かされているのも、皆ガルーだった。  その頃になって、本物の衝撃と、困惑、混乱が、いっせいに彼の精神に襲いかかってきた。  ムググアアハハハハハハ……グフ、グフ、グフ、グハハハハハ……ング、ング、ググググググ……  全くコントロールのきかないその身体は、あちこちのベッドにぶつかり、得体の知れぬ機械類やパネルを押し倒して転がり続けた。 (俺は……)と、おとずれた正気の一瞬、ノヴ・ノリスは現実を分析した。(……眠っている間に、ガルーになってしまった……) (いや、そんな馬鹿な……)  グフフ、フフ、フフフフフ…… (嘘だ、夢だ、悪夢だ……)  ング、ング、ング、ング……  その時、大勢の狂ったような足音が近づいてきた。  病室のドアが激しい勢いで押し開かれた。 「おい、おまえたち! とりおさえろ! 看護兵! どうして今まで気づかなかったんだ! 営倉ものだぞ、覚悟しとけ!」  ひとりが仁王立ちになって次々に指示を出す。  いちどに七人もの人間が、ノヴ・ノリスに跳びかかってきた。  たちまち自動拘束衣をかぶせられる。  全身があらがいようのない力で締めつけられた。他人事のような肉体反応や感覚が、しかしノリスを痛めつけた。 「眠らせろ! 眠らせるんだ! こんなに早く目を覚ます奴がいるとは思わなかった……」  背の高い、やせた東洋人は、なおも仁王立ちのまま、ようやく額の汗を拭った。だが、顔中に吹き出し続けている汗は、次から次へとあごを伝ってしたたり落ちている。 「ミネ軍医長! UH投与でよろしいですか?」  ノリスをなおも押えつけている一人が、その東洋人に叫んだ。  ングング、フウフウ、フウ……  ノリスの喉は、まだ奇怪な音を苦し気に洩らし続けている。 「UH!? まあ、いいだろう。急げ、意識をはっきりさせちゃいかん。とんでもないことになるぞ!」  ミネと呼ばれた男は、なおも怒鳴り続ける。 「おい! 従卒、この個体は誰だ、え?」 「はい、軍医長。G12、ノヴ・ノリスです」 「ノリス?」男は無表情になり、近づいてきてしゃがむと、ノリスの目をのぞき込んだ。 「おい、待てよ。この個体はひょっとすると、すでに正気づいているかもしれんぞ!」 男の顔色がさっと褪《さ》めるのが、はっきりと分った。 「……まずいことになった……しかし、しかし……」 「軍医長、UH投与の用意が済みました」  男の顔をうかがいながら、医療装置の末端をかまえた看護兵のひとりが小声で訊く。 「……いや、しかし……ちょっと待て!」  男は、看護兵の白衣の肩をぐいと掴んで引きもどした。 「UH投与は中止だ。このノリスを、わたしの特別処置室まで運んでくれ。まだ、�接続�に不安はあるが、それは時が解決してくれる。とりあえず、彼に話さねばならんことがある」  男は身体に似合わぬ、白く優雅な長い指先で、ノリスの褐色の毛でおおわれた胸元をなぜた。  その感触を、ノリスは自分のものとして知覚した。  混乱の後の空虚が、ノリスの心を満たしはじめていた。  いつか奇怪なうなり声もやんでいた。  濡れた布のような脱力感が全身を支配している。  ノリスは目を閉じようとした。  すると自然に目蓋が下がってきた。 「どうだね、ノリス君。声を出してみないかね」  再びかたわらにしゃがみ込んだ男が、妙に優しい声音を使った。  ノリスは、自分の喉のありかを痛みによって意識し、そこに力をこめた。 「……クククク……お、お、おれは……ヴ……リス……」  ノリスはようやくそれだけ発音し、不意に意識の遠ざかるのを感じた。     6 「ブロード大佐、そろそろ旗艦とランデブーするため発進しなくてはなりません」  いかつい身体を、さらにいかつい完全武装で包んだ伍長《ごちよう》が、油断なくあたりに目を配りながら、立ちつくすパトリック・ブロードに呼びかけた。 「うむ、すぐに行く、ヒンダ伍長」  ブロードは振り向いて短く答え、またノヴ・ノリスたちに向き直った。 「ノリス中尉……」  ブロードはその端正な顔立ちに、わずかに感傷の色を浮かべて口を開いた。 「死んだマルク・ゴゼイ中将は、最後まで君のことをわたしに話してくれていた。まったく第一級の軍人だ、と口を極めて賞讃《しようさん》していた。ゴゼイ中将が、なぜそれほどまでに君を買っていたのか、その時、わたしには分らなかった。しかし……」  ブロードはせきばらいひとつして、後を続けた。 「君と、この苦しい六か月間のコマンド訓練を共にして、わたしにはようやく、その意味が理解できた」  ブロードは、ノリスに手を差しのべた。  ノリスもそれに応えて、小さな前肢を差し出した。ブロードがそれを握った。 「君はまさしく、ゴゼイ中将が見込んだだけのことはある男だ」 「お世辞は嫌いです、大佐」  ノリスは握手を返しながら、率直に言った。 「あなたも、わたしも、そしてゴゼイ少将、いや、中将も、ともにこの戦場では最古参のひとりだった。だから、知らなくてもいいことや、知ってもしかたのないことまで、嫌と言う程つめこまれている。確かに、大佐、あなたの言う、この戦争の本質は正しいのかも知れない。しかし、はっきり言って、それは、このガルー戦隊全員にとって、何の関係もないことです」 「…………」ブロードは無言のまま、握手の掌を離した。 「だが、そのことは言いません。我々は、ただ、これが我々に軍から与えられた任務なのだ、ということだけを考えて、ベストをつくすつもりです」  ノヴ・ノリスは、今では全く意のままとなる太い力強い尾で大地を打った。  かすかに、ブロードの目におびえが走った。  それを見据えて、ノリスは続けた。 「そう……確かに、今の軍にとっては、敵を内部から攪乱するための特殊部隊、つまり、ガルーと見分けのつかない、本物の秘密部隊が必要だと思う。そのことを我々は納得しています。例えば、黒人ゲリラの支配地区へ潜入する時、白人が染料で顔を染め変装するのと同じだ……そう考えています。だから、無用な感情を我々に抱かないで欲しい」  ノヴ・ノリスは一気に喋った。  ブロードが、それにうなずく。  赤い荒野を、さらに真紅に染めて、今、落日の時が近づいていた。  ガルーたちの肉体を与えられ、精神的、身体的順応訓練、戦闘訓練、生存訓練を経て残った特攻遊撃戦隊隊員は計十三名。  野兎の皮をつづり合わせた粗末な衣服をまとい、古ぼけた雑嚢を背負って、旧式なライフル銃を手にするこの一隊は、どこから見てもガルーそのままだった。  夕陽に半身をくっきり染め抜かれたこの群像を見て、パトリック・ブロード大佐は、身体が震え出すほどの畏怖《いふ》を覚えた。 (確かに……)と彼は心中深く思った。(こうして火星の荒野に立った時、ガルーの姿は余りにもこの風景に似合っている……)  褐色のしたたかな風貌、砂嵐を怖れない剛毛、そして、ボロをまとい、旧式の銃をこっけいに構えても、決して消えることのない一種神々しい威厳がそこには感じられたのだ。 (……火星人、か……)  あのひょろりと青白い、弱々しい地球人植民者の末裔《まつえい》に比べて、ガルーたちは余りにもその名にふさわしく見えた。 (いやいや……彼等はガルーではない!)  ブロード大佐はひとり首を左右に振って、その思い込みを振り払った。(彼等はあくまでも人間だ。人間の軍隊の、特殊部隊員なのだ。彼等はガルーではない) 「大佐、すぐに出発しなくてはなりません。お急ぎ下さい」  立ちつくすブロードにヒンダ伍長が呼びかけた。 「あ、ああ……」  ブロードは夢から醒めたように、幾度もうなずき、そして目を上げた。  眼前には、やはり十三人の火星人が立っていた。  ブロードはふと、運命の神が、この十三人に何か、彼の想像をはるかに越える特別な任務をさずけるのではないか、という謂《いわ》れのない畏《おそ》れにとらわれた。  運命が、オーストラリアの大地に棲息していた、ただの無害な獣を火星人に仕立てようとしたのと同様に、今、その火星人《ガルー》を真似て荒野に立つ十三人を、ただの遊撃隊員にとどめておくとは思えない、そんな予感があったのだ。 「ノリス隊長、それに諸君」  ようやくブロードは別れの言葉に入った。 「もう何も言うつもりはない。諸君の身体は、各所、人工生体によって強化されている。普通のガルーより、はるかに無理がきくことは保証できるし、これまでの訓練で、その事は充分知りつくしているはずだ」  ブロードは、無言のまま彫像のように身じろぎもせず立ちつくすガルー戦隊のひとりひとりを見回した。 「だが、決して無謀な作戦はとるな。連絡を絶やさず、ともかく生きのびて、一年後の回収、そして再生手術まで元気でいて欲しい」  だが、ブロードは元より、ガルー戦隊の誰もが、人間への再生手術がほとんど見込みのないものであることを知っていた。  ガルー戦隊は全員、死を覚悟していた。いや、元より彼等は皆一度戦死したも同じ兵士たちばかりだったのだ。  つまり彼等はすでに人間ではなく、またガルーでもない、全く新しい生き物としてこの火星に投げ出されたのである。 「じゃあ、諸君。わたしは旗艦《ふね》にもどる」  ブロードは目をふせて、背を向けた。  そして一直線に、発進を待つ揚陸艇へと早足で進んで行った。  すでに、陽は地平線下に隠れた。  火星特有の急速な温度変化がはじまっていた。  揚陸艇のハッチをくぐるまでに、ブロードの精神はその寒気のために凍りついてしまっていた。 「さあ、帰ろう」  ヒンダ伍長にシート・べルトを装着されながら、誰に言うともなくブロード大佐はつぶやいた。  揚陸艇のロケット・エンジンが噴射を開始した。  三十人以上は楽に収容できる中型艇だが、秘密保持のため、パイロット正、副、それにブロードと伍長の四人だけが乗組員だった。  この計画に関与している人間は、ミネ軍医長の部下を含めても約五十名足らず。なかで、正確な実態を掴める立場にいるのは十名そこそこだった。  秘密保持は、ほとんど完璧と言えた。  逆に、そのための要員が三百名近くおり、彼等は実体の分らぬ秘密を守るため、乱雑な、時にはでたらめの情報操作に従事させられていた。  そして、この計画の作戦スケジュールは、ミネ博士にも知らされておらず、ガルー部隊の任務と、その呼び出しコード、受信コードは、ブロードとヒンダ伍長の二人しか知らなかった。  ガクリ、と艇はやや前のめりになりながら、上昇を開始した。  ブロードはシート横にあるヴィジ・スクリーンを通して、揚陸艇を見送る十三人のガルー戦隊の姿を追った。  しかし、小さなスクリーンの中で、それはすぐ山陰に隠れ見えなくなってしまった。  揚陸艇が、高度百メートルほどで、ゆっくりと西進しはじめたからだ。  ブロードがガルー戦隊との別れを少しばかり長びかせ過ぎたために、旗艦ドヌスとのランデブー予定地点が狂っていた。  パイロットはその計算を簡略化するため、すぐに軌道へと上昇せず、狂った分を地表面での移動に切り替えようと考えたのだ。  ブロードはしばらくして、その揚陸艇のおかしな動きに気づいた。  そして、ヒンダ伍長に呼びかけた。 「おい、伍長。なぜ、すぐに上昇しないんだ」 「ランデブー地点の補正をはしょってるんでしょう。すぐに上昇を始めると思います」 「大丈夫か……こんな低空を飛んで……」  ガルーたちの射撃術を知りつくしているブロードは眉をしかめた。 〈大佐、上昇に入ります。しばらくGがかかりますが、ごしんぼう下さい〉  その時、パイロットからのアナウンスが入った。  ブロードは、ほっと息をついた。艇内の暖房が徐々に彼の心を溶かしはじめてもいた。ブロードは、Gのしめつけにそなえて、身体をリラックスさせ、目を閉じた。  そして次の瞬間、ブロード大佐は、自分を見舞った運命が何なのかを見定める余裕もないまま、粉々の肉片と化して、即死した。  揚陸艇の進路上に、ちょうど運悪く、約七十匹ほどのガルーの部隊が移動中であり、彼等は逆に運良く飛び込んできたこの格好の射撃目標を見逃すつもりにはなれなかったのだ。  …………  揚陸艇の爆発音は、微かにノヴ・ノリスたちの耳にも届いた。  しかし艇がすぐ上昇していったとばかり思っている彼等は、その音とブロードの死を結びつけることはできなかった。 「さあ、行こう」  一瞬、背後を振り返ったノリスはすぐ向き直り、先頭に立って、東への道を辿りはじめた。  この時、まだ誰もが何も知らなかった。  しかし、戦争は、着実に新しい局面へと、展開し続けていた。  ノヴ・ノリスは、早くも星のまたたきはじめた火星の夕空を見上げた。  ガルーの肉体は、すでに零下十度にまで急降下した気温にも、まったく寒さを感じていなかった。  ノヴ・ノリスはまずそのことに感謝した。  すると、何故か、この恐怖に満ちたものであるはずの第一夜が、ひどく優しいものに思えてきた。  ノヴ・ノリスたち一行にとって、火星はもはや異境ではなかった。異境は知らぬ間に扉を開いて、彼等を包み込んでしまったのだ。  第3章 戦  線     1  冷え冷えと夜が明けた。  ノヴ・ノリスは、自分の太くたくましい尾を無意識のうちに痙攣させ、その気配でぼんやりと目を開いた。まだ頭の中は、はっきりとしない。  夜毎、ノリスの夢の世界へ侵入する名づけ得ないものたちの残滓《ざんし》が、未だに彼の精神のうちにわだかまっていたのだ。それは、見渡しきれないほどの群衆の、熱気に包まれた歓声に似ていた。それが、彼を夜毎押し包んで離さないのだった。  今、彼は目覚めてもなお、残響を聞いていた。そうやって意識の痺《しび》れを徐々にもみほぐしながら、ノヴ・ノリスは乾いた地衣類の褥《しとね》の微かな温もりにある種の幸福を感じていた、  目を上げれば地平線まで三キロ、プロトニルスの奇怪な岩石丘地帯が連なって見える。北方特有の暗い大地だ。 (グルルルルル……)  ノヴ・ノリスは、自分でも気づかぬうちに、喉を心地良げに鳴らしていた。  夜明けは、いつも彼を感動させた。  赤い大地の彼方からおごそかに姿を現わす血のような太陽は、地球の基準から考えれば驚くほど頼りない姿だったけれど、それだからこそ、この火星に住むものにとっては、まさに生命そのものを感じさせるのだ。  地球で見るぶよぶよに肥えふとった太陽より、それは厳しくいかめしく、そして精悍《せいかん》だった。  ノヴ・ノリスは思いきり肺をふくらませると、朝一番の神聖な冷気を身体中に行き渡らせた。  そして突然、硬直したように鼻孔をふくらませた。 (…………?)  彼は二度、三度と鼻面を空中に突き出して、大気を嗅《か》いだ。 (鉄だ……)  自分たちのものではない鉄の臭いが、どこからともなく忍び寄っている。風は東南東だ。ノリスは咄嗟に判断を迷い、無言で隣のG8・ランダルをゆり起こした。そして風を彼に示した。  ランダルもすぐにその鉄の臭いを嗅ぎとったらしい。慌ただしく地衣類のベッドから跳ね起きると、残り十一人のガルー戦隊員を叩き起こして回る。 (……やはり歩哨《ほしよう》を立てておくべきだったか……)ノリスはすっかりこの火星に馴染み判断の甘くなった自分を反省した。(我々はあくまでも特殊部隊なのだ……本物のガルーではない……我々は地球人なのだ……)そう幾度も自分に言い聞かせねばならない程、ノリスはこの土地に不思議な同化意識を強めてしまっていた。  パトリック・ブロード大佐のキャンプを離れ、火星北東象限の大シュルチスに近いイシス地方に投入されたノヴ・ノリスたちガルー戦隊は、ゆっくりと北西に移動しながら本物のガルーたちの領土奥深くへと侵入してきた。  創られたガルー……ガルーの強化された肉体に人間の頭脳を移植されたこのスーパー・ガルーたち十三人の一隊は、これまでのところ、本物のガルーに正体を見破られることもなく、巧みに彼等の動静を偵察しながら、彼等火星人が拠点地域として完全支配しているノスメノス地方へ接近しつつあった。  ブロードと別れて早や百日に近かった。  ノヴ・ノリスたちは、作戦以前にあらかじめ各地に投下された補給物資のストック・ポイントを辿って、この長征を続けていた。  旅程は順調だった。ストック・ポイントも、いくつかの例外を除けば、おおむね良好な状態のまま、食料と水を補給し続けてくれていた。もちろん、補給物資をガルーたちに発見され、持ち去られてしまっている場合もあった。そんな時ノリスたちは、訓練で得たサバイバル技術を試し、自力で荒野から食料を絞りだしてきた。  ノリスたち十三人にとって、それはしかし、一種のスポーツと言えた。  もともと、この火星の風土に信じられないほどの適応を示しているガルーの肉体である。それをミネ博士の生体合成手術が強化し、さらにブロード大佐のプログラム・トレーニングが鍛え抜いた。  ノヴ・ノリスと十二人の部下は、そのスーパー・ボディをまとって、実に楽々と火星の生存体系に自分たちを組み込むことができたのだ。  彼等は貧しい緑地帯から食用となる植物を選り出し、さらに根を堀り、果実を手に入れた。また、小口径の簡単な銃で火星の最も主要な野生動物である兎の群を追った。岩石地帯では、迷路のように流れる地下水脈を独特の嗅覚で探りあてた。  これらのことが、彼等にとっては全く苦にならなかった。  適応という意味でも、彼等はガルーを超える新しい存在と言えた。  そうやって旅を続けながら、彼等はガルーたちの集落、群団の移動、規模、戦闘部隊の装備、戦法などをつぶさに観察し、ブロードたちひと握りの派遣軍幹部だけが利用できるコンピューターの極秘データ・ファイルへと報告を送り込んでいったのだ。  火星軌道上を回る派遺軍旗艦ドヌスからは、送信の毎にきちんと受信確認信号が返ってきていた。  ノリスたちはそれを頼りに着実に任務を遂行していった。  ただひとつ、彼等が不安を感じていたのは、彼等が作戦についてから百日近く、当の作戦司令官ブロード大佐からただの一度も指示がとどかない、という点だった。  ノリスはこれまでに五度ほど、ブロード大佐と補佐役のヒンダ伍長に対する秘密呼び出しコードを発信したが、応答は全く得られなかった。  理由は不明だが、大佐はスーパー・ガルー戦隊とのコンタクトを絶ち切ったまま、ただ作戦の続行だけを求めているらしかった。  ノヴ・ノリスはそれについて深く考えようとしなかった。いや、したくなかった。  とにかく一年、すでに与えられた作戦スケジュールに沿って活動し、そして回収を待つ。それまでに出来るかぎり部下を損耗させないことだけを、彼は考えていたかったのだ。  その意味で、彼はブロードとのコンタクトが切れたままであることをむしろ喜んでもいた。  彼等スーパー・ガルー戦隊の任務は大きく分けて二つあった。ひとつは敵状の把握、分析であり、もうひとつは敵後方の攪乱、即ち実際のゲリラ戦決行であった。  しかし後者にあたる敵との接触、衝突は、ブロード大佐から直接指示があるまで極力避けよ、という事前の命令があったから、ノリスたちは大佐とのコンタクトが回復するまでは少なくとも積極的な破壊、殺戮工作に従事する必要がなかった。  ノヴ・ノリスにとって、そのことだけは救いだった。  いかに抜群の戦闘能力を持つとはいえ、彼等スーパー・ガルーの特攻遊撃戦隊はただの十三名である。  三倍以上の敵と接触すれば、どうしても被害がでる。下手に大部隊の尾を踏んでしまったりすれば、全滅も免れないだろう。しかも、ここメロエからプロニルスにかけての北方荒原には、予想をかなり上回るガルーたちが集結しているらしかった。  そうした読みから、ブロードが次の作戦への移行をためらっている、というのは大いにありそうなことと思えた。  ノヴ・ノリスは茶褐色の硬い美しい毛並でおおわれた屈強な身体を、ゆっくりと立ち上がらせた。  そして地平線をうかがう。  またたく間に野営地の整理を終えた十二名の戦隊員が、その回りに集合した。 「隊長、斥候を出しましょうか?」  かたわらに近づいたランダルが、同じように東南東の風に乗って流れてくる鉄や油の臭いに鼻をひくつかせながら、進言した。 「うむ……」  ノリスは喉の奥から、暖昧な声を出した。  彼はまだ迷っていた。  その臭いから、相手の正体が全くうかがえなかったためだ。  鉄の臭いの主が、ガルーたちの部隊であるとすれば、当然いっしょに特有の動物臭がただよってくるはずである。  しかし、ガルーの日なたっぽい獣臭は、その風に全く含まれていなかった。 (あるいは、地球人たちの部隊か……)  だが、人間の、今では嫌みったらしくさえ思われる汗の臭いもそこにはなかった。大体、このガルーたちの領土のこれだけ深部まで、大胆にも侵入してくる派遣部隊がいるとは思えなかった。  ノリスたちの偵察行はそのためのものであり、侵入不能地域であることを示唆する報告は、確実に旗艦ドヌスのデータ・ファイルに記録されているはずだったからである。  ただし、その情報を使いこなすべきブロード大佐の消息を、彼等は知り得ずにいたのだけれど…… 「……どうします、隊長?」  ランダルが旧式な火薬式のカービン銃をスリングで背に固定しながら再び訊いた。 「ああ……ともかく、敵の正体を確かめないわけにはゆくまい……」  ノヴ・ノリスは朝日に長くのびる奇岩群の影に目を据えたまま、ひとりごとのようにつぶやいた。 「分かりました。では、わたしとナギで偵察に出ます」  ランダルは命令に勇み立つ猟犬のような機敏さで、待機するナギと合図を交すと、大きな跳躍で荒原へと走り出ていった。  乾いた火星の砂ぼこりが、航跡のように駆け出した二人の後を追って舞い上った。 「よし、他の部隊員は散開しろ。いちおう、戦闘準備を整えておくように」  ようやく決断したノリスが太い尾を左右に振って、十人の部下を移動させる。  彼等はそれぞれに岩陰を探し、すぐその岩と見分けがつかない擬態の姿勢でうずくまった。ノリスも背の低い赤褐色の岩の後に身を潜める。  こうした擬態による待ち伏せをくらって、どれだけの派遣軍部隊が全滅の憂き目にあってきたかをノリスは苦々しく思い返した。  そして今、そのガルーの戦法をそのままにうずくまる自分が、ひどく奇妙な存在に思えた。  ノヴ・ノリスは気配を消し、ただ岩と同一化しようと努めながら、ひたすら臭覚で風を追った。  気温が速いペースで上昇している。  鉄と油の臭いは、ますますはっきりと大気を満たしはじめていた。  ノヴ・ノリスはふと自然な錯覚におちいっている自分を認めた。  彼は火星人であり、火星人の王国を敵から守るため、ここにこうして待機している……そして、今しも丘を越えて姿を現わすのは、憎んでも憎みきれない地球人の侵略者どもなのだ……と。 (火星人とは……いったい、誰なんだ……)  ノリスは朝日に背を心持良くさらしながら、意味のない問いを反芻《はんすう》した。 (この惑星を……いったい神は、誰のために用意したんだ……)  ノリスは�神�といった問題をそれほど真剣に考えるような男ではなかった、  しかし、漠然と、我々の世界を何ものかが見つめ、導いているような、そんなイメージを心の底にいつも持っていた。  そしてもっと心の奥底では、その神が、すでにこの惑星の主人を、はっきりと決定してしまっているのだ、と考えてもいた。  どう見ても、地球人は火星人と呼ばれるには似つかわしくなかった。  この赤い荒野に似合う姿、それは……。  ぴくり、と無意識にノリスの両耳が動いた。 (音だ……機械音だ……)  ノヴ・ノリスは、近くの岩陰にうずくまっている部下のひとり、G7・ラプロに目で合図を送った。  ラプロも微かにうなずいて、確認していることを知らせてくる。  と、二人の斥候が、消えていったのと同じ左翼の丘を越えて、全速力で帰還してくる姿が目に飛び込んできた。  火星の低重力下、二人のスーパー・ガルーは一回十五メートルを優に超える跳躍で、見る見るノリスたちの潜む岩原に接近してくる。  わずか十数秒で、ランダルとナギの斥候二人はノリスのかたわらに走り込んできた。 「どうした!」  岩陰から身を起こしたノリスが訊く。  二人はかなり息を乱していた。彼等の体力からして、それは考えられないことだった。何か、余程の心理的要因が、彼等の鼓動を異常に高めているに違いなかった。 「何だ! 何があった?」  ノリスは不安気になおも強くなる鉄の臭いに鼻をひくつかせた。 「部隊です。それも大部隊が接近してきます」  ナギがようやくそれだけ言った。 「部隊、だと?」 「そうです。完全に密閉され装甲された機動歩兵です。あんな奴等は、はじめて見ました」ランダルが続ける。 「派遣軍だと言うのか——!?」 「も、もちろんです。十隊ほど、総勢百体ほどの装甲歩兵団が西進してきます。一体ごと、まるで戦車のような装備をぶらさげています。想像したこともないような、重武装兵団です」  ナギが背を震わせたのがノリスにも分った。 「そうなんです、隊長。重武装兵というより、小型戦車を一人一人がコントロールして進軍してくる、といった具合で……恐らく、派遣軍の最新兵器に違いありません。それによる総攻撃かと思われます」  ランダルが落ち着きなく、尾の先を神経質にゆり動かしながら報告した。 「総攻撃……」  全く信じられない事態だった。  ブロード大佐以下、派遣軍の首脳たちが一体何を考えているのか、ノリスは全く判断がつかなかった。 「隊長、この位置はすでに非常に危険です。早急に避難するか、あるいは敵味方識別信号を発信して、我々の部隊の存在を知らせ、装甲歩兵団の後方へ回してもらう必要があります。このままでは、同士討ちにあって、たちまち全滅させられてしまいます。隊長、ご指示願います」  ランダルが甲高い声でノリスに迫った。  大気を震わす機械音はますます高まっていた。加えて、大地からも地鳴りのような振動が伝わってくる。 「分った! すぐ旗艦に打電しろ。司令部直通の緊急コードを使用するんだ! それから、戦闘通信周波数で識別信号を送るんだ。同士討ちなどという事態になっては死んでも死に切れん!」  ノリスの命令を待つまでもなく、通信担当のG2・ハイリイは通信器にかじりついて、旗艦ドヌスへの中継回路を探しはじめていた。 「……しかし、司令部の野郎は何を考えてやがるんだ」  吐き出すようにランダルがつぶやいた。思いはノリスも同じだった。 (これでは我々の部隊の意味が完全に失われてしまうではないか……)放心したように立ちつくしたまま、ノリスは思った。(正規軍をこの地域へ本格的に投入してくるのなら、何故、我々ゲリラ部隊を引き上げてからにしないのだ?……いや、通告ぐらいはあってもしかるべきだ……)  しかし、何もなかった。事前には、何のコンタクトも彼等には送られていなかった。  暗い怒りが、ノリスの胸のうちに湧き上った。 (司令部は、我々の部隊を見棄てたのか……我々の存在を忘れてしまったとでも言うのか……)  ノリスの視界が、興奮のために曇った。 「隊長! 駄目です。ドヌスの総司令部は、我々に通告せずにコードを全て入れ替えてしまったとしか思えません。ブロード大佐用コードも、副官のヒンダ伍長用の緊急コードも、抹消音が入ってくるだけでつながりません!」  悲鳴に近い声で、ハイリイが報告する。 「な、なんだと——!?」  ノリスは意味もなく天をにらみ、続けた。 「そんな、馬鹿な! 一般通信コードはどうなんだ?」 「それが、正規軍部隊がすべての回線を独占使用しているらしく、全く割り込めません。いや、コードが全て変更されてしまってるという可能性も考えられます!」  ハイリイが叫ぶ。 (……棄てられた、な……)  ノリスは頼るべきものもなく、ただ使い馴れた旧式のライフル一丁をしっかりと握りしめた。  なにかが、彼の中でふっきれたように感じられた。しかし、それが一体何なのか、ノリスには正確に分らなかった。 「よし、移動だ! ひとまず西へ退避する。それから北上して、敵の背後に出る!」 「敵? 敵ではありません、隊長。あの部隊は派遣軍です!」  ナギがあきれたようにノリスの言葉を訂正した。  思わず�敵�と呼んでしまったことを、ノリスはそう言われてはじめて気がついた。  しかし、今の彼の気分からすれば、その呼び名に違和感は全くなかった。 「我々の存在を脅かすものは、すべて敵だ。こうなれば、司令部がどう思おうと、とにかく我々は生きのびねばならない。我々に対する新しい指令がこないかぎり、我々はあらゆる自衛手段が許されていると考えるべきだ」  ノリスはついに怒りを声に出した。  ナギが驚いたように目を上げ、ついでノリスの胸のうちに思い至ったのか深くうなずくのが見えた。  ランダルが銃を高くかざして戦隊員に隊列を指示している。 「さあ、行くぞ! 戦争だ!」  ランダルが叫んだ。  ノリスが跳躍の先頭を切った。  十三の影が、いっせいに荒野を突き進みはじめた。巻き起こされた突風が、赤い荒々しい大地に、長い砂の軌跡を一直線に描いて彼等を追った。     2 「前方右翼! ガルー部隊発見、西へ移動中!」  装甲歩兵三号が余裕ある声で報告してくる。 「前方、約八キロ! 移動速度は時速四十キロから五十キロ」  もちろん、地平線までが三千メートル程度の視界しかないこの火星上で、その姿はまだ見えていない。  アクツ少尉はスクリーンをルックダウン・ヴィジョンに切り換えて、そのガルーの部隊を確認した。 「よし、見つけた。三号、そのまま先行して捕捉《ほそく》しろ」  アクツが命令する。  装甲歩兵小隊十五体は、今や敵影を捉え猛然と進軍を開始した。  歩兵とは言ってもこの最新鋭部隊は、その言葉の意味合いからは遠くへだたった機械化兵団である。  その昔、騎兵が馬を捨てヘリコプターに乗り替えてもなお�騎兵�を名乗ったのと同じようなものだ。  この歩兵隊は、全く自らの足で歩くこともなければ、自らの腕で崖《がけ》をよじのぼることもない。  ひとりひとりの兵は、言わば戦闘口ボットの単なる操縦者と言えた。  装甲歩兵団は、だから、一種の小型戦車隊のような性格の軍隊だった。  ただ戦車と違うのは、彼等を包んでいるのが精巧に制御された人体タイプの戦闘機械だった点である。  装甲歩兵前衛小隊長アクツ少尉は、地球からこの異境の戦場に配属されて間もない東洋人だった。  地球でのトレーニングとは全く異なり、低重力下で軽々と作動するこの装甲体が彼を完全に有頂天にしていた。 (そうさ、これでこそ、戦える。思うままに殺《や》りまくれる)  三本の走行脚を折りたたみ、高速キャタピラに切り替えた装甲体は、今や時速八十キロ近いスピードで、赤い大地を突き進んでいた。  アリゾナの砂漠で、せいぜい五十キロほどの能力しか発揮できなかった装甲体だが、今や小隊十五体はゆうゆうと抜きつ抜かれつの猛レースを展開しながら、敵に追いすがっている。  その軽快なフットワークが、彼を酔わせていたのだ。  アクツは、本物の戦争好きだった。  だから火星行きにも、自分から進んで志願した。  彼はある意味で精神的幼児だった。戦争は好きだが、人間を殺すというイメージにはどうも気に染まないものを感じていた。  だから火星こそは、彼に格好の戦場、プレイグラウンドと映っていた。  相手は何と言ってもただの獣だ。それは戦争と言うより、むしろサファリに近いものだと彼は考えていた。  彼は兵学校に在学中、ひたすら火星での奇妙な戦争が終結しないことだけを願っていた。  最新の掃討兵器を手に、逃げまどうガルーどもを片端から血祭りに上げる夢を、彼は毎晩のように見た。  しかし一方で、そんな動物相手の戦争が、なぜ何年も何年も続くのかを本気でいぶかしんでいた。  地球に報道される火星での闘いは、徹底的にコミカルで嘲笑的なものばかりだった。  猿程度にちょっと知能を高められた頓馬《とんま》なカンガルーどもが、生意気にも人間の奴隷であることを拒否し、自分たちで�火星人�などと名乗りを上げた、というジョーク。  そして野兎とネズミ、ひねこびた植物ばかりの漫画的な荒野で、この上もなく不潔で、みすぼらしい生活を送りながら、それでも必死で、ご主人様の地球人に歯向かっている、という哀れな物語。  何とかこの思い上ったカンガルーどもを改心させようとしていた地球人も、ついに怒り心頭に発し、彼等を征伐せんものと最新鋭の掃討部隊を火星に送りこむことを決定、という勇ましい戦記。  それらが、地球人の知っている火星のすべてだった。  だから、なぜ、そんな戦争が何年も続くのか、アクツ少尉には理解できなかったのだ。  きっと、地球からの派遣部隊は、火星で何も働こうとしないのだ、と彼は考えていた。  あるいは温情主義の司令官かなにかが、ガルーと言えども同じ生き物、皆殺しにする権利は我々地球人にはない、とか何とか、ゴタクを並べているのかもしれない。  そんな奴等の和解工作で、ガルーたちがますます図に乗って暴れているに違いない、とアクツは考えた。  だが、いつまでもそうは行かないぞ、とアクツは地球での日夜、ガルーに対する敵愾《てきがい》心をつのらせていた。 (この俺サマが乗り出せば、もう大丈夫だ。これまでの派遣軍兵士のように、地球を離れるというだけでブツクサ不平を並べ立てるような奴等とは、デキが違う)とアクツは独り心を熱くしてきたのだ。  その意味でも、彼はやはり幼児だった。 �英雄�の二文字が、彼の上に光り輝くことを、彼は信じて疑わなかった。 (俺が行けば……俺さえ戦場に出れば……そして、俺だけが、この戦争に結着をつけられる……)  アクツは、陽気な、だが幼稚な英雄志願者だった。  そしてそんな彼が、火星へ到着してすぐさま与えられたのが、この胸おどる大作戦だったのだ。 『装甲歩兵団は全部隊をもって敵ガルーの支配本拠地プロトニルス及びイスメノス地区に降下、上陸し、無差別掃討戦を展開すべし。同地区を占領、制圧後は、速やかに追撃戦に転じ、北東象限全域の支配を回復するまで作戦を続行されたし』  アクツの小隊は、そのなかでも特に前衛に任ぜられ、敵の真只中に先陣を切って躍り込む役割を与えられて、大いに士気を高めた。  そして、上陸初日には、ガルー三十匹ほどの集落を奇襲して全滅させ、血をさらにたぎらせて北上の途中だったのである。 「おい、今日もツイてるぜ! 日の出早々、ガルーどもとご対面だ」  若い小隊員が軽口を叩きながら、アクツのそばを駆け抜けて先頭に立つ。 「イヤッホー! 見えてきたぜ、ガルーどもがァ! ワハハハハハ……見ろよ、もう必死で逃げてる! 二、四、六……なんだ、たったの十匹ちょっとだ」  別の隊員が軽く口笛を吹く。 「これじゃあ、戦争にならねえや。早いモン勝ちだ、俺は先に行くぜ!」  若い隊員たちは我勝ちに装甲体のスロットルを開き、全速力で突撃に移った。 「コラッ! 貴様等、隊列を崩すな。俺を追い抜いた奴は、営倉にぶち込むぞ」  アクツも完全な躁状態で笑いころげながら、装甲体を蛇行させ、追い越しを妨害する。 「小隊長! あっ、危ねえなあ。やめてくださいよう!」  陽気な小隊は、まるで酔っぱらいの集団のように、強力極まりない装甲体どうしをじゃれあわせながら、疾駆した。  見る見るガルーたちの一団が、前方に迫ってくる。  彼等も必死の逃走である。  その時、コントロール・パネルの左端で、小さなシグナルが激しく点滅しはじめた。 「あっ! 小隊長、識別信号です。どこか近くに味方がいるんだ!」  誰かが叫んだ。 「いや、そんなはずはないぞ。俺たちより前進している部隊があるとは絶対に思えん。見えるのは、あのガルーどもだけだ!」  アクツが怒鳴り返す。 「しかし、同士討ちの危険があります! この信号は、その注意のシグナルです!」  別な一人がわめいた。 「どこだ? どこに味方がいるってんだ!」  アクツはスクリーンを素早く左右に振って、射程内の全域を走査した。  しかし、どう捜してもあたりには、彼等の歩兵団十五体と、逃走を続けるガルーたち十三匹の姿しか見出せない。  アクツはふと思い立って、スクリーンを拡大した。ガルーたちにフォーカスを合わせる。 「くそっ! ダマされるな、おまえたち!」  アクツか怒鳴った。 「見ろ! あのガルーどもの一匹を!」  それは、先頭から三番目を走るガルーだった。走りながら片手で何かを必死に操作している。 「あいつだ、三番目のガルーだ。あいつの持っているのは識別通信器だ。それが俺たちのオッド・ロッドに感じているんだ。くそったれめが! どっかで盗みだした機械で、俺たらをハメようとしてやがるんだ」  アクツが怒りで声を歪めた。  動物の分際で人間の戦闘メカニズムを利用し、一瞬でも彼をとまどわせたことに、アクツは無性に腹を立てていた。 (人間サマを、ダマそうとしやがった! 許せん! 許せん!)  アクツは、点滅するシグナルをにらみつけると、思いきりスロットルに叩きつけて全開させた。  緊急加速装置が働き出し、装甲体は瞬間百キロを超える猛スピードでダッシュする。  他の小隊員も突撃をかけた。  と、その途端、ガルーたちの隊列がいっせいに散開した。  前方に岩だらけの荒原が見えている。ガルーたちはバラバラになって、そこへ逃げこむつもりらしい。  アクツはもう待っていられなかった。  小型のレーザー銃を肉眼で照準し、発射ボタンを押した。  通信器を持つガルーの後を駆けていた一匹が、もんどりうって大地に叩きつけられた。 (くそっ! 一匹だって逃がすものか!)  アクツは、また慎重に肉眼で照準した。  これが、彼のやり方だった。相手は無知で愚かな動物だ。人間は奴等を狩る存在なのだ、とアクツは信じていた。  だから、ハンディキャップが必要だ、とアクツは考えていたのだ。  百発百中のレーダー照準では、いくらなんでも面白くない。狩りは、この自分の目で充分だ。そうすれば旧式なライフル銃しか持たず、当然肉眼照準で反撃してくるガルーどもと、貸し借りなしの一騎打ちができる。  それくらいしてやらなきゃあ、人間として恥ずかしいぜ、とアクツはつねづね小隊員に説いていた。そうでもしなきゃあ、まるで俺たちは、本気でガルーと戦争してるような気分になっちまうじゃないか。なあに、こいつは本物の戦争なんかじゃありゃしない。ただの、狩りさ。奴等をこらしめて、もう逆らったりはいたしません、と思い知らせてやれば、それでいいのさ……これがアクツの口癖だった。  だから今日も、小隊員たちは全員、アクツにならって肉眼でガルーを狙《ねら》い撃っていた。  すでに、四体が、鋭いレーザー光線に身体を切り裂かれて息絶えていた。  残りのガルーは必死だ。  彼等の半数ほどは、もう前方の林立する岩の迷路に跳び込んで、さらにあちこち位置を変え続けながら、時おり旧式な豆鉄砲で撃ち返してくる。  ガルーの巧みなジグザグ走法にまどわされて、小隊の射線は今ひとつ精彩がない。  それでもアクツは、ようやくのことでもう一匹を仕とめた。 「や、やられた!」  絶叫が突然、アクツのヘルメットの中で炸裂《さくれつ》した。 「誰だ!? どうした!」  アクツもマイクに怒鳴り返す。  と、次の瞬間、かたわらで一台の装甲体が爆発を起こした。  装甲歩兵六号だ。腹に吊っているハンド・ミサイルを狙い撃たれたらしい、中の歩兵ともども、すさまじいパワーをつめこんでいる装甲体は粉々になって吹き飛んだ。  爆風をまともに食らって、アクツの装甲体は異音を発して転倒した。  さらに、爆発した六号のすぐ前方で戦闘中だった十一号も誘爆する。  パワー・ユニットが、火を吹きながら、まるでロケットのように空へはじけ飛んでいくのがちらりと見えた。 「な、なまいきな、畜生どもがァ!」  アクツは、もう完全に自制心を喪《うしな》っていた。  無理矢理、倒れた自分の装甲体を復元させる。左側の作業肢が完全につぶれてしまって役に立たない。だかアクツはそんなことにかまわず、装甲体を突撃させた。  残った右の作業肢と、補助肢で、ハンド・ミサイルをランチャーに押し込み、手あたり次第発射する。  前方の岩原のあちこちで、爆発が連続した。  仲間を一度に二体も失って、他の部隊員も恐怖と狂気にとらわれてしまっていた。  もはや冷静な照準も何もない。  ただ、ガルーたちが逃げ込んだと思えるあたりめがけて、ありったけの爆発物を投げ込みはじめたのだ。  一面が炎の海と化した。 「待て! 攻撃を中止しろ! 中止するんだ!」  真先に我を忘れたアクツだが、三十秒ほどで、さすがに指揮官らしく自分を取りもどした。 「やめろ! 分らんのか、やめるんだ! これ以上、地面をほじくり返しても無駄だ。どうせ奴等はみんな蒸し焼きになっただろう」  アクツは最後まで攻撃をやめない若い兵隊の装甲体に、自分から体当りを食わせて怒鳴った。  ようやく小隊員の間に正気が還ってきた。  白々とした気分が、焼けただれた戦場に流れはじめた。 「……しかし、あの畜生どもも、ようやるわい……」  誰に言うともなくアクツはつぶやいた。  二体のメチャクチャに破壊された装甲体の回りに、他の隊員が集まってきた。 「六号と十一号か……」 「インダとスミスです。インダはともかく、スミスは運がなかった……」  しんみりとひとりの隊員がつぶやいた。 「仇《かたき》はとる」断固たる口調で、アクツは隊員たちの感傷を絶ち切った。「ところで、ガルーは何匹やった?」 「五匹は死体が確認できます。ですが、あの岩原に逃げ込んだ奴等となると、分らんでしょう。ミサイルが命中していれば、当然死体もなにも蒸発してしまっているでしょうし……」  三号が答える。  アクツは七号と八号に見張りを命じ、小破した自分の装甲体のハッチを開いて外へ出た。  一瞬、薄い空気に大きくあえぐ。  二号も、工具を持って装甲体から這い出してきた。 「小隊長、被害はわたしが見ます。もしひどいようなら、わたしの装甲体と替えてください」 「うむ……」  アクツは小さくうなずき、次々と地面に降り立ってきた他の隊員とともに、深呼吸を繰り返した。  七号と八号だけは、ゆっくりと周囲を移動しながら、敵の奇襲に目を光らせている。 「小隊長、本隊への連絡は?」  二号が呼びかけてくる。 「ああ、俺が後でしておくよ……」  アクツは力なく答え、ようやく呼吸を整えた。 「隊長、こいつ生きてやがる!」 「本当だ! まだ息をしてる」  ガルーの死体を見て回っていた若い隊員が口々に叫び立てはじめた。 「おっ?」  アクツは振り向いた。  数人の隊員が、一匹の大柄なガルーの回りにとりついて、さかんに足蹴《あしげ》りを食わせたり、つばを吐きかけたりしている。 「本当か!?」 「隊長、早く来て下さい! この畜生、何か喋ってますぜ」  ひとりが目を丸くして、アクツに手を振っている。  アクツはまた子供らしい好奇心をよみがえらせ、小走りにその倒れているガルーのもとへ駆け寄った。 「この野郎、人間さまに楯突《たてつ》きやがって。死ぬまでに思いきり苦しい目に会わせてやるぞ!」  アクツはいきなりガルーを蹴りつけた。 「…………」  ガルーはすでに苦痛も感じないのか、かすかに胴体を震わせている。 「くそったれめが! おい、誰かナイフを貸せ」  アクツの目がサディスティックにギラつきはじめた。 「隊長、どうぞお使い下さい」  かたわらで見守るひとりが、馬鹿でかいフォールディング・ナイフの刃を開きながら、アクツに差し出した。  アクツはそれを無造作に受けとり、片ひざをつくと素早い動作でガルーの下腹部に突き刺した。 「ウグ……ググググ……」  ガルーがたまらず呻いた。 「どうだ、苦しいか、ええ? これはお前等に殺されたインダの分だ」  ナイフを引き抜くと、アクツはさらにひと突き、今度は脇腹《わきばら》に刃をめり込ませた。 「これは、スミスの分だ!」  ガルーがぴくり、ぴくりと全身をひきつらせた。  と、突然そのガルーの喉の奥から唸り声に似た言葉が洩れた。 「……お、おまえ……かならず、軍法会議に……」  見守る小隊員がいっせいにざわめいた。 「おい、この畜生、また喋ったぜ」 「ああ、聞いたとも。糞《くそ》ったれが!」  口々に罵《ののし》る。それをアクツが制した。 「おい! 何て言った。軍法会議だと? どういうつもりだ」  アクツはまたナイフを腹にねじり込んだ。 「オ、オレは地球……人だ……ブ、ブロード大佐……連絡……ブ、ブ、ブロード……」  アクツの表情が困惑で歪んた。  彼はブロード大佐の名前を知っていたからだ。いや、知っているどころではない。アクツは、火星の荒野で英雄的爆死をとげたブロードが兵学校で教官を務めていた時代の教え子だったのだ。 「何だと! もういっぺん言ってみろ! ブロード大佐の事をどうして知ってる!?」  アクツはナイフの柄をぐりぐりと回しながら、ガルーに迫った。  ひょっとしたら、このガルーが大佐殺害の張本人かもしれない、とそんな気がしたのだ。 「ブ……ブ……ブロード大佐……連絡……グ、グ、グルルルルル……」  ガルーは大量の血を口と鼻孔から吹き出した。 「オ……オレ……ブロード大佐……運んでくれ……きさま……死刑に……して……」 「何を言ってる! ブロード少将殿は、畜生どもの手にかかって、もう三月以上前に戦死なさっておるわ! この低能カンガルーめ! 識別信号で俺たちをハメようと小細工しやがって、そればかりかブロード少将殿の名前まで……許さんぞ! 英雄の名を汚しおって!」  アクツは顔面を朱色に染め、ナイフをさらにねじ込んだ。  しかしガルーは、そんな仕打ちも感じないかのように大きく目を見開いて、アクツをにらみ返して来た。 「……な、なに?……死んだ?……嘘を言うな!」 「この野郎! まだ言うか」  アクツはナイフを引き抜いて握り直すと、所かまわずそれをガルーの身体に突き立て、引き裂いた。 「この野郎! 思い知れ、地球人はなァ、おまえら畜生を、こうやって皆殺しにしてやるんだ!」  狂気が再びアクツを捉えていた。 「……ウソだ……ブ、ブロード……大佐は……ウソだ……ウソだァ!」  一声叫んで、ガルーは死んだ。  血まみれの得物を手に、肩で息をつきながら、アクツはようやくガルーの死体から離れた。 「……なんだい、こいつは……」  見守っていた隊員のひとりが、気味悪気に靴の先でガルーの死体を小突いた。  それは力なくぐらりとあお向けに転がった。 「あれっ? あれっ!?」  突然、別のひとりがすっとんきょうな声を上げた。 「あれっ? カンガルーの脳ミソってのは、胸のへんに入ってたんだっけ?」  その隊員が言った。 「バカを言うなよ、ケニー。おまえは一体、どこの幼稚園を出たんだい」  回りの隊員が笑い出す。 「だって、これを見ろよ! この、胸からはみ出してるのは、何と言っても脳ミソに似ているぜ!」  ケニーは言い張る。 「ちぇっ、何だ、また」  アクツは激情から醒めた男特有の呆《ほう》けた顔で振り返り、再びガルーの死体を見下ろした。 「う……」アクツは呻いた。  確かに、大きく開いた傷口からのぞいているのは人間の脳髄に似ている白っぽい器官だった。  アクツはかがみ込み、さらにその傷口を切開した。 「……おかしい……この周囲を包んでる被膜は、シリコンだ……それに、それに……」  アクツは完全にとまどった表情で、そこから小さな血まみれの物体をひきずり出した。 「あっ! それは」  見下ろす隊員の眉が一様に曇った。  その黒っぽい小さな箱は、プラスチック様の物質でできていた。さらにそこからは血管に似た電線の束がのびている。  しかし、何より彼等を困惑させたのは、その箱に刻まれたマークだった。  それは派遣軍軍医局の刻印であり、彼等がいつも支給される医療品で見馴れているものだったのだ。  そして、その箱からのびる電線は、シリコンの被膜におおわれた、人間のものとそっくりの大脳につながっていた。 「こいつ、さっき、軍法会議がどうの、と言ってましたぜ……」  誰かがポツリ、と不吉な言葉を吐いた。  アクツはポロリと、その箱を手からとり落とした。  そして一瞬後、彼はナイフを握ってガルーの頭蓋《ずがい》にとびついた。物も言わず、憑《つ》かれたような動作で骨をこじ開ける。  隊員たちは言いようのない原初的な恐怖にとらわれて、アクツのふるまいをただ見守り続けた。  やがて頭蓋骨が割れた。  そしてその中には、ガルー本来のものと思われる灰色の脳髄、そしてやはり軍医局の刻印がある得体の知れぬ装置がのぞいていた。  アクツがナイフを放り出した。  彼の両腕は、ひじまでぬるぬるの血で濡《ぬ》れていた。 「……分らん……だが、何か、とんでもない事をしてしまったような気がする……」  アクツが非個性的なかすれ声を立てた。 「いったい……こいつは何だ……知ってはいけない秘密を見てしまったというのか……いったい、いったい……」  アクツは血まみれの手で、自分の頭をかかえこんだ。そして、うずくまった。 「隊長! 何でもありませんよ、忘れましょう。ナパームで焼き払えば、何の痕跡《こんせき》も残りません。大丈夫です、オレたちを信じて下さい」  二号が、アクツの肩を背後から抱きかかえた。 「そうですとも」 「行きましょう、隊長!」  隊員たちは口々に言って、現場から離れはじめた。  二号はすっかり放心状態のアクツを自分の装甲体に押し込み、それからガルーたちの死体を一か所に引きずってきて、その中央に時限装置とナパーム弾をセットした。  この火葬の臭いは、応戦準備中のガルー部隊をことさらに刺激せずにはおかなかった。  二時間後、アクツ他十三体の装甲歩兵は、プロトニルスの中央部付近を西進中、百丁近いガルーのライフルによる集中攻撃を受け、一瞬にして全滅した。     3  ナギの火傷《やけど》は見た目以上に深刻だった。  ハンド・ミサイルの弾頭の一部が脇腹に食い込み、そこで緩燃焼したため、内臓までがぐちゃぐちゃに焼けただれてしまっていたのだ。 「……だめだ……」  ナギがぽつりと言って目を閉じた。 「……苦しい……殺してくれ……」  ノヴ・ノリスはナギの懇願に答えず、目をそむけた。  ナギ以上にノリスの心は苦しかった。  派遣軍の火線によって五名が倒され、さらにミサイルの無差別攻撃で三名が重傷を負った。  あの戦闘から、すでに六時間余りが経過していた。その間に、さらにハイリイも死んだ。  他の隊員も多かれ少なかれ負傷していた。  ハイリイに続いてナギまでが死亡するとなると、ノリスの戦隊は十三人から一挙に六人にまで弱体化することになる。そして、それも時間の問題と思われた。  ラプロも左腕を骨折して苦しんでいるが、こちらは治癒の可能性が高い。全身に受けた外傷も見かけは派手だが、手の打ちようがある。  問題はナギだった。  ノヴ・ノリスは目を宙にさまよわせながら、ぐるぐると一層混乱の度を深めてゆく自分の思考の網目をぼんやりと意識していた。  目を落とすと、ハイリイの遺品となった通信装置がポツンと地面に置かれてあった。  荒野のあちこちで、激しい戦闘音が今も断続している。  あの装甲兵団とガルーの大部隊の衝突がいよいよ本格化しはじめたのだろう。  あの部隊ならあるいはガルーの正規軍を圧倒できるかもしれない、とノリスはぼんやり考えた。  しかし、たとえこの北東象限で地球人の部隊が勝利したとしても、そのことがノリスたちの運命とどのような形でかかわってくるのかを考えると、彼はより以上に複雑な気分にならざるを得なかった。 (いやいや、大丈夫だ……あの訓練しつくされたガルーの戦士たちが、そう簡単に自分たちの領土を明け渡すはずがない……)  ノヴ・ノリスは、もはや地球人であることを全く精神の支柱にできなくなっている自分に気づいていた。  彼と彼の戦隊は、完全に状況からしめだしをくらった存在となってしまっていたのだ。  彼等は彼等自身のためだけに生き、戦い続けねばならない。  深い空虚が、ノリスの胸のうちに大きく口を開きはじめた。  ノリスは突然銃を振り上げた。そして地面にきちんと置かれている通信装置めがけて振り下ろした。 「隊長!」 「どうしたんです、隊長」 「それがなくては、我々は……」 「隊長!」  生き残りの隊員が口々に叫んだ。  しかし、ノリスは黙々と破壊作業を続けた。  銃の台尻《だいじり》がはじけとぶ頃には、通信装置は跡形もなく粉砕されていた。  ノリスは通信装置の残骸《ざんがい》の上へ、これも半分に折れ曲った銃身を投げすてた。そしてやや荒い息を整えながら、目を上げて、見守る一同を順番に観察した。  地面に横たわるナギとラプロ、それにG5・ウィンチェル、G8・ランダル、G11・ノーザ、G13・リック……そのうち歴戦の三人は、すでにノリスの真意を見抜いていた。  ただ、若いウィンチェル、ラプロ、リックなどは、恐怖を目の底に沈ませ、はっきりと不信を表情に浮かべていた。 「隊長、わたしは……」喋りだそうとするリックをノヴ・ノリスは制した。 「違う、違うんだ……」ノリスはゆっくりと口を開いた。「俺は気が狂ったわけではない」 「も、もちろんです。なにも、そんな……」ウィンチェルが、あわてて尾を振った。 「分ってますよ、隊長……」ランダルが沈痛にうなずき返してきた。  ノリスには彼の落ち着きだけが頼もしかった。 「我々は、地球人の派遣軍から、どうやら棄てられたらしい……」ノリスが言った、「あるいは何か、思いもかけないような事態が起こって、我々のことが忘れられてしまったか、だ……」 「ブロード大佐はそんな方じゃない……」ラプロが苦し気に身体の向きを変えると、それでも必死で抗弁しようとする。「大佐は、決して我々のことを見棄てたりなさる方じゃない!」 「そうとも、ラプロ」ノリスはラプロの目を見つめながら微かに鼻を歪めた。「だが、そのブロード大佐に何かが起こったのだとしたら……」 「隊長、わたしもそれを考えていました」ランダルが一歩片足を踏み出した。「だいたいこの任務はひと握りの関係者しか知らされていない一級極秘作戦です。もしブロード大佐が何らかの理由で派遣軍からはずされたとなると、作戦自体が記録から欠落してしまう可能性があるのではないかと……」 「そんな……!」ウィンチェルが悲鳴に似た声を絞り出した。 「あり得ることだ。あるいは、この作戦を知った軍の上層部が、許しがたい非人間的任務だ、とかなんとか言い出し、ブロード大佐ごと、このような事実があったことを葬り去ろうとしているのかもしれない。今日の力ずくの作戦で、俺は感じたのだ。ああ、これはブロード大佐のやり口じゃない、とな」  ノリスはきつく目を閉じた。 「ともかく、我々に出来ることはひとつしかない。我々自身の力で我々を守り、そして生きのびることだ。そしていつの日か……いつの日か……」  ノリスはその先を続けることができなかった。(いつの日か……我々はどうするというのだ……)  地球人の軍隊と何とかコンタクトをとり、この秘密作戦の存在をぶちまけるとでも言うのか…… (いや、彼等が本気でこの件を抹殺しようとしているのであれば、それは俺たちにとって自殺行為でしかない)ノリスは再び自分だけの考えに沈み込んた。 (では、いつまでもこの火星で、ガルーとして生きるのか……ガルーになりすまして生きるのか……)  道はもうひとつある、とノリスは思った。あくまでもガルーのふりをして地球人に投降することだ。そして、協力的な奴隷ガルーとして、今では数少なくなった地球人たちの拠点で働き、保護を受けるのだ。  しかし、その道は論外だった。それは死よりもずっとずっと悪い生き方だ、とノリスは思った。一秒たりともその屈辱には耐えられないに違いない。 (では、どうする……いつの日か……どうする、というのだ……)  突然、何ものかが大気を切り裂いて頭上を通過した。  その気配に、ノリスは思わず大地に身体を投げた。そして一度、二度、転がって手近な武器にとびついた。  他の隊員も思い思いの即戦態勢をとる。 「何だ! 今のは何だ!」  ノリスが上空に視線を走らせながら、叫ぶ。  目を閉じ、物思いにふけっていたノリスは、そのものの正体を掴みかねていた。 「偵察球です。いや、そのようでした! 超低空を高速で飛来してきたため、全く気づきませんでした」ノーザが歯がみしながら答えた。「おそらく、おそらく、我々の部隊は発見されたと思います」  装甲歩兵団がこの見すてられた岩だらけの地域にまで進攻してきたらしい。あるいは、ガルーの反撃に会って追い込まれてきたのかもしれない。  いずれにせよ、偵察球はその先触れに違いなかった。 「どうします。隊長……」  ランダルが低い声で唸るように言った。  ランダルが言いたいのはナギの処置のことであろう。  骨折しているとは言えラプロなら自力で移動できる。だが息をしているのがやっとというナギは、一歩でも動かせばそれだけで死神の大鎌《おおがま》にさらわれそうだった。 「隊長……隊長……早く逃げてください……オレはもう……」  虫の息になりながら、ナギはまだ隊のことを考えている。 「……誰かが……誰かが、生きのびてくれなくては……このままでは、死にきれない……」  ナギの呼吸はすでに危険なほど不規則になっている。にもかかわらず、ナギは必死で訴えかけている。  ノリスは首を振ってそんなナギを黙らせた。 「いや、逃げても逃げきれるもんじゃない。さっきで分かっただろう、奴等は恐ろしく自在に動ける戦車だ。また狩りたてられるのはゴメンだ。ここで迎撃する」  ノリスは言いきった。 「分かりました、隊長!」ランダルがうれしそうな大声で応じた。  ナギとランダルは古くからの戦友だった。ノリスもその意味では同じだった。たとえ、いつかは死ぬと分かっていても、息のある戦友を見棄てて敗走はできない。 「いいか、できるだけ引きつけてから応戦するんだ。分かってるだろう、あの装甲の外部にブラブラしているミサイルや爆発物を狙うんだそ! あれが奴等のアキレス腱《けん》だからな」  ノリスは指示しながら、ついに火星の実態を理解しようとせず、無闇に新兵器を送りこんでくる用兵者たちを腹の底で嘲笑《あざわら》った。  いくら分厚い装甲で守られていても、その回りに爆弾をぶら下げて歩いていればそれを狙い撃たれて自滅することくらい、子供にも分かりそうなものだった。  だが、それら兵器の考案者たちは、たかが猿頭のカンガルーに、そんな正確な射撃などできるわけがない、とハナから信じこまされているに違いなかった。  この火星での戦争は、その発端からしてそうだった。  地球人は決してガルーたちの能力を評価しようとしなかった。いや、できなかった。それは、奴隷を人間と対等に考えることであり、そうすることで、この戦争のそもそもの正当性が失われることを怖れているのだ。  もしガルーがそれなりの知性体であり、火星人と名乗るにふさわしい生物であると認めれば、地球人は少なくとも奴隷征伐といった大時代的な余裕を失い、戦争は全く質を異にする深刻な課題を投げかけてくることとなる。  人類は、万物の霊長という居心地の良い思想的立場を失い、それをめぐる種をかけた闘いに突入しなくてはならなくなるのだ。  そうなれば、結果は目に見えている。  人類は築き上げた火星という初めての植民惑星を、ガルーもろとも破滅させねばならなくなるだろう。地球人はこの闘いに勝利する。だが、そこへ踏み切るには、地球人たちはこの火星という莫大な投資のもとに生まれた財産に未練を持ち過ぎていた。  だから、地球人はこの戦争を、知性体どうしの主導権争いというレヴェルでは絶対に考えようとしたがらないのだった。  その認識が、火星の戦場で使用される武器の設計思想にまで影響を与え、そして兵士は地獄へと墜ち続けなくてはならなかった。  ノリスもまた、そんな地球人の傲慢《ごうまん》さの最悪の犠牲者と言えた。 (ブロード大佐は違った……彼は、この戦争を見通していた)とノリスはぼんやりと思った。(大佐は結局そのためにこの戦場を去らねばならなかったのではないか……)  もう一度、大佐に会いたい、とノリスは熱烈に感じた。そして知り得たガルーに関する情報をこの口から洗いざらい報告したい、とノリスは思った。その情報の真価を分析し、戦略に生かせる人間は、彼の知るかぎり大佐しか思い浮かばなかった。 「来た!」  叫んだのはノーザだ。 (十体……二十体……いや四十体以上……)  地平線を越えて次々と姿を現わす装甲歩兵は、猛然とスピードを上げながら、一直線にノリスたちの潜む岩場めがけて突進してくる。  やはり偵察球によって発見されていたのだ。いや、今この瞬間も、軌道上の衛星がしっかりと彼等にフォーカスを合わせているのかもしれない。  いずれにしても逃げ切れるものではない。  ともかく今できることは、戦うことだけだ。さもなければ、殺されるだけだ。  装甲歩兵団は隊形を変えはじめた。横一線に広がり、この小規模な丘状の岩場を取り囲む形で突進してくる。  たかが十匹に満たないガルーを掃討しようとするにしては、大げさな行動だ。 (いや、奴等の目標は俺たちだけじゃない!)  ノリスは突然それに気づいた。  兵団の布陣は、ノリスたちの隠れる岩場の背後に続く巨岩地帯までも包み込もうとしているもののようだ。 (…………!)  ということは、背後にもそこに潜む何ものかがいるということだ。  しかも、五十体近い装甲歩兵団を本気にさせるほどの何かが、だ。  ノヴ・ノリスはその推測に呻いた。  前面に地球人の軍団、背後にガルーの群団……状況は絶望的だ。  見る見る歩兵団の装甲戦闘体が追ってくる。  散開し、三体ずつチームを組んで、それは一帯を押し包むように進撃してくる。また、彼等は発砲しない。  こちらの攻撃を待ち、それによって正確な位置をつきとめて一挙に襲いかかる作戦らしい。  先頭集団はすでにノリスたちの射程に入ってきた。  こうなれば先制しかない。無抵抗のまま、奴等の歩行脚に踏みつぶされることはない。 「よし! 行くぞ」  ノリスがかたわらのランダルを小突いた。  そして真先に岩陰から銃口を突き出す。  セレクターは三点射ずつのモードに合わせてある。  ダダダ……ダダダ……ダダダ……  五丁のライフルが前後して小口径の高速弾を送り出しはじめた。  と、奇跡が起こった。  まだ八百メートルを越える距離があり、正確な照準とは言えないにもかかわらず、そのうちの数弾が一体の外面に装備されているロケット・ランチャーを切り裂いたのだ。  たちまち爆発が起こった。  密集体形で進撃中だった他の二体もあおりを食らって空中に吹き飛ぶ。たちまち誘爆が起こった。 「やった! やったぜ!」  リックが躍り上がらんばかりに、歓声を上げた。  だが、そこまでだった。  次の瞬間、ノリスたちの岩場は、レーザーの無数の射線に包まれた。  周辺の岩が次々に切り刻まれ、高熱で溶解する。  岩場はたちまち隠れ場所もない丸山のような地形に変化しはじめた。  リックが悲鳴を上げる間もなく、レーザーの一閃《いつせん》で肉体を二つに断ち切られた。  と、突然、この岩場の上に突き出していたかなりの大きさの張り出しが、ガラガラと崩壊をはじめた。  こぶし大の岩のかけらが、バラバラとノリスたちの一隊に降り注いでくる。 「後退だ! 後退しろ!」  ノリスが岩の雨に打たれながら、横たわるナギをかばう。  ランダルがその足にとりついた。  二人してナギを運び出しにかかる。  ラプロは尾と片手で這うようにしながらも、自力で後退しようとしている。  ノーザがそれを手伝う。  ウィンチェルも両手で落石を振りはらいながら跳び出してくる。  その時だ。  ノリスは一瞬、背後の巨岩地帯が爆発したように思って全身を硬直させた。  しかし、そうではなかった。  それが巨岩のくぼみにとりついて身を隠し、満を持していた無数のガルーたちの一斉射撃なのだと気づくまでには、しばらく時間が必要だった。  そして振り返ったノリスは、装甲歩兵団がその展開した全戦線にわたって次々と爆発する光景を目撃した。  第二撃が巨岩地帯全域をゆるがした。  そして完全に制御されたその銃声がおさまった時、満足な姿で残っている装甲歩兵は数えるほどしかなかった。  そして、三度目の銃声が、すべてをこの赤い地表から葬り去った。  ノリスは目を閉じた。  彼はもう何も考えたくなかった。ただナギの上半身をかかえて呆然《ぼうぜん》とうずくまるのみだった。     4 「おまえは、何だ?」  そのガルーは、静かな声で訊いた。  咄嗟にノリスはどう答えてよいのか分らず、息をとめた。 「おまえは、何だ?」  ガルーの質問は純粋な好奇心から発せられているもののように聞こえた。 「わ、わたしはガルーだ」  ノリスはようやくそれだけ答えた。 「いや、いや」そのガルーは尾を小刻みに振った。「我々は自分たちをそんな風には呼ばない」  ガルーは喉の奥で笑い声に似た音を立てた。 「我々は火星人だ。我々は自分たちをそう呼ぶ」 「…………」ノリスは再び口をつぐんだ。 「しかも、おまえたちの心はどうも妙だ。微妙なところで通じ合わない……心の声が聞こえてこない」  ガルーは考え込むように首を傾けた。  ノリスの全身は打撲のためにズキズキと痛み続けている。しかし、先刻飲まされたガルーの苦い酒のためか、耐えきれないほどの激痛は去っていた。  洞窟《どうくつ》の奥では、ガルーの手当てを受けてどうやら一命をとりとめたらしいナギや、独特の接骨術を施されたラプロが、深い鼾を立てながら昏々《こんこん》と眠り続けている。 「しかし、妙だ……見た目は我々火星人と少しも変わらんのに、おまえたちは明らかに火星人ではない。我々の先祖カンガルーとももちろん異なっている……」  ガルーは短い前肢をまるで人間のように組み合わせた。 「おまえたちがこの地域へ入り込んできた時から、我々はおまえたちに注目していた。なぜなら、おまえたちは一度たりとも心の声を発しないし、我々の心の声を聞こうともしない……はじめは地球人の放ったスパイ・ガルーかと思ったが、それにしては地球人相手の戦いっぷりは見事の一言だ……うーむ、分らん」  ガルーは、背後に立つ若い戦士のひとりを振り返った。 「おい、ランナ。クルマの用意はできているか?」 「はい、マモー。しかし、満足に動くクルマは一台しかないようです。全部で六人しか乗れません」  若いガルーは、ノリスの胸に擬した銃口をぴくりとも動かさずにそう答えた。 「ああ、かまわない。クルマはケガ人を運ぶためのものだ。元気なものと、我々は徒歩で充分だ」  マモーと呼ばれたガルーは、そう言うとノリスに向き直った。 「出発は明日の夕刻としよう。夜間の移動の方が、重傷者にとっては楽なはずだ。まだ発熱がひどいようだから」  マモーは口の端を面白そうに歪めた。 「移動?……俺たちをどこへ連れて行くつもりだ!」  ノリスが思わず一歩後退った。 「おまえたちのことは、わしではよく分らん。秘界におられる六人の導士に、おまえたちを引き会わせる」  マモーは再び若い戦士に片手で合図を送った。 「それまでは、この洞窟で休養してもらうこととしよう」 「待ってくれ……その秘界というのはどこのことだ? 六人の導士というのは、なんのことだ?」  ノリスは再び頭を混乱させながら訊いた。  マモーが何度も口にし、ノリスたちが火星人ではない証拠として挙げた�心の声�とやらの正体だけでも推測しかねるというのに、�秘界�そして�導士�ときては、ノリスの理解を完全に拒絶していた。 「秘界を知らないのか? 導士を知らないのか?」  マモーは再び深い息を洩らし、うなずいた。 「やはりおまえたちは、火星人ではないようだ……」  つぶやくように言うと、マモーはくるりとノリスに背を向けた。 「教えよう。秘界とは火星人の心の宮殿だ。火星人の心の王城だ。そして実際、この世で最も美しい秘められた地下世界のことだ。それは、おまえたちがイスメノスのバッキンガムと呼んでいる荒れ果てた北の土地にある……」  ノリスはマモーの喋りに危険を感じた。  マモーは全てを今ここで教えようとしている。つまり、それはノリスたちが彼等の手から決して逃れ出ることができないと確信しているために違いない。 「知っているだろう、え? イスメノスのバッキンガムを……」  ノリスは知っていた。  それはここからそう遠くはないイスメノスと呼ばれる暗色部に存在する、とてつもない巨岩の俗称だった。  それは東西に七十キロ、幅五十キロに及ぶ俯瞰《ふかん》すれば凹型の台地であり、頂上はけずり取られたように平坦になっている。  地球でこれに似た地形を探すとしたら、それはオーストラリアの中央部にそびえるエアーズ・ロックだけだろう。この地球最大の一枚岩は、日の出と日没時に表面の色が次々と変化していくことで知られている。ノリスは、地球の軍隊時代、休暇でこの岩を見物に訪れたことがあった。  オーストラリアの原住民アボリジニーは、この岩を神の岩として崇敬している。 (…………!)  オーストラリア、それはまたガルーたちの故郷でもあるはずだ。そして、その先祖もまた、この奇岩を悠久の昔から眺め暮らしてきたはずだった。  その暗合に気づいて、ノリスは熱病にとりつかれでもしたような悪寒に襲われた。 「……秘界とは、そこにある。正確に言えば、その地下世界にある。そして、秘界をはじめて発見したのが、六人の導士たちだった……街を追われ、荒野を行くうちに、六人は不思議な霊感に導かれてその世界への入口を発見したのだ……そして、六人は導士となった。彼等は、すべてを知るものだ。この火星の未来を見透すものたちだ」  ノリスの悪寒は、いっそう激しさを増した。  今、彼は、地球人の誰ひとりとして想像することもできなかった事実と対面させられているのだった。  無意識のなかから、古代に置き忘れてきたはずの呪術的なおびえが這い上ってくるのを、ノリスはおさえることができなかった。 「おまえたちは、そこへ行く。そして導士に会う……いいかね、秘界を実際に目にした火星人は、まだそれほど多くはない。だが、本物の火星人なら、誰もが秘界を自らの心のうちに映すことができる。同時に、導士たちの視るものを、自らのものとすることができる……」  マモーは歌うように言うと、不意に洞窟の入口を目指して歩き出した。  太い尾と足を交互に使って、マモーは堂々たる背中を見せて去って行った。 「秘界……導士……」  ノリスは意味もなくその言葉をつぶやき続けた。  その夜、ノリスは、いつもよりはるかに力強い歓喜の大合唱の中にひたって眠った。 夢の世界は、ただただその熱気に包まれ、ノリスは名づけようのない連帯への渇望に胸を焼かれて、輾転《てんてん》とした。  なにかの波動がこの火星をおおって脈打っていた。  深い眠りの底で、ノリスは、そこに声を聞いた。  第4章 連  帯     1 「これじゃあ、やかましくて眠れやしないぜ!」  兵舎八号の片隅で、不機嫌な唸《うな》り声があがった。 「くそったれめが……いったい、何度、≪駆除≫をやらかしゃあ気が済むんだ、奴等は……」  闇《やみ》の中から、それ以上に腹立たし気な声が返ってくる。 「まったくだ。それに、こう外が明るくちゃ、消灯したって意味ないじゃないか、なあ、みんな」 「そうだ、そうだ」 「おい、当番、明りをつけろよ!」 「今なら、ちょっとやそっと騒ぎまくっても文句を言われるスジはねえ」 「パーティだ、パーティをやらかそうぜ!」 「おい、新しい基地司令官殿の着任を祝って、飲み明かすってのはどうだい?」 「それに決まりだ、さあ、早く照明を入れろ!」 「ヘイ、マッキン! おまえがこの間カートンごと盗みだしたウィスカがあるだろう。なに、かまうものか、警備の奴等は今、自分たちの持ち場で手一杯さ。俺《おれ》たちのことなんか、かまってるヒマはねえはずだ」 「キム、早く明りをつけろ! 今日の当番はおまえだろう、だったら電源盤のキイを持ってるはずだ」 「カーク、ひとっ走り行って、何か食い物を調達して来い! リグ、おまえもいっしょに行くんだ。いいか、他の兵舎の奴等にカンづかれるなよ。押しかけてこられりゃあ、いくら酒があっても足りやしねえ」 「当番! おい、キムったら、早くスイッチを入れろよ」  その瞬間、一段と激しい爆撃音が、連続して兵舎を揺るがした。 「くそっ! やかましいって言ってるのが、わかんねえのかァ!」  誰かが、半ば悲鳴に近い怒声を上げた。  不眠と不安からくる狂気が、すでに神経質な兵隊から順送りで、全員に感染しはじめている。  古参の一級歩兵ダギイ・ベンソンは、それをはっきりと感じていた。  彼が火星へ投入されてから、もう三年余りが過ぎていた。  荒野の赤い微塵《みじん》に晒《さら》されて、すでに摩滅しきっているはずの彼の感情にも、この昼夜を分たぬすさまじい駆除作戦は、明らかなささくれをつくりはじめている。 (六日目だ……今日でもう、六晩、俺たちは満足に寝ていない……)  ダギイは、打ち続く爆発音や地鳴りのためにすっかり朦朧《もうろう》としている自分の頭をこぶしで小突きながら、簡易ベッドの上でのそりと上半身を起こした。  消灯が命じられてから、まだ十分とは経っていない。  しかし、明りを消し、冷たいベッドに独りもぐり込めば、いやでも基地の周囲で断続する戦闘音が耳につく。  眠ろうと努力すればするだけ、神経の歯車は意地悪く軋《きし》みだすのだ。  今や、兵舎八号の三十二名全員が起き上がり、口々に何かをわめいていた。  にもかかわらず、兵営当番に当っているキムは、まだ照明のスイッチを死守しているらしい。それに対する罵声《ばせい》がますますつのりはじめた。  ダギイは舌打ちひとつして、ベッドから足を下ろした。  そして、兵舎の明り採りから、フラッシュのように鋭く痙攣《けいれん》的に射し込んでくる照明弾や投光器の閃光《せんこう》を頼りに、入口に近い電源盤目指して進んでいった。  ようやく、闇の中にうずくまっている小柄な東洋人キムの姿を認める。 「おいそこをどけ」  ダギイは低い声で命じた。 「し、しかし、ベンソンさん……就寝時間を守らないと、このわたしが処罰されてしまいます。それに、明日の出動は早朝ですよ。こんな時間から、本気で酒を飲もうっていうんですか?」  火星での任務に日の浅いキムは、古参兵に対する怖れと、初年兵らしい愚直さの入り混じった口調で反論してきた。 「いいから、キム、そこからどくんだ。明朝の出動のことを忘れているやつなど、ひとりもいない。だからこそ、今夜のうちに騒いでおくんだ。そうでもしなくちゃ、明日は一日中、退屈でまいっちまうぞ。生き物一匹いない荒地に、ありったけの弾薬をぶち込むだけの仕事なんだからな。分ったら、そこをどくんだ」 「そうだ、ダギイの言う通りだ」 「キム、早く照明を入れろ!」  ダギイの後に寄り集まってきた兵隊たちが、いまにもなぐりかからんばかりの様子でキムを怒鳴りつける。  それを制して、ダギイは一歩前へ出ると、キムを襟首《えりくび》ごとむんずと掴《つか》み上げた。 「おまえがどうしても責任をとりたくないと言い張るつもりなら、これからここで起こることを、見ることも聞くこともできないようにしてやってもいいんだぜ。それなら、おまえが罪に問われることは絶対にないはずだ。罰せられるのは、おまえを袋だたきにして半死半生の目に会わせた、この俺の方ということになる。どうだ、キム? 考えるなら、今のうちだ。俺は、おまえのかわりに営倉に入ってやるくらいの親切心はいくらでも持っているんだ」  ダギイは腕に力をこめ、キムを前後にゆさぶった。  この申し出がきいたらしく、キムはようやく当番としての任務を忘れることに同意し、腰の当番用パウチから鍵束《かぎたば》を引きずり出すと、電源盤の上蓋《うわぶた》を開けた。 「よしよし、いい子だ。心配するな、万が一、文句がきても、おまえひとりの責任にはしやしないからな」  ダギイはキムのきゃしゃな肩をひとつどやしつけると、優しい声で、そうつけ加えた。  そして手をのばし、兵舎の照明スイッチをオンにした。  いっせいに灯《とも》った照明の中で、夜の時間がよみがえると、あちこちから歓声があがった。 「ダギイ、さあ、いっぱいやってくれ。マッキン! ベンソンさんにグラスを持ってこんか!」  早くもウィスカの大壜《おおびん》をかかえこんでいる同じく古参のミドクラフトが、ひげ面をほころばせてダギイのかたわらに寄ってきた。 「いや、ミッド、俺はいい。それより、いっしょに、そのあたりを散歩しないか。どうも、兵舎に閉じこめられていると息がつまる。俺もどうやら、ヤキがまわってきたらしい」  ダギイはミドクラフトが無理にすすめるウィスカを一杯だけ飲み干して、グラスを返した。 「夜の散歩か、そいつもシャレてるなあ。いいとも、おともしようじゃないか」  ミドクラフトは片目をつぶると、先に立って歩きだした。 「ど、どこへ行くつもりですか? 就寝時間の外出は、射殺されても……」  慌てて追いすがろうとするキムの襟口を、今度はミドクラフトがわし掴みにした。 「いいんだよ、ぼうや。俺たちを撃とうなんて馬鹿《ばか》は、少なくともこの基地じゃあ生き残っていないのさ。なぜなら、そいつらの方が先に、こいつで殺《や》られてしまうんだからな」  ミドクラフトは、寝る時も腰に吊《つ》ったままのコンバット・ナイフをギラリと半分ほど抜いてみせ、キムに脅しをかけると、彼を押しのけて入口に向かった。  自分用に確保したウィスカの大壜はしっかり片手にぶら下げている。  ミドクラフトが言ったことの半分は真実だった。  彼は以前に酔っぱらって衛兵ともめ、そのふたりを刺殺してしまったことがあったのだ。  そのおかげで彼は、正式の軍法会議と殺人罪による服役が待っている地球へ帰るに帰れない立場におかれてしまい、結局、前任の基地司令官と取り引きを重ねた末、除隊を一年のばしにのばしてきた。  しかし、その司令官も、ついに基地を去る日が近づいていた。  かわりに、基地司令としては異例の人事であるロード少将が、ここ数日のうちに、何か正体の知れぬ新兵器と秘密部隊を率いて乗り込んでくるらしい、という噂《うわさ》が飛びかっていた。  もしそうなれば、ミドクラフトの執行猶予がいとも簡単に取り消されるであろうことは目に見えていた。  彼ばかりでなく、この基地にはさまざまな過去を背負った古参兵が吹きだまりすぎていた。それらが、どのような形でか一掃されるに違いないことを誰もが予想しないわけにはいかなかった。  帰還命令、そして地球の所属師団へ事務的に編入された後、除隊——というのが最も無難なシナリオと思われたが、一部で危惧《きぐ》されているように北東象限の激戦地へ投入される可能性もないではない。  ミドクラフトにとってみれば、それはどちらも地獄であることに変わりはなかった。  ダギイはそんな彼の心痛を知っていた。  だから今夜、ダギイは、この長年の戦友にひと言別れの言葉を送りたかったのだ。  ミドクラフトもそのことを感じとったのであろう。  彼はそれ以上口をきかずに、入口のロックを解き扉を開いた。  そこから、遠く近く響き続ける戦闘音が、どっと兵舎内になだれ込んできて、早くも騒ぎはじめた兵隊たちの大声を吹きとばした。  二人はその轟音《ごうおん》と、切れそうに冷たい風を押し分けるようにして、兵舎の外に出た。  ミドクラフトが後手に扉を閉める。  ふたりの目の前には、影もできないほどにいたるところから煌々《こうこう》と照らしだされたクリュセ宇宙港のランディング・ゾーンが拡がっていた。  さらに基地の向こうでは、間断なく照明弾が夜空にばら撒《ま》かれ、その明滅を縫って、爆発炎が吹き上がっている。  今夜の駆除作戦を担当している部隊は、また一段と派手好きが揃《そろ》っているらしい。  あるいは、全員がすでに正気と縁を切っているのかもしれなかった。 「おい、ダギイ! ここは、やかまし過ぎる。あっちの退避所へ行こう。あそこのエプロンの横に、ちょっとした防音壕《ぼうおんごう》があるんだ。その中でなら、ゆっくり話もできる」  ミドクラフトが、ダギイの耳元で怒鳴った。  光と音が充満する基地周辺の光景にすっかり感覚を麻痺《まひ》させられてしまっていたダギイは、その大声でようやく我に返った。 「オーケー、ミッド。ここにいたんじゃあ、二、三言話す間にノドがつぶれちまう」  ダギイはミドクラフトの大きな肩をどんと叩《たた》いて、先に行くよう合図した。  二人は、兵舎の間を縫って身を忍ばせながら、宇宙港東端のエプロンに近づいていった。  そこにはミドクラフトの言った通り、退避壕が何列か掘られており、その一角に、防音フェンスで覆われたかなりの大きさの臨時指揮所が、半ば地下に埋めこまれるように建っていた。 「ここはなあ、この基地が敵に攻めこまれた場合の最後の一線、というやつだ。だから、ここへ人間が入りこむような時は、火星から地球人が完全にいなくなる数時間前、というわけさ」  簡易指揮所のロックを器用に解いてなかへ滑り込むと、ミドクラフトが説明した。 「こいつの設営は、俺が重労働をくらっていた時に行なわれたもんでな。それで、開け方なんかも心得ているんだ」  ミドクラフトは手に握っているウィスカの壜から、喉《のど》を鳴らして火のような酒をあおった。 「こいつは手ごろな隠れ家じゃないか。さすがに静かだ」  ダギイはランディング・ゾーンの照明が射し込む窓辺に立って、ようやくひと息ついた。  外からの光で、室内は充分に明るい。各種ケーブルが乱雑に床をのたくっている指揮所内だが、そこに接続されるべき機器類はまだ運びこまれていず、そのため新しい建物にもかかわらず、室内はすでに荒れ果てた印象を与えていた。  だだっ広いフロアは、背の低いパネルで五つほどに分割されており、中央の区画に机がひとつと椅子《いす》が数脚放置されている。  それらの上には、うっすらと塵《ちり》が層をつくっていた。 「やれやれ……」  ミドクラフトが、またウィスカをらっぱ呑《の》みしながら、溜息《ためいき》をついた。 「いったい、今度の新しい司令官は、何をやらかすつもりなんだか……これでもう、六回ぶっ続けで、基地の周囲、半径百キロを駆除、駆除、駆除だ……」 「まったく……」ダギイが、ひとりごとのように、それに応えた。「なにか、とんでもない部隊をつれて、このクリュセへ降りてくるらしい……ともかく、噂《うわさ》ではそうなっている。だから、その前に、周囲を徹底的に叩いておくつもりなんだろうが、それにしても、こいつは誰が考えても、やり過ぎというもんだ。なにしろ、このあたりに、最近ガルーどもは寄りつきもしないんだからな」  ダギイは窓に背を向け、ミドクラフトに向き直った。 「それにだ、ミッド……新任の司令官は、れっきとした少将だぜ。どう思う、これを?」 「そうさなあ……」ミドクラフトは、口の端からあふれたウィスカを手の甲で拭《ぬぐ》いながら顔をしかめた。「……ひとつ、こんな噂を耳にしたんだ。信じがたいことなんだが、どうやら北東象限でネペンテース宇宙港が陥落したらしい」 「なにっ!? ネペンテースといえば、新山《シンシヤン》防衛地区だろうが!?」 「その通りさ。そのネペンテースが、ガルーどもに攻められて、あっさり落ちた……今、新山《シンシヤン》は、脱出路を奪われた敗残兵と居残りの植民者が入り乱れて、ひどい状態になっているという……」  ミドクラフトは、熊《くま》のようなひげ面を片手でなで回しながら続けた。 「……昨日から今日にかけて、大型の揚陸艇がカラ船のまま次々に発進していっただろう。俺は、そのことがどうしても腑《ふ》に落ちなかった。で、若い通信兵をとっつかまえて聞きだしたのが、このウワサだ」 「ということは、新山《シンシヤン》からの撤退……」  ダギイが唸るように言った。 「恐らく、な」  ミドクラフトは、すでに半分ほど空になったウィスカの大壜をダギイに突き出した。 「いいから、呑めよ、ダギイ。この意味が分るか? つまり、ウワサが本当だとすれば、火星の北半球に残された地球人の大規模な拠点は、このクリュセだけになる。ということは、だ……ガルーどもが次に押し寄せてくるのは……」 「ここ、か……」  ダギイは、ぼんやり頭を振りながら、ウィスカのボトルを受け取った。 「少なくとも、俺たちが心配していた北東象限への転進というやつは、あり得ないってことになるわけだ。噂どおりなら、守るべき都市も、基地も、なくなっちまうってことだからな」  彼がそう言い終らぬうちに、カン高い金属音をふくむ爆音が、頭上の防音フェンスを突き抜けて降り注いできた。  尾を引くようなそれは、どうやら軌道上の母艦から発進してきた着陸艇の機関音らしい。  それはいったん、上空を航過すると、また一段とすさまじい轟音を振りまきながらアプローチに入ってくる。  ミドクラフトとダギイは、無意識のうちに首をすくめた。 「おやおや、こんな深夜に、ナニ様のご到着だ?」  窓際に寄ったミドクラフトが、狂ったようにランディング・ゾーンめざして駆けつけてゆく大型送迎車を指差して言った。  そのボディには、くっきりと地球派遣軍の紋章《エンブレム》が描き出されている。明らかに高官、あるいは重要人物のための専用車だ。  ふたりは、しばらく無言のまま、その車を目で追った。  と、次の瞬間、一基の投光器が急速に降下してくる真黒な機影を捉《とら》えた。  それは、いささか乱暴なテクニックで、一気に中央のランディング・ゾーンへ滑り込み、そして見えなくなった。 「誰だい、いったい? 司令官の着任にしてはさびし過ぎる。けれど、単なる連絡機とも思えない……」  ミドクラフトが、ぽつり、と言った。 「秘密が多過ぎるとは思わんか、ミッド。なにがどうなっているのか、俺たち兵隊には、さっぱりだ。流れてくる噂といえば、暗いものばかり……あそこでは全滅、こちらでは陥落、とキリがない。ところが派遺軍発表は、それと全く反対だ。ガルーどもはすでに山岳地帯の一部に封じ込められ、植民地区は次々に回復しつつある、というわけだ」 「まあ、それを信じていられるのは地球《ホーム》の女子供だけだろうな……」  ミドクラフトは、ダギイからとりもどしたウィスカの残りを喉に流しこむと、その大壜をごろりと床に転かし、後を続けた。 「俺の考えじゃあ、ともかく、この戦争はもう長くない……そろそろ、最後の切り札ってやつを、地球のお偉方が持ちださなくちゃならない時期にきてると踏んでるんだ」 「それが、ロード少将と、その部隊だと思うのか?」ダギイが訊《き》く。 「ああ、俺はそうにらんでる。何がやってくるのか、そいつは分らん。化学兵器か、あるいは生物兵器か……それとも、どでかい核兵器《ボム》で、この惑星もろとも、結着をつけるか……」 「待て! ミッド……」  押し殺した声で、ダギイがミドクラフトをさえぎった。 「誰かが——誰かが、こっちへ来る……まずいぜ!」  窓の外をうかがいながら、素早く身体を低くしたダギイにならって、ミドクラフトもすぐ口をつぐみ、一挙動で壁際に貼《は》りついた。 「くそっ! 三人いる……まさか、ここへ入ってくるつもりじゃあ……」  だが、窓外を急ぎ足で横切ってゆく人影は、どう見てもこの指揮所を目指している様子だ。  三人は物腰から、かなりの高官と知れた。  手に手に、小銃ならぬ書類ケースをかかえている。 「ミッド、隠れるんだ。ともかく……」  ダギイが言うよりも早く、ミドクラフトは床を手探りして、ウィスカのキャップや壜をひろい集めている。 「あそこだ、あのパネルの後がいい」  その時すでに、指揮所入口の扉が、外側からガチャガチャと鳴りはじめた。  もう猶予はない。  ふたりは足音を殺し、這《は》うようにして、指揮所フロアの片隅にある小区画の暗がりに転がり込んだ。  そこに、うずくまる。  と、ほとんど同時に、指揮所の扉が開いた。  すさまじい外部の戦闘音が、一瞬室内に充満する。 「博士、しばらく、ここで、ごしんぼう願います……」  そんな声が、かろうじて、ふたりの耳に聞きとれた。     2 「大尉、ここは本当に安全かね?」  あたりを不快に見回して、ミネ軍医長が言った。  浅黒い肌を持つ、精悍《せいかん》な風貌《ふうぼう》の東洋人だ。  だが、若々しく見える顔立ちとは裏腹に、頭にはかなり白いものが目立っている。それが彼に、どこか不気味な印象を付け加えていた。 「ええ、博士。この建物は、万が一の事態を想定して準備された臨時野戦指揮所で、現在は使用されておりません。クリュセの基地内で、もっとも人気のない場所と言えます」  若い大尉が、扉を内側からロックしながら、そう保証した。 「�万が一の事態�か……」  ミネ軍医長と並んで立つ大柄な軍人が、つぶやくように言って、書類ケースを、どさりと机の上に投げ出した。  外から射し込む薄暗い明りのなかで、大量のホコリが舞い上る。 「なるほど……しかし、そろそろ、この建物もそうじしておいた方が良くはないかね? 万が一、などと呑気《のんき》にかまえていないで……」  中佐の肩書をつけたその軍人が、半ば投げやりな口調で大尉に言う。 「はっ、そのように……」  中佐の皮肉が全く通じないのか、大尉は真面目《まじめ》な顔でそう答え、ハンカチをポケットから出すと、机や椅子《いす》をざっと拭って、二人にすすめる。 「ところで、照明はどうしましょう。ここへの配電は、まだ行われていないので、もし必要なら、コントロール・ルームへ連絡して携帯用の野戦灯を引き込みますが……」 「いや、いらんよ。そんなことをすればかえって人目につく。それに、ここは、外の明りで充分明るい……」  中佐は言って、ガタガタと鳴る粗末なスチール製の椅子に腰を下ろした。 「そんなことより、大尉。この、嫌なにおいは何だね。アルコール臭のようだが」  しきりに鼻をうごめかせていたミネ軍医長が指摘する。 「はあ……恐らく、兵隊に支給されているウィスキイ系飲料のにおいかと思われます。どうやら、ここへ忍び込んで酒盛りをやった奴等がいるらしい。後で、厳重注意を通達しておきましょう」  大尉が答えた。 「しかし、大丈夫なのかね? ついさっさまで、人がいたような気配だが……」  ミネ軍医長は、まだ不安そうだ。 「その点はご心配なく。すでに消灯時間を六十分以上過ぎています。この時間任務以外で出歩く者は、例外なく、射殺を含む処罰を受けます。ここで騒いだ連中がいたとしても、今ごろは兵舎で高鼾《たかいびき》といったところでしょう」  大尉は、あくまでも快活に、そう断言した。 「それならば、いいが……」  なおも疑い深い表情を捨てないまま、しかし、ミネ軍医長も席についた。 「さて、ミネ博士。先ほどご紹介申し上げました通り、こちらのスボ中佐が、実質的な≪部隊≫の運用を行います。ロード少将の着任は四日後、それまでに≪部隊≫を中佐の管理下に移していただくことになります」  書類ケースを開けると、大尉は事務的な調子で説明をはじめた。 「それは結構だが、≪部隊≫は上陸後も調整を続ける必要がある。そのための、完全にコンディショニングされた用地を確保しておいてくれるよう頼んでおいたはずだが、どうなっているかな?」  ミネ博士が、まだあたりの空気を嗅《か》ぎながら、神経質そうに顔をしかめて、大尉に訊いた。 「すでに六日間、連日連夜、基地周辺で、ガルーを含むいっさいの敵性生物駆除作戦を展開中です。その終了は明後日の午前零時。と同時に、最も防御に適した南面のガリア渓谷を封鎖し、≪部隊≫の上陸を待つ、というスケジュールになっております。もちろん、限られた要員と関係者以外、絶対に立ち入りはできません」 「その準備なら、ご心配なく」スボ中佐が、大尉の言葉を引きとった。「それに、博士、どういうわけか、最近、この方面でのガルーの軍事活動が、極度に低下しておるのです。嵐の前の静けさだ、と予想する者もいるが、まあ、ともかく、ここ十日ほどは問題ない。駆除作戦と並行して、偵察ももちろん強化しています。しかし、二百キロ圏で見ても、ガルーはおろか、野兎《のうさぎ》の群も見当らないほど、クリュセ一帯は静かだ……もっとも、新山《シンシヤン》にあれだけの軍団を集めたのだから、そうそう、大部隊が残っていては困るのだが……」  スボ中佐は、まるで他人事《ひとごと》、といった調子で冷たく笑った。 「その新山《シンシヤン》だが、まだ持ちこたえてはいるのかね?」  片方の眉《まゆ》を上げて、ミネ軍医長が訊き返す。 「時間の問題でしょう。ネペンテース宇宙港が、あっという間に占領され、退路を絶たれた格好で、軍民ともに、大変な混乱が生じている模様です。今日、第一次の救助部隊が降下したものの、約半数が空中、地上で撃破されてしまったらしい。明朝から本格的な撤退作戦が開始になるのですが、なにしろ、揚陸艇の損耗率が余りに高いので、今のところ、見通しは全くたっていない状況です。すでに、ガルーの正規軍が、新山《シンシヤン》の市街区にとりついて、白兵戦に出ている、という未確認の情報もありまして……」  中佐は喋《しやべ》りながら、胸のポケットに手を入れ、禁制品とされているはずの紙巻き煙草《たばこ》をとり出した。 「失礼、博士。両親が田舎者だったので、この悪習を受け継いでしまったのです。健康に悪いことは知っているのですが、それでも……」  中佐は、彼の傍若無人な態度を扱いかねてそわそわ身じろぎする若い大尉にかまわず、煙草に火を移すと、ひと口吸いつけた。 「まあ、大体の状況は分った……」  スラブ系らしい中佐をじろりとひとにらみすると、ミネ軍医長は自分のファイルをケースから取り出して、確認をはじめた。 「……今、母艦で待機している≪部隊≫は、試験種も含めて十二種、三千二百頭……まあ、大部分は中型の犬類だが、なかには、図体の大きな猛獣もまじっている。それと、ちょっとやっかいなのが高等猿類で、奴等が一番、士気が低い。ともかく、これらを、すべて一か所で編成、訓練しなくてはならないわけだが……」 「博士、上陸から実戦参加まで、掛け値なしで、どの程度を見積れば良いとお考えですか?」  中佐が、紙巻きの吸いさしを軍靴で踏みにじってから質問した。 「すでに、地球で三週間、戦圏母艦へ移ってからも基礎訓練は続けているから、理論的には、最小限の馴致《じゆんち》期間があれば足りると思う。しかし、この火星に放りこまれた動物たちが、果たして我々の期待通りに働いてくれるものか、どうか……」  ミネ軍医長の額に、深いたてじわが刻まれた。 「あの、ガルーどもの二の舞いだけは、ごめんこうむりたいものですな」  スボ中佐は、無遠慮にそう言うと、もう一本の紙巻きに手をのばした。  さすがに、むっとして表情をこわばらせたミネだが、なんとか自制すると、ファイルを中佐の方へ投げ出した。 「ともかく、上陸がすめば、≪部隊≫はキミとロード少将の手に渡るわけだ。それ以後は、このマニュアルを基本に、なんとか運用してもらう他ないわけだが……」  ミネ軍医長の目が、ふと遠いものを見つめてでもいるかのように、宙をさまよった。 「……キミたちはよく、ガルーたちのことで我々を責めるようだが、あの生物を創りだしたこと自体、わたしはこれっぽっちも誤っていなかったと、今でも考えている。問題は、植民者たち、あくまでも、あの地球人たちの方にあったのだ。それは、明らかじゃないか。改良されたガルーの適応能力に、地球人の方が負けたのだよ。つまり、我々の開発は、完全に成功していたのだ……それだけは言っておきたい」  軍医長の声は、どこか苦し気だった。 「いえ、博士。そのことを、どうこう言っているつもりは毛頭ありませんよ。ガルーと植民者の資質の問題など、我々軍人にとっては全く無縁なテーマですからね」  スボ中佐は、うっそりと笑った。そして、続けた。 「我々の現在の関心は≪部隊≫だけです。彼等が人間にかわって、立派に任務さえ果たしてくれれば、全ての問題は解決するわけだ。わたしは、それを、ただ祈るだけです。まして、動物とはいえ≪部隊≫は軍隊だ。火星人がどうの、地球人がどうのとへりくつを並べられたんでは、戦争になりませんからね。おっと、気になさらないでください、博士。これは、ほんの冗談のつもりですよ」  ミネ軍医長は、しかし、スボ中佐のあてこすりを聞いてはいなかった。  その目は、何もない空中に焦点を合わせている。 「……こうして、火星へ降り立ったのは、まったく何年ぶりだろう……そうだ、彼等の見送りの時も、わたしは母艦に残っていた。ブロード大佐が戦死したと知らされたのは、ずいぶん経ってからのことだった。……そう、あのことだけは、くやんでもくやみきれない。十三人の兵隊を、ただ無駄死にさせてしまった……」  ミネ軍医長の独白を、スボ中佐が聞きとがめた。 「ブロード? ブロード大佐をご存知なのですね、博士? しかし、その十三人の兵隊というのは誰のことです?」  ミネ軍医長は、ようやく我に返ったかのように、スボ中佐の目を正面から見返した。 「ああ……いや、何でもない。ブロード直属の秘密部隊が、かつてあったのだ。しかし、その計画は失敗に終った。全員が未帰還となり、以後同様の作戦は行われなかった。今回の≪部隊≫が、性格的に少しだけ似ているものだから、そのことを思いだしたのだ。いや、駄目だ。計画の内容を話すことはできん。作戦は、ブロードとともに、永遠に火星の土に埋もれていったのだ……」  ミネ軍医長の声が、めずらしく老いの響きを帯びた。  それを聞いて、スボ中佐は、ふっと頬《ほお》を歪《ゆが》めた。 「いいでしょう、聞きますまい。しかし、今回の≪部隊≫に似ている、ということは、やはり動物を改造して戦士にしたてあげる計画と関連があるわけですね? そして、それは、失敗に終った?」 「≪部隊≫について心配なのは、運用者の問題だけだよ」ミネ軍医長は、ぴしゃりと言った。「今や我等の敵となったガルーほどの完成品とは言いがたいが、ただのファイティング・マシーンとして考えれば、≪部隊≫は充分すぎるだけの能力を持っている。用兵者がどれだけその能力を使いこなせるか、まあ、キミの言い方を真似《まね》れば、我々科学者は、そこまで考える必要はない、というわけだ」  ミネ軍医長の声が尖《とが》った。 「博士、久しぶりの地上で、さぞお疲れでしょう。今日のところは、第一回の協議ということで、スケジュールのツメだけを行ってはいかかでしょう? 我々が余り長く行方をくらましたままだと、コントロール・センターが本気で捜索をはじめないとも限りませんから」  険悪な空気を察して、大尉が割って入った。  ミネ軍医長とスボ中佐は、再び冷静な他人どうしにもどり、互いの書類を交換してチェックをはじめる。 「……≪部隊≫を全て秘密裡《ひみつり》に上陸させるには、どうしても三日は必要だ。だから、指揮権の委譲も、それにしたがって、順次行うということでいかがかな?」 「もちろん、けっこうです、博士。そのように手続きしておきましょう」  事務的な話し合いが、ようやく開始された。 「それから、何よりも、≪部隊≫の姿を絶対兵隊たちの目に触れぬよう配慮していただきたい。もし、この件が今の段階で洩《も》れたなら、どれだけひどい動揺を与えるか、見当もつかない。ましてや、新山《シンシヤン》の陥落で、士気は低下しているはずだ。そんな彼等が≪部隊≫の存在を知ったら、単に浮き足立つどころか、神経症的な現実感の喪失へとつながりかねない」  そう最後につけ加えたのは、ミネ軍医長だ。 「おまかせください。兵隊は、ここしばらくの間、基地防衛に専念させるつもりです。その間に≪部隊≫を出撃させて、どこまでやれるものか、見定めなくてはならない……」  スボ中佐は書類をケースに乱暴に投げ込みながら、そう答えた。  そして、立ち上がる。 「博士、結果がどうでるにせよ、≪部隊≫は火星史に新しい大きなタイトルを書き込むことでしょう。それは間違いない」  後に続いてゆっくり椅子を立つミネ軍医長に、スボ中佐は手を差しのべた。 「それには、わたしの名前もかかっている、と言いたいのだろう? キミのことだから」  スボ中佐の皮肉に、すっかり慣れてしまったミネ軍医長は、もう、ことさらに言葉を荒らげようとはせず訊き返した。 「わたしが最終的に悪徳科学者、マッド・サイエンティストとして指弾されるか、それとも惑星開発のために一生を投げうった功労者と評価されるか……さあ、それは、キミの働きひとつというわけか。まあ、いい……それでいい……」  ミネ軍医長は、微《かす》かに肩を落としたようだった。  整った、ともすれば悪魔的にすら見える貌《かお》の下から、人の好い初老の軍医の表情が現われていた。  そしてミネは、スボの手を握り返した。 「火星史が、キミの名と、ロード少将の名を、英雄としてたたえることを、わたしは切実に祈らなくてはならないようだ。とにかく、わたしの新しい子どもたちを、キミに託そう」  スボは、ちょっと口元を歪め、首をかしげると、ミネの目を見返した。 「お疲れでしょう、軍医長。歴史的な第一回協議に、このような場所しか提供できなかったことを、ロード少将にかわっておわび申し上げます。しかし、宿舎に関してなら、自慢させてください。調度も、食事も、酒も……それに、もしお望みなら、女も……すべてが地球製《ホーム・メード》です。大尉がご案内します。火星で、夜が楽しめるのは、今や、ここクリュセだけになってしまいました。では、ごゆっくり……」  スボ中佐は、一瞬何を考えているのか分らない表情をつくり、それから思い出したのか、床に散らばる煙草の吸いがらを手でひろって自分のポケットにしまった。  大尉が再び扉のロックを解き、それを内側に引き開ける。  先刻に比べいくぶんおさまったとはいえ、また激しく続く戦闘音が、疲れ切ったミネを思わずよろめかせた。 「軍医長、お気をつけて」  スボがわざとらしくその腕をとる。  ミネは片ひじを彼にあずけたまま、臨時指揮所を出た。  そして、ぐるりと基地を見回した。  煌々と照らしだされたランディング・ゾーン……その周囲にうずくまっている兵舎や諸設備の建築物……さらに居残りの植民者を収容している旧市街地……それらを越えて、断続的に続けられている駆除作戦の閃光《せんこう》がのぞまれた。 (昔のクリュセは、実に華やかな雰囲気の宇宙港だったものだ……)  ミネはふと、当時の様子を心に思い描き、さらに、余りにも急激に全てを押し流していった火星史の渦を思った。 (ガルー、か……そして、ブロード……ノヴ・ノリスと十二人のスーパー・ガルー……)  ミネは頭を左右に強く振り、湧き上がろうとする想念をあたりの騒音のなかに撒き散らすと、エプロンの片隅に駐めてある専用車目指して歩きはじめた。  …………  静まり返った臨時指揮所内で、その頃《ころ》、ようやくふたつの人影が物影から這《は》いだしてきた。  彼等は、スボが残した煙草のにおいがこもるフロアで、ただ呆然《ぼうぜん》と顔を見合わせ、そして、どちらからともなく「いったい、何のことだ……」とつぶやき合った。  だが、結局、二人は、いま見たり聞いたりした事を無理に理解するよりは、全て忘れてしまった方がいいだろう、と考えはじめていた。  長時間、ひたすら手足を縮めていたせいで、全身がすっかり痺《しび》れてしまっていた。  それに、大分前から、二人ともしつこい尿意に耐えかねていたのだ。  一等兵ダギイ・ベンソンと、同じくロイ・ミドクラフトは、完全におじけづいている自分をはげましながら指揮所から滑り出ると、後も見ずに、一目散に駆け出した。     3  眼前には、ただ果てしなく続く岩の壁があった。  垂直に近い絶壁の高さは約二千メートル——。  東西一直線に七十キロの長さがあるというが、この近さでそれを確かめる術はない。  ノヴ・ノリスの太い尾が、無意識のうちに、びくり、びくりと左右に揺れていた。  その動作は、自我を完全に圧倒する自然の造形と対面した者の心のめまいを、どんな表情よりも雄弁に物語っていた。 「これが、イスメノスのバッキンガム宮殿……」  ノリスのかたわらで、ウィンチェルが、やはり尾を激しく痙攣《けいれん》させながらつぶやいている。 「さあ、もうひとっ走りだ。あのふもとまで、五キロとは残っていない」  細い谷あいを抜け、いきなり、とてつもないイスメノスの巨岩を眺めわたせる平原に出て、すっかりそれに目を奪われている一行を、護送役の若いガルー戦士が苛立《いらだ》たし気にうながした。  しかし、それでもしばらくの間、ノヴ・ノリスの足は、ただ驚きの余り動こうとしなかった。  ここは北東象限でも、北緯五十度に近い。  風は、ガルーのしたたかな毛皮を通してさえ、刺すような寒気を含んで感じられた。  その平原の一角に、忽然《こつぜん》とそびえる巨岩は、バッキンガム宮殿などという俗称をいとも簡単に吹きとばしてしまうほどの質量と、堂々たる威容を誇っていた。  オーストラリア大陸中央部に突出している地球最大の巨岩エアーズ・ロックと、それは形態的に類似していると言えたけれど、いざ、規模を比較するとなると問題にもならない。  火星の荒々しい自然が何億年もかけて刻み上げたこの圧倒的な岩塊の下に、≪秘界≫と呼ばれる地下世界が存在するという。  そしてそこにこそ、ガルーたち火星人の、真の秘密が隠されているはずだった。  しかし、今、ノリスたちの正面に厳然とそびえ、左右に果てしなく続く岩の壁は、そんなガルーに関する好奇心さえ押しつぶしてしまいそうだった。  この地域を目にするのは、ノリスにとって初めての経験ではなかった。  彼がまだ人間の姿を持ち、初期の地球派遣軍隊員であった時、彼は幾度か偵察用のフライヤーで、この上空を通過したことがある。  しかし、それはあくまでも空から見た景観にしか過ぎなかった。  望遠鏡で何度、木星や土星をのぞいても、その真の巨体が理解できないのと同じで、宇宙や空中から、その星の自然を見下ろしても、人は何ひとつ本当の姿を目にしていることにはならない。  そのそばに立って、地面からそれを見上げてはじめて、人は、知らねばならぬことを、そこで知るのた。  ノヴ・ノリスは、今、ここで、その知らねばならぬことのひとつに近づきつつある自分を感じていた。 「さあ、もういいだろう。行くんだ」  ガルー戦士が、ライフルの銃口でノリスの肩口を小突いた。 「わかった……出発しよう」  ノリスはようやく小さな声で応え、同じく護送されてきた五人の仲間を振り返った。  負傷しているナギとラプロは、地球人からの鹵獲《ろかく》品らしい旧型の太陽車《ソラー・カー》に乗せられている。  ランダル、ウィンチェル、ノーザは、ノリスと同じく徒歩だ。  護送隊のガルーは総勢七人。  マモーという名の長老格のガルーが隊長で、マモーは、太陽車《ソラー・カー》を操作する若い戦士ランナとともに車中に坐《すわ》っている。  他のガルー五人は、手に手に小銃を握り、ノリスたち徒歩組の回りを固めている。 �徒歩�といっても、この火星に適応した一般のガルーは時速五十キロで、約半日は走り続けることができる。  だから地形によっては、この徒歩組が太陽車《ソラー・カー》をはるかに置き去りにするような事もめずらしくはなかった。  ごく普通のガルーでこれだけの能力を持つのだから、特殊な筋肉強化処置を受けたノリスたちスーパー・ガルーの肉体は、それをはるかに越えるパワーを秘めていた。  しかも、ノリスたちは、そのためだけに訓練された戦闘のプロだ。  だからイザとなれば、護送隊を振り切って荒野へ逃れることも、あるいは逆襲にでて彼等を全滅させることも容易だと思われた。  しかし、ノリスは最後の時まで、自分たちのその特殊能力を隠し持っていたかった。  今は何よりも彼等に身を預け、ガルーたちの秘密の内奥へと入りこみたかった。  それはすでに、任務のためではなかった。  ノリスをはじめとするスーパー・ガルー戦隊の各生き残り隊員は、ただひたすら自らの内なる願いとして、純粋で抑えようのない欲求として、その道を選んでいるのだった。  そして、行きつくべき場所は、ついに、眼前にあった。  ブルルルルル……  まず太陽車《ソラー・カー》が陽気なモーター音をたてて先頭を行く。  ここからは岩壁のふもとまでゆるい下りが続いている。 「よし! 出発だ」  ノリスの合図にしたがって、五人の火星人ガルー、そして地球人の脳を移植された三名のスーパー・ガルーがいっせいに跳躍に移った。  かつて地球のオーストラリア大陸にだけ棲息《せいそく》していたカンガルーは、体長の約五倍、つまり八メートルほどの跳躍幅を持っていたが、この火星の風土に適応したガルーたちは、その二倍近い十五メートルを一回で跳ぶことができた。  しかし、今は、それほどの全力は必要ない。  ガルーたちは、それぞれ十メートル内外の跳躍幅で、悠々と大地を蹴《け》り、そして風を切る。  荒れ果てた赤い大地が、眼下を帯のように流れ去り、また流れ去る。  前方の目標物は、見る見るうちに接近してきては、後方へと飛び去ってゆく。  この疾走感——  ノリスは、走ることに酔いはじめていた。  それは、他の隊員とて同じことだ。  人間が、決して味わうことのできない、素晴らしい感覚域がここにあった。  どれほど大馬力のスポーツカーを駆って、二百キロ、三百キロの時速を体験したとしても、それはガルーとして�走る�ことの何十分の一以下の経験でしかあり得ない、とノリスは思った。  では、乗馬は? (ちがう、これも違う!)  ノリスは、走り、ただ走りながら考えた。 (自分の足で、この足で走らなくては……そして大地を蹴り、大気をこの身体全体で切り分けなくては、絶対に、この�酔い�を知ることはできない……)  ノリスは、さらに、しなやかで力強い両脚に力をこめた。  さらに……  さらに……  さらに…… 「待つんだ、とまれ!」  ガルー戦士の鋭い制止にあわなければ、ノリスはそのまま、極限までスピードを上げて全力疾走に移っていたことだろう。 「ノリス!」 「どうしたんです、急に」  慌てて追いすがってきたランダルやウィンチェルの声に、はっと自分をとりもどし、ノリスは急激にスピードを落とした。 「隊長! 気をつけてください。どうやら、ガルーたちを驚かせてしまったらしい」  素早くかたわらに跳びこんできたランダルが、耳元でささやいた。 「済まん。つい、我を忘れて……」  ノリスは、未《いま》だ�走る�陶酔から醒《さ》めやらぬ心を必死でなだめながら、部下にそう詫《わ》びた。  驚いたように目を見開いたガルー戦士が、ノリスを追って駆けつけてくる。 「おまえは……」  そのガルーは言って、一瞬絶句した。  そして、好奇心を抑えきれない視線で、ノリスをながめまわす。 「……おまえは……とても、足が速い」  そしてガルーは微笑に似た表情をノリスに向けた。  その時、途中で追い抜かれた太陽車《ソラー・カー》が、ノリスのかたわらに滑り込んできた。 「おまえの足は、とても速い!」  車のシートから上半身をのりだした長老格のマモーが、同じように感嘆の口調で叫んだ。 「まったく、驚かせてくれるわい。最初は、逃げるつもりかと思って、わしも緊張した。ところが、その次の瞬間、突然、おまえの心が開いた。そして、おまえの心が、わしの心に逆流してきた……」  ノリスを見つめるマモーの目は輝いている。 「……その時、おまえは、走ることを考えていた。いや、走ることしか考えていなかった。そして�走る�ことに関する、さまざまな、時には全く不可解な想念を次から次へと追っていた。そうしながらも、おまえは走っていた……そう、その時、おまえの心は開かれていたのだ!」  マモーは言った。そして、集まってきたガルーの戦士たちを見回す。 「どうだ、おまえたちにも聞こえたに違いない。この足の早い火星人の心の声が、聞こえたに違いない!」  戦士たちはうなずき交しながら、長老マモーに同意した。 ≪火星人!?≫びくり、とノリスの尾の先が震えた。 (マモーは、いま、俺のことを�火星人�と呼んだ……そうだ、確かに、そう呼んだ!)  不思議な感動が、ノリスの身体の奥深くから、熱い血となって脈打ちはじめた。 (火星人!……確かに、マモーは、俺を、そう呼んだ!) 「……それで、わしは、この火星人が逃げ出そうとしているのではないことを知った。しかし、それにしても、余りに足が早すぎる。そのまま放っておいたなら、どこまででも跳んでゆきそうに思えた……それで、わしは、制止を命じたのじゃ」  マモーが再びノリスの目を正面から見据えた。 「いや、待て。しかし、分らん。おまえは余りにも奇妙なところが多すぎる。おまえだけではない、他の仲間たちもだ。だが、いや、それにしても、なんと素早い足だ!……」  マモーは、ノリスの走りっぷりを見て、明らかに感激している様子だった。  そればかりではない、他のガルー戦士の態度からも、捕虜に対する冷たさがすっかり消えてしまっていた。  彼等は純粋に、ノリスの脚力を称えようと、ここへ集まってきたかのようにふるまっている。 (待てよ……そうか!……)ノリスは唐突に気がついた。(このガルーたちにとって、足の速さとは、個体を計る最も明快でまちがいようのない尺度になっているのかもしれない。つまり、最も脚力のあるものが、最高の尊敬を集めるべきだ、と考えられているのではないか……)  ノリスはさらに考えた。 (つまり、つまりだ……ガルーたちの文化とは�走る�ことなのだ……�走る�ことを中心に成り立っているんだ!)  それは、全くありそうなことと思えた。  そう考えれば、彼等の態度の急変も理解できた。  つまり、マモーや戦士たちは、自分たちの捕虜が思わぬ能力の持ち主であることを発見して驚き、そしてそれを賞讃《しようさん》する一方で迷い続けてもいるのだ。 (この者たちは、いったい、何なのだろう……)と。 (それにしても……)とノリスはまた考えた。(俺の�心が開いた�とは、どういうことだ? 俺の�心の声が聞こえた�とは、どういうことだ?) 「……しかし、もう、おまえの心は閉じている。さっきの、ほとばしるような歓喜の声は聞こえてこない。まったく、不思議なものよのう……おまえは、確かに、我々火星人そっくりの身体つきをしている。にもかかわらず、まるで地球人のように閉じた心を持っている。かと思えば、並みの火星人ではとても及びもつかないほどの速さで、平原を跳び、その時、心は我々の中に融けあう……分らん、わしには分らん……」  考えこむノリスを見つめながら、ガルーの長老マモーもまた考えこんでしまった様子だ。 「長老、ここはともかく、秘界へと急ぎましょう」  そう進言したのは、マモーの副官役をつとめている若いランナだ。 「こんな隠れる場所もない平原にとどまっていては、どこから地球人どもに奇襲されるか分りません。奴等は、月のような乗り物にのって空を回っています。夜であれば、その姿も地上から見つけられますが、昼間は、奴等がどこを飛んでいるのか、確かめようもないのですから……長老、出発してよろしいでしょうか?」  ランナの言葉に、マモーも大きくうなずいた。 「よろしい、ランナ。もう秘界は目の前だ。いずれにせよ、導士さまに会えれば、すべてが明らかとなるはず。それでよい、それでよい……」  マモーは大げさに短い前肢を左右に振ると、再び前進を命じた。  前方には、すでにのしかかってきそうに見えるほど接近した、巨大な一枚岩の壁がある。  途方もない時間の風化によって、その表面には複雑微妙な模様が、まるで最高の抽象芸術を思わせる精妙さで刻みこまれている。  その迷路のように入り組んだ天然の彫刻が、今や、視界いっぱいに拡がりそびえ立っているのだ。  ノヴ・ノリスは、頭の中が、すうっと空になってゆくのを感じていた。  眼前に迫った超然たる巨岩の存在感……そして、その岩肌に刻みこまれている別世界の美と啓示……それらに秘められた意味のひとつひとつが、ノリスに対して、まるでオーケストラのような調和を保ちつつ訴えかけてくる……そんな幻想が、ノリスの頭脳に充満し、そのかわりに彼自身の自我が狭いその場所から追いだされ、どこまでも、どこまでも拡大してゆく……  その時ノリスは、はじめて、自分の心が�開いて�いることを意識したのである。     4  それは、まったく何気ない岩の割れ目だった。  しかも、岩壁を埋める精緻《せいち》を極めた天然のアラベスクが、それを巧妙に、ただの浅い、目立たない窪《くぼ》みのように見せかけていた。  だから、そこが秘界へ通じる入口だ、とマモーから指差されても、しばらくの間、ノリスたち戦隊員は、うろうろと視線を岩の壁に沿ってさまよわせなくてはならなかった。  それは、信じがたい幸運か、もしくは強力な天の意志の導きなくして、絶対に発見することが叶《かな》わぬであろうような洞窟《どうくつ》だった。  この巨岩を何度も調査に来た地球人の研究者が、それを見過ごしてきたのは、決して彼等の怠慢のせいとは言えない。  それほどに、秘界への道は、さり気なく、ひっそりと、巨岩の一角にうがたれていたのである。  そして——  一歩、その中に足を踏み入れた彼等は、思わず自分たちの置かれた状況を忘れて、驚嘆の叫びを上げていた。  洞窟は、名も知れぬ透明の結晶体によって、びっしりと隙間《すきま》なく飾られていた。  そして、それらが複雑な反射と屈折によって、いずこからともなく運んでくる微かな光が、地下に向かってゆるやかに傾斜してゆく洞窟全体を、幻想的な輝きで満たしていた。 「信じられない……美しい……」  ノリスは、やっとその二言だけを口にした。  それ以上の言葉は無用だった。  誰もが、すでに、語るよりは視ることに全神経を奪われていたからだ。  そうして、どれくらいの時間が経ったか知れない。 「さあ、先は長い……お進みなさい……」というマモーの命令がなかったなら、ノリスたちは、いつまでもそこに立ちつくしていたことだろう。  まず、長老マモーが一行の先頭に立った。  第三の脚とも言うべき力強い尾と、二本の後肢を巧みにつかって、ゆるゆると地下にのびる洞窟を下りはじめる。  それについて、ノリス、ランダル、ウィンチェル、ノーザが続いた。  左腕の骨折が癒えぬラプロは、ガルーにつきそわれながらも自力でついてくる。  その後に、まだ自由に身動きのできないナギをかかえたガルーたちが続いた。  道のりは楽だったが、しかし、長かった。  洞窟の壁は、あいかわらず結晶体に埋めつくされており、それらが放つやわらかな七彩の光が、そこを下る一行の上にきらきらと躍った。  道中、マモーは二度、休息を命じた。  それ以外、彼等はただ黙々と、その道を下っていった。  洞窟はいたるところで枝別れし、迷路のように入り組んで見えたが、マモーは、まるで通いなれた通路であるかのように、何の迷いも感じさせず先頭を進んでいた。  あるいは、ノリスたちには分らない、秘密の目印が、そこここでマモーを導いているのかもしれなかった。  と、マモーが、何の前触れもなしに、突然ぴたりと足をとめた。  そして、尾を素早く上下に振る。  あたりの光景にみとれながら後に続いていたノリスたちは、危うく、その背中にぶつかりそうになり、慌てて声をかけあって、列を保つ。 「マモー、着いたのですか?」  いつまでも一行に背を向けたまま立ちつくしているマモーに不審を覚え、つい、ノリスは、そう声をかけた。 「静かに!」  たちまち、低いけれど鋭い制止の声が、後のガルー戦士から飛んできた。 「マモーはいま、導士の声をきいている……そのまま、待つように……」  ノリスのかたわらに寄ってきた戦士が、小声でそう告げた。  しかし、先刻から、彼等の声に敵意は消えていた。  彼等の口調は、異国の客人に対するおだやかな注意を思わせた。  それが、ノリスたちの不安を和らげた。  彼等は、待った。  再び、マモーのしなやかな尻尾《しつぽ》が上下に揺れた。  そして、マモーはおもむろに一行を振り返った。 「導士は、あなた方全員を歓迎する、と伝えてきた。≪生命の泉≫で、六人の導士が待っている。導士はすでに、あなた方が何者であるかを知りぬいている、とおっしゃっていた……」 「ノリス!」 「隊長!」  マモーの言葉に、思わず緊張した隊員が、短く声をあげ、身構えたのが分った。  しかし、ノリスは身を固くしながらも、両の前肢を広げて、彼等を制止した。 「……そう、導士は確かにそうおっしゃった。ただし、怖れることは何もない。導士は、あなた方を、歓迎している。たとえ、あなた方が何者であろうと、導士が一度歓迎すると言ったなら、それは、言葉通りの意味で最後まで守られる約束だ。だから、無用な騒ぎは起こさないでいただきたい……」  ノリスたち戦隊員の考えに先回りしたかのように、マモーはゆっくりと、しかも有無を言わせぬ態度で言葉をついだ。 「……よろしい、それで、よろしい……では、六人の導士が待っている。≪生命の泉≫のほとりへ……」  マモーは、護送の戦士たちに目で合図を送ると、くるりと彼等に背を向け、いくぶん急ぎ足で先へ進みはじめた。  そして、大きな洞窟の分岐点を、つい、と左に折れた。  その時、ノリスは、はっと息を呑んだ。  ついきっき、同じ分れ道を右へ折れたような記憶が、確かにノリスには残っていたのだ。  どこも似たような光景だったから、はっきりとは断言できないが、その分岐の中央付近に光っている、ひときわ大きな結晶体には、どこか見覚えがあった。  ノリスは心の中で、低く唸った。 (ひょっとすると、このマモーは、俺たちをずっと、同じ迷路の中で引き回していたのかもしれぬ……)  ノリスは、その思いつきを自分で納得した。 (ひとつは、俺たちに、秘界への正確な道順を覚えさせないため……そして、もうひとつは、俺たちを堂々めぐりさせなから、どこかで導士とやらが、俺たちをじっくりと観察していたのではないか……)  だが、それは、もはや今となってはどうでもよいことだった。  ノリスたち六人は、ついに最後の分岐点を折れたのだ。  それは、どのような意味においても、後もどりのできない分岐であるにちがいなかった。  そのことを、ノリスははっきりと感じていた。 (ただ……行くところまで、進むしかあるまい……)  ノリスは、さまざまに湧き起こる雑念をすてて、心を空にしようとした。  そして、全てを、運命のままにゆだねる決心を固めた。  そう考えると、これまでどうしても心の隅にしつこくひっかかっていた地球人としてのわだかまりが、すっと遠くなるのが感じられた。  その時である。  急に目の前が拓けた。  彼等はついに、洞窟を抜けたのだ。  そこに、大きな空間が見晴らせた。  それは、なおも奥へ奥へと果てしなく拡《ひろ》がっているようだ。  そして、彼の立つ右手、いくぶん低く落ちくぼんでゆく場所に、豊潤な果実酒を思わせる真紅の澄んだ液体をたたえて、小さな泉が湧いていた。 (ここが、秘界か……そして生命の泉とは……)  彼はマモーに説明を求めようとした。  しかし、それよりも早く、その答が、ノリスの心の中に直接飛び込んできた。 (ノリス……その通りだ。ここは火星人たちの秘界……そして、そのなかでも、生命の泉と呼ばれる場所だ……ようこそ、ノヴ・ノリス……火星人の世界へ、ようこそ)  ノリスは慌てて首を振った。  こんな経験には、夢の中でしか出会ったことがなかった。  ガルーの姿となって火星の荒野に旅立って以来、彼は睡眠中にしばしば、何者かが彼の頭の中に直接語りかけてくるという幻想に捉《とら》われることがあった。  しかし、それはあくまでも眠りの世界での出来事だった。  ところが、今、彼の頭の中に呼びかけてきた声は現実だった。  いや、少なくとも、そう思えた。  ノリスは、そう確信した。  すると、また、声が聞こえた。 (ノリス、ノヴ・ノリス……顔を上げなさい)  彼は顔を上げた。  波紋ひとつない、澄明な真紅の泉が、まず目の前にあった。  彼はさらに頭をそらした。  すると、泉から次第にせり上ってゆく石段状の壁が見えた。  その壁も、全面不思議な光沢を放つ結晶体に覆われている。  ノリスは壁に沿って、視線をさらに上へ向けた。  すると、そこに、六人のガルーが、ひっそりと腰を下ろしているのが目に入った。  彼等は、まるで彫像のように気配を消し、身じろぎひとつせずに、ノリスたちを見下ろしていた。  その身体には、粗末だが清潔なローブをゆったりとまとっていた。  そろって、腕に、一本の杖を握っている。  彼等は非常な高齢と見えた。  しかし、にもかかわらず、彼等はなかなかの立派な体格を保っていた。  ノリスたち、スーパー・ガルーの強化された筋肉を思わせる力強さを、彼等六人は、その全身から発散していた。  ただその顔つきには、生きてきた年月だけが加え得る、抗《あらが》いようのない威厳が備わっていた。 (導士……六人の導士……)  ノリスは心の中で、かろうじてその言葉をつぶやいた。  すると、それに応えるように、中央の一人が微かに首をたてに振った。  そして、導士は口を開いた。 「ノヴ・ノリス……トマス・ランダル……リック・ウィンチェル……ミジャ・ノーザ……ロン・ラプロ……カンドゥ・ナギ……」  導士は、ひとりひとりの名を正確に、ゆっくりと発音していった。  まるで、その名前を口のなかで楽しんでいるかのように、導士の声は快い響きとなって秘界にこだました。 「ここは、火星人以外、決して立ち入ることのできぬ場所、生命の泉が湧く聖域だ……ここへ、おまえたち六人はやってきた。なぜなら、おまえたちは火星人だからだ」  導士は相変わらず、どこか楽し気な声で、そう告げた。  ノリスの背後で、ランダルやノーザが息を呑《の》む気配が感じられた。  彼等は一様に驚きのなかにいた。  ただし、その驚きは、彼等にとっても、決して不快なものではなかった。  彼等はすでに、不確かな夢想のなかで、いつか、このような日がやってくることを予知していた。  彼等の胸に、導士の言葉が沁《し》み入ってゆく。 (そうだ……俺たちは、火星人だ……) (俺たちは、俺たちは、地球人じゃない……) (俺たちは、火星人なんだ……)  彼等はその発見を、じっくりと胸のうちでかみしめていた。  ノリスは、抑え切れない感情がうずくのを感じて、強く目蓋《まぶた》を閉じた。  そして再びきっぱりと目を見開き、石段上の壁に並ぶ導士たちを見上げた。 「導士……我々はこの姿となってから、ただ、火星の赤い大地とともに生きてきました。そして、この姿は、火星で生まれ育ったものの姿です。それは、まちがいない。しかし、にもかかわらず……我々は、この肉体をまとっただけの、そういう存在です……」  一瞬の激情が、ノリスの言葉をひどく率直なものにしていた。 「我々は全員、地球人としての記憶を、未だにかかえています……それが、どういう意味を持つのか、我々には、少なくとも、今のわたしには分かりません」  すでに、全てを知られている、とノリスは悟っていた。  だから、何ひとつ、隠すべきことも、隠すべき理由もなかった。  ノリスは待った。立ちつくして、導士の言葉を待った。  すると、六人の導士が、杖にすがりながらも、いっせいに腰を上げた。  そして、右端の導士が、かんで含めるような調子で話しはじめた。 「火星人の肉体をまとっているだけ、だと?……なんと、こっけいな考え方をするのじゃ。それは、全く、反対ではないか」  すると、別の導士が言葉をついだ。 「それは、逆さまだ……まるで反対だ……」 「そうとも、火星人が、地球人の脳みそを捕虜にして、ここへ帰ってきたのじゃ。そうだとも、それが正しい考え方じゃ」 「おまえたちは、火星人なのだよ、ノリス、ランダル、ウィンチェル、ノーザ、ラプロ、ナギ……そうとも、おまえたちは、地球人の手を逃れて帰ってきた火星人なのだ」 「まったく……なぜ、そう考えぬ……なぜ、そのことに気づかぬ!」  導士たちは、口々に言い放った。 「し、しかし、導士……」  思わず、反論がノリスの口をついて出かかった。だが、彼はその後を続けることができなかった。 「さあ、おまえたち……生命の泉を汲《く》んで飲み干すがいい。そして、火星人の魂に還るのだ、火星人の心の輪に加わるのだ、さあ!」  導士たちの言葉をひきとって、なかでも最も高齢と思えるひとりが、ひときわよく通る声でそう告げた。 「そして、行くがよい。自分とは、何かを確かめるために、もう一度、地球人たちのもとへ行ってくるがよい。導士として、我々は、そのことを、おまえたちに命ずる。おまえたちは再び旅に出る……そして、おまえたちを、この世界に生み落とした地球人と出会うことになる。そこで、おまえたちは、はっきりと自分が何者なのかを悟ることになるだろう」  導士の声は朗々と響いた。 「我々を、この世に生み落とした……人物」  ノリスはその言葉を反芻した。 (マルク・ゴゼイ……それともブロード大佐……いや、ちがう……)  ノリスの脳裡に、ようやくひとつの名前が浮かび出た。 (そうだ、ミネだ! ミネ軍医長だ……) 「さあ、生命の泉を汲むがよい、そして、行くがよい。われらが密使として、クリュセの谷へ行くがよい」  導士が杖を振り上げた。  ノリスの心に、また深い波動が伝わってきた。  その波動は、まずノリスの肉体を揺り動かし、ついで、彼の地球人の魂をまでその渦に巻き込んでいった。  第5章 決  戦     1 ≪部隊≫の先頭には、黒光りする五つの巨塊があった。  犀《さい》だ。  胴体各部を鋼鉄の装甲板で覆った五頭の犀が、あたかも五つの小山であるかのごとく大地にうずくまって待機しているのだ。  その頭部は凶々《まがまが》しい兜《かぶと》を思わせる形状のヘルメットで防護され、さらにそこから超硬材の鋭い衝角が突き出している。  その姿は、はるか有史前に絶滅したある種の恐竜を想像させた。 (いやそれよりも、地獄の悪鬼が設計した邪悪な重戦車と言うべきだろうか……)  スボ中佐は、背中を走り抜ける悪寒に思わず身震いすると、その巨犀の隊列がズーム・アップされている司令塔のメイン・スクリーンから目を離した。狭い司令塔内部には、緊張感とともに、言いようのない不気味な沈黙がただよっている。司令官席のロード少将は、先刻から、ひっきりなしに額に吹き出す汗を拭っている。  スボ中佐は、その将軍のかたわらに歩み寄った。 「……よ、よし。それでは戦闘行動を見せてくれ」  中佐を振り返ったロード少将が、上ずった声でそう命じた。その顔には、恐怖に近い表情がある。  誰もが、その異様な軍団を怖れていた。  怖れ、そして忌み嫌っていた。  そこに人間やその社会の戯画を見いだす者もいれば、人類の尊厳に対する明らかな冒涜《ぼうとく》を感じる者もいた。  その他、大勢の者が、意味のはっきりしない怖れにとりつかれていた。  スボ中佐は、司令塔の内部をぐるりと見わたしてみた。  ただひとり、ミネ軍医長だけが毅然《きぜん》たる態度でスクリーンに見入っている。  しかし彼を除く二十数名の指揮員たちは、皆その表情のどこかしらに嫌悪の気持ちをにじませているように見えた。  スボ中佐は、そっと溜息をつき、そしてロード少将に向き直った。 「では、将軍。これより、行動を指示します」  中佐は通信兵が差し出したマイクを握り、ひと呼吸おいて、最初の命令を吐き出すような大声で怒鳴った。 「前進開始! 輪型突撃陣つくれ!」  メイン・スクリーンの画面が変わった。  今、それは、五頭の犀のうちでもひときわ屈強な巨体を誇る中央の一頭の背中を映し出していた。  そこには、二匹の猿が頭を低くしてしがみついている。  やはりヘルメットをかぶり、攻撃的に犬歯を剥きだしにした、若い牡《おす》のヒヒだ。  命令はまず、このヒヒたちに伝えられる。  スボの声に、二匹は素早く反応した。  彼等は犀の上で跳び上がるようにして向きを変え、背後にひかえている隊列に向かって、甲高《かんだか》い悲鳴に似た号令を発した。  すぐに、軍団全体が低い唸り声でそれに応える。  そして、二十頭余りの豹《ひよう》や虎《とら》などの猛獣群、それに加えて、百頭に近い戦闘犬がいっせいに身を低く構えて突撃の姿勢に移る。  猛獣や猛犬類は、その種族ごとのグループに分けられて隊列を組んでいた。  それぞれの群のリーダーの背には、やはり一ないし二匹のヒヒがまたがっている。  彼等は、各群団を組織的に誘導する指令ネットワークの要としての役割を与えられているのだ。  巨体を震わせ、地響きをたてて、五頭の装甲された巨犀群が突進をはじめた。  ヒヒたちが呼び交す声も、にわかに高まる。  一瞬遅れて、大型の猛獣、そして戦闘犬がすさまじいダッシュでそれに続く。  と、戦闘犬群が、見事に統制された動きで左右両翼に散開したかと思うと、そのまま隊列全体を押し包むような形で輪型陣を組み上げてゆく。  布陣が終ると、百数十頭の凶悪な群団は、機械のように正確な速度で、乾き切った火星の渓谷を疾駆した。  指揮員の間から、わずかばかりの歓声と拍手が起きる。 「うむ……素晴らしいものだ。まったく、これはひとえに軍医長の功績だ……」  ロード少将は幾分苦し気にそんな讃辞を絞り出すと、司令席の後に白衣で陣取るミネ軍医長を振り返った。 「いや、将軍……お言葉ですが、この程度の行進なら小学生にでもできることです。ただのデモンストレーションとしてなら、なかなかのみものだが、それ以上の意味はない」  答える軍医長の声は苦い。  彼は、この新任の基地司令官にほとんど何も期待していなかった。  彼は地球の軍隊内で、全く瑣末《さまつ》なデスクワークの積み重ねと、独特の保身の嗅覚《きゆうかく》によって現在の地位を獲得したに過ぎないだけの男だった。  つまり、今回のような革新的な作戦には、不要であるばかりか有害な存在とすら言えた。  ミネ軍医長は、そのことでここ数日悩み続けていた。  彼が火星軌道上の母艦へもどらず、滞在を延期して≪部隊≫の実戦トレーニングにつきあっているのも、ひとえにロード少将の運用術が不安だったためだ。  そしてロード自身もまた、こうした戦局と作戦における自分の不適性をはっきりと自覚しているはずだった。  にもかかわらず、彼はその小心から、任務を辞退することができなかったのだ。  ロード少将もまた、明らかに頭を悩ませていた。  しかしそれは、≪部隊≫の運用についてではなく、自分の将来に対する悩みでしかなかった。 「し、しかし、軍医長……あれは、なんと言っても動物ではないか。獣の群だ。その獣が、まるで人間のように行進している。儂《わし》はそのことを言っているのだ」  ミネの明らかに反抗的な態度にうろたえながらロード少将が言った。  ハンカチを握った右手が震えている。 「将軍、そのお考えをまず棄てていただかねばなりません……」  ミネは、メイン・スクリーンの画面から目を離さず、教えさとすような調子でゆっくりと話しはじめた。 「いいですか、将軍? 我々の敵、ガルーもまた人間ではないことをお忘れになっては困ります。彼等も、そう言われるなら、ただの動物にしかすぎない。いや、動物だったと言った方がいいかもしれないが、少なくとも我々人類とは全く別種の生物です。そのガルーたちに、我々はこの火星から追い立てられようとしているのですぞ。その意味を、よくお考えいただきたい」 「我々が追いたてられる、だと!? これはまた縁起でもないことを言う。確かに、火星での戦況が有利な材料ばかりで成り立っているとは思わんが、そういう言い方は不穏当だろうが、え? ミネ軍医長」  ロード少将は、自己の保身術から考えれば余りにも露骨な発言を繰り返すこの軍医長に警戒心をかき立てられながら反論した。  下手に扱えば、この東洋人の科学者こそが、ロード自身のつまずきの第一歩になりかねないことを彼は直感していたのだ。 「将軍、言い方の問題はどうあれ、我々人間の部隊が、あのガルーたちに追い立てられているという事実は変わりません。我々は彼等に比べ、圧倒的に優勢な火力と、その運用システムを保有しています。にもかかわらず、そのすべてを注ぎ込んでも、我々が支配できるのは、火星上の限られたいくつかの点にしか過ぎません。それに対して、ガルーたちは、我々から奪った不満足な武器で、火星各象限の広大な面を支配しています。これは事実です」 「だが、しかし、儂はまだ地球から来て日は浅いが、それほど戦局が絶望的だという報告は聞かされていない。いや、たとえ聞かされても、信じることなどできぬ。何と言っても、相手はカンガルーだぞ。我々が、奴等に対するみくびりを棄て、本気で取り組めば……まさか、それでも局面を挽回《ばんかい》できないなどと考えているんではあるまいな、軍医長。きみは火星での任務が長すぎたために、敗北主義という病いに侵されてしまったのではないのか?」  ロード少将は、なんとかとりつくろった威厳で、ミネを恫喝《どうかつ》にかかった。 「どうなんだ、軍医長!? こんなことを言うのもなんだが、きみには、絶対に勝利するのだという信念が欠けているのではないか? 少なくとも、この儂は……」 「お待ちください、将軍……」  さらに言いつのろうとするロード少将を制したのはスボ中佐だ。 「≪部隊≫が転針を終え、次の指令を待っております。演習を続行してもよろしいでしょうか?」 「あ、ああ……すまん、中佐。つい、軍医長との討論に熱が入ってしまった。よろしい、次の行動を見せてくれ」  ロード少将は、またしきりとハンカチで額を拭いながら、頭を背もたれにあずけてスクリーンに向き直った。 (何が、討論だ……)  心の中で、ミネ軍医長は思いきり毒づいた。 (駄目だ、この司令官では、駄目だ……)  彼は思わずめまいのようなものを感じて目を閉じた。  すると、不意にとんでもない考えが頭の片隅に浮かび上ってきた。 (……ひょっとすると、この男は、ただ敗戦処理の目的で投入されてきただけの将軍なのかもしれない……)その疑惑が、彼の浅黒い顔をこわばらせた。(……すでに、すでに、地球は、この火星を見棄てたのではないか?……) 「よし、そこから左九十度転針! 尖型《せんけい》突撃陣組め!」  スボ中佐がマイクに向かって叫んでいる。 「将軍、ひとつだけつけ加えておきたいことがあります……」  ミネ軍医長が動揺を隠しながら、再びロード少将に声をかけた。 「なんだね、言ってみなさい」  再び画面中央を行進しはじめた≪部隊≫をにらみながら、ロード少将が不快そうに答える。 「わたしが強調したいのは、この≪部隊≫の意義についてです」ミネが言った。 「≪部隊≫の意義だと? 今さら、また改まって何を言いだすんだね、軍医長。確かに、獣どもをここまで育てたのは、きみの力だ。儂のような根っからの軍人には到底理解できん科学的功績だ。しかし、その意義までを、そう大げさに云々《うん》する必要もなかろう。儂に言わせれば、それは簡単なことだ。つまり、動物が起こした問題は動物に始末させる……つまりは、そういうことだ。誰だって、自分たちの息子がカンガルーに殺されたと知ったら、いい気分はしないものだ。そうだろう? それが≪部隊≫の意義ではないのかね?」  ロード少将は言いなから、ミネ軍医長に唇を歪めて見せた。 (違う! 違うんだ!)  ミネは、心の中で歯ぎしりしながらも、怒りを抑えてロード少将に答えた。 「確かに……確かに、そういう見方をしたがる人もいるでしょう。しかし、それでは≪部隊≫の真価は発揮できません。いいですか、将軍……先ほどあなたが言われた通り、我々は何よりもまず勝利しなくてはならない。そして、≪部隊≫は、その勝利を掴むための突破口を切り開く�兵器�なのです。決して人間の兵士の肩がわりをするためだけに、火星へやってきたのではありません。いいですか、将軍……あの戦闘犬をご覧ください。あれ一匹をドーベルマン種から改造し、基礎的な戦闘能力を植えつけるためには、およそ人間の新兵三十人を一人前に育て上げられるだけの費用がかかるのですぞ。もしこれまで通りの戦争を続けて、それで我々が勝ち得る可能性があるのだとしたら、こんな≪部隊≫を運用する必要などないのです」 「待て、ちょっと待ってくれ、軍医長」ロード少将が片方の眉を上げた。「きみは、人間の命を、投資した金に換算しようというのかね?」 「いや、そんなことを言ってるんじゃありません。わたしが言いたいのは≪部隊≫の、本当の意味についてです。彼等がこれから遂行しようとしている戦争についてです。将軍、あなたがどうお考えになろうと、この火星全域で、地球人が、ごく限られた点に押し込められているのはまぎれもない事実です。しかも、その点は、ひとつ、またひとつと、地上から拭い去られている。いいですか? 今、我々は、この戦争全体の流れを、我々の手で、全く新しいものに変えなくてはならないのです。さもなければ、この先にいかなる勝利もあり得ません。我々に必要なのは、この戦争の流れ、その質を一変させるための�兵器�でした。そして、≪部隊≫が、そのひとつの回答なのです。≪部隊≫の意義とは、まさに、それなのです。≪部隊≫とは、そのように運用されない限り、文字通り、ただの野獣の集合体でしかないのです。いいですか、将軍。≪部隊≫は断じて、人間の兵士の肩がわりをするために編成されたのではないのです。≪部隊≫は、この戦争の基本概念を変えるために……」 「軍医長、何度同じことを儂に講義すれば気が済むんだ!」  ついにたまりかねたロード少将が、きつい口調でミネ軍医長に食ってかかった。 「儂はきみが考えているほど馬鹿ではないぞ。戦争の質がどうの、基本概念がどうの、と……いいか、言っておくがな、戦さというものは、そんな頭の中の計算でやりとげられるものじゃないんだ。無用な口出しはいい加減にしてくれ! いいか、軍医長。儂は、儂のやり方で、この基地と≪部隊≫を指揮する。それが儂の、軍人としての仕事であり、義務だ。きみはきみで、自分の職務を果たせばよかろう!」  言い放つと、ロード少将はかたわらのスボ中佐にこぶしを振り上げて合図した。 「やれ!≪部隊≫を突っ込ませろ! 人間の兵隊とは違うところを見せてくれ!」 「分かりました」  スボ中佐は、感情のない声で答えた。 「やれ! 行くんだ!」  ロード少将は怒りに駆られて、なおも叫ぶ。  スボ中佐は、そっと悲し気な笑みを浮かべてミネ軍医長に目くばせすると、マイクをつかんだ。 「全軍、尖型陣のまま突撃せよ。目標は、右前方の敵バリケード。3、2、1、攻撃《アタツク》!」  猛然と≪部隊≫の突撃がはじまった。  指揮員の約半数はスクリーンを、残りの半数は司令塔の窓際に寄って、そこから肉眼で、あるいはスコープで、そのすさまじい突進を見つめている。 ≪部隊≫の前方には、岩や鋼材を組み立てたバリケードに囲まれて、ガルーの模擬基地が設置してある。  五頭の装甲された犀を先頭に、野獣たちの一団がそこへ殺到した。  火星の低重力下とはいえ、その電光のようなスピードが、観戦する指揮員たちを驚かせた。  と、まず、犀の隊列が、兜から突き出た衝角を振りかざしてバリケードに体当りする。  頑丈に見えたさしもの障壁も、まるで紙か何かのように打ち破られ、そして、その突破口から、豹や虎、戦闘犬の群が、先を争ってなだれこむ。  そして基地内の各所に用意されてあるガルーの人形めがけて、凶悪そのものの敏捷《びんしよう》さで襲いかかり、それをばらばらに切り裂いていく。  興奮の余り、仲間どうしで小ぜりあいをはじめる猛獣もいるが、そこには即座に、ヒヒを背にのせた各群のリーダーが割って入る。  戦闘は、ものの十分も続かなかった。  その十分で、ガルーの摸擬基地は、完全に≪部隊≫に占領された。 「そうだ、これでいいんだ!」  ロード少将が叫んだ。 「どうだね、軍医長。立派なものじゃないか。そうさ、正攻法に優る戦術、戦略などあり得ないんだ。儂は地球でそう教えられてきた。儂はそれを信じておるし、ここが火星で、敵がカンガルーだからといって、その考えを変えるつもりは毛頭ない。儂は、この精強な≪部隊≫を真正面から敵にぶつけてやる。そして、ガルーどもを蹴散らすんだ。心配はない、そうさ、素晴らしい≪部隊≫だ。軍医長の言う通り、確かに一頭で新兵三十人以上の力を持っているかもしれん。やるぞ、儂はやってみせるぞ! それで文句はないだろうな、軍医長——」  ロード少将は勢い込んで後の席を振り返った。  しかし、すでにそこにはミネ軍医長の姿はなかった。 「おっ……ど、どこへ行ったんだ? ミネ軍医長は!」  ロード少将が、スボ中佐に問いかけた。  中佐はただ無言のまま肩をすくめた。 「まったく、あの、マッド・サイエンティストにも困ったもんだ……なあ、みんなもそう思うだろう」  ロード少将は、今こそ、基地司令官としての威厳を回復すべき時だと感じた。  そして、基地司令就任以来、幾度も自室で練習した豪傑笑いを部屋中に響かせ、そして再び大声で言った。 「まったく、大した≪部隊≫じゃないか。あのミネという科学者はどうも好きになれんが、この≪部隊≫には、どうして、まぎれもない軍人の血が流れているわい。気に入った。よし、儂はやるぞ。素晴らしい! まったくだ。そう思うだろう、スボ中佐!」  ロード少将は立ち上がり、中佐の背をどんと叩いた。 (ただの、ショウだ。デモンストレーンョンだ……何の意味も、ない……)  スボは自分の冷たい視線を隠すように、メイン・スクリーンを眺めた。  今、≪部隊≫は再び隊列を組み、この訓練場ガリア渓谷のなかほどにある兵舎めざして行進して行くところだ。  そして、ロード少将のはしゃぎ方とは裏腹に、多くの指揮員たちもまた、この野戦の部隊に、深い疑惑と恐怖のまなざしを向けていた。  実戦経験の豊かな彼等は、この≪部隊≫が、これまでの軍隊とは全く違う概念によって運用されなくてはならないことを悟っていた。  しかし、彼等は、その正確なイメージを掴むことができないでいたのだ。  彼等は、切実にミネ軍医長の用兵論を求めていた。  しかし、それを口にすることは誰もできなかった。  この状況のなかで、スボ中佐は、自分の役割が極めて重要であることを唐突に気づいた。 (そうだ……俺がやるしかないんだ)  中佐はくるりと身をひるがえした。  そして少将の許しも得ずに、ミネ軍医長を追って、司令室からとび出していった。     2  ……そして、ここガリア渓谷には、≪部隊≫を沈黙のうちに見守る別の一団があった。  その影は五つ。  彼等は赤褐色の長いマントのようなものをはおり、渓谷全体を見下ろせる細い崖沿《がけぞ》いの道を北へ移動していた。  時おり、上空を無人の警戒機や偵察球が行き過ぎる。  すると五つの影は、身体全体をマントですっぽりと覆って岩陰にうずくまり、気配を消す。そうやって、完全に大地に融け込んでしまうのだ。  マントは、なめした野兎の皮でつくられていた。  ことさらに細工や工夫が凝らされているわけではない、ただのマントだ。  しかし、照りつける太陽や、荒野の砂、そしてほこりが、そのマントを絶妙の迷彩服に仕立て上げていたのである。  それは、何の手も加えぬ天然のものであったからこそ、どんな異和感もなしに自然と同一化することができたのだ。  それに加えて、この火星の荒々しい環境で特殊な進化をとげつつある野兎の毛皮は、極めて優秀な遮熱素材だった。  そのために、上空から監視の目を光らせる赤外線装置も、彼等の侵入を未だ感知することができずにいる。  風はゆるく西から吹いていた。  ノヴ・ノリスは、鼻をうごめかせて、あたり一面にただよってくる種々雑多な獣たちの臭いを嗅ぎ分けていた。  胸にかけた双眼鏡を使わずとも、≪部隊≫の動きは手にとるように分かった。  ノヴ・ノリスは、それら≪部隊≫の像を心のうちに焼きつけ、そして、放った。  それは砂地にしみこむ水のように、火星全体を覆う波動にのって、いずこともなく拡散していく。 (生命の泉だ……あの泉の、赤く澄明な水が、俺の心を解き放った……)  ノヴ・ノリスは、不思議と平穏な感慨にひたりながら、なおも眼前に展開される野獣たちの狂態を見つめ続けた。  それはノリスにとって、まるで他の惑星の出来事のように思えた。 (彼等は何だ……ここで、この土地で何をしている……)  奇怪な武具に身を固めた犀がいる……豹や虎、見るからに狂暴な犬たちも群れている。  しかし、その光景は、ノリスたちに決して恐怖感を植えつけるものではなかった。彼等はむしろ、サーカスのショウを見学する子供ででもあるかのように、軽い興奮とともにそれを楽しんでさえいた。  風向きがゆっくりと西から南へと変わっている。  彼等はそれにつれて、刻々と位置を変え、そうしながら、渓谷の北端近くにある純白の建物と、その上に突き出た塔をめざして進んでいった。  ノヴ・ノリスたち五人が、サイドニア街道と呼ばれる平坦な帯状の低地を南下して、このクリュセ地区に入り込んだのは二日前のことだった。  彼等は、闇雲に、そして投げやりに展開されている索敵・掃討作戦の合間を縫って、やすやすと基地周辺部に達していた。  そして、空・陸から厳重に封鎖されているガリア渓谷へ侵入するために、さらに一日が必要だった。 (そこに、おまえたちを生み落とした人間がいる……)と導士は言った。(……おまえたちが会って話さねばならないはずの地球人がいる。そしてその人物は、地球人のなかで、もっとも火星の風土を嗅ぎわけることのできる人間じゃ。そのことを我々は知っている……すべてを、この生命の泉が教えてくれる……我々は何ひとつ考えない……ただ、火星人として、火星そのものを感じとるだけだ。ただ、それだけだ……)  さらにノヴ・ノリスは、彼等からちょうど一日遅れて、小部隊に分かれたガルーの中核的戦士団が、やはりサイドニア街道を続々と南下しつつあることを知っていた。  その部隊の使命が果たしてどのようなものになるのか、それは未だに、誰にも分からないことだった。  彼等はただ、自らの心が命ずるままに、クリュセへ、クリュセへと集結を開始したのだった。  ノヴ・ノリスは、あるときは風を切って疾駆し、またある時は、岩陰に身を潜めて地球人の索敵をやりすごす彼等戦士団の動きを、ぼんやりと心のうちで感じていた。  彼等の緊張や熱気が、はるかかなたから送られてくる電波のように、強く弱く脈打ちながらノリスにも伝わっていた。  それを心地良い音楽のように聞きながら、ノリスもまた眼下で繰り広げられている野獣たちのデモンストレーションの光景を、彼等に送り返すのだった。  しかし、そろそろショウも終りに近づいた。  勇ましい吶喊《とつかん》の末、つくりものの敵陣を撃破した獣たちは、再び羊のように隊列を組み、谷底をのろのろと引き返していく。  ノヴ・ノリスの尖った耳が、無意識のうちにぴくぴくと震えた。  彼はそうやって笑っていた。  それは地球人の顔を歪める不様な笑い方よりも、はるかに活《い》き活《い》きとした笑いの感情を仲間たちに伝えるのだ。 「隊長、いや、ノリス……」  小声で彼を呼んだのはランダルだ。 「……見てください、誰かが、あの建物から出てきた……」  ノリスは急いで、塔のある白い建物に首をめぐらした。  十数台の地上車が横付けされたその建物は、明らかに、この野獣のための演習地の司令部と思われた。  そこから大またで出てきた男は、軍服ではなく白衣をはおっていた。  ノヴ・ノリスはその姿に目を凝らした。 (…………!)  ノリスの太い尾の先が、ぴくりと動いた。  男は後も振り返らず、そのまますたすたと一台の地上車に歩み寄り、そのドアに手をかけた。 「あっ……もうひとり出て来る……」  つぶやいたのはラプロだ。  今度の男は灰色の軍服を身につけている。 「博士ーっ! ミネ博士、待ってください!」  白衣の男を追ってきたらしい軍人が、大声でそう叫んだ。  その言葉は崖に囲まれた渓谷の中で谺《こだま》となり、二度、三度とノリスたちの鋭い耳に響きわたった。 (ミネ……ミネ博士!)  五人が五人ともいっせいに顔を見合わせた。  彼らの捜し求めていた人物が、あっさりと彼等の前にその姿を現わしたのだ。 「よし! 先回りしよう。あの建物から、渓谷の端の検問所までの途中に、道の折れ曲った場所がある。そこで、あの地上車を待ち伏せるんだ!」  ノリスは手短かに指示を与えると、先頭に立って、まず崖の頂上へとよじ登りはじめた。  そこから一気に尾根を駆け抜けて距離をかせぎ、待ち伏せの場所へ岩の斜面を跳び降りるつもりだ。  ノリスたちスーパー・ガルーの筋肉は、その激しい、危険な登攀《とうはん》と跳躍を楽々とこなす。  幸運にも、上空の目に入る範囲には、警戒機などの影はない。  それでも彼等はマントを頭からかぶるような格好で、身を低くかがめ、岩陰を縫って進んだ。  不注意な人間の見張りなら、たとえ十メートル先を彼等が駆け抜けても見逃してしまうかもしれない。  それほど彼等の動きは際立っていた。  彼等は今や火星人だった。そしてなお、スーパー・ガルーだった。  ミネ博士が創り出し、ブロード大佐が鍛え上げ、さらに生命の泉を汲んだ生き物たち……  その五つの影が、大地と岩にまぎれて渓谷の斜面を駆け降りはじめた。 「来ます! ノリス、地上車だ」  軽く息を切らしてウィンチェルが言った。  彼等は背中にくくりつけてあった小銃を両手に握り直すと、二手に分れ、地上車の前後をふさぐかたちで道路に跳び出した。  鋭いブレーキ音とともに車体を軋《きし》らせて、小型の軍用連絡車は急停止した。  そこへ向けて、ノリスたち五人はダッシュした。 「ガ、ガルーだ! いつの間にこんなところまで!」  天蓋《てんがい》のないオープンのシートから放り出されそうになりながら、軍服の男が叫んだ。  その手が大慌てで腰のホルスターにのびる。  ミネ博士と思われる白衣の運転者は、必死で車を切り返そうとするが、背後まで迫ったガルーをバックミラーで認めたのか、そのまま連絡車を路肩にのり上げ、バック・シートから何かの得物を掴み出そうとする様子だ。 「やめろ!」  次の一跳躍で、地上車のボンネットに跳びのったノリスが鋭く命じた。 「いま、すぐに死にたくなかったら、あきらめて手を上げるんだ。抵抗さえしなければ、おまえたち二人は無事に基地へ帰す!」 「き、きさまら……」  あっ、と思う間もなく胸元に突きつけられた銃口を見て、思わずのけぞりながら、軍服の男は目をむいた。  激しい驚きと怒りで、蒼白《そうはく》の顔がぶるぶると痙攣している。  しかし、その右手は、そろそろと抜け目なく、ダッシュ・ボードの下の通信器に向けてのびてゆく。  今度は警告もせずに、ノヴ・ノリスはその軍人の腕に銃の台尻を打ちつけた。  まともにその打撃を受けとめた男の腕が嫌な音をたてて垂れ下がった。 「よし、二人とも車から降りろ。ゆっくりと、だ」  ノリスの丸太のように太い尾が、激しくボンネットを叩いて、二人を威嚇した。  ミネ軍医長は、無言のまま車のドアを開け、少しよろめきながら地面に降り立つ。  すでに抵抗の意志を喪失しているのか、それとも反撃のチャンスをじっくり狙《ねら》うつもりなのであろう、両手を自分から頭の後ろに組んだ。  それを見て、腕をへし折られた軍人も、低く呻《うめ》きながら、車から転がり出た。背後に駆け寄ったランダルが、素早く彼等を武装解除した。  このような事態を夢にも想像していなかったのだろう、二人とも、小さな短針式のハンドガンを一丁ずつ持っているだけだった。  ノーザは地上車の中を探って、起動部の配線をひきちぎる。 「よし、これでいい。では、二人とも少しばかり山登りをしてもらおう。この崖の中腹に、ちょっとした岩の窪みがある。そこまで我々といっしょに登るんだ」  ノリスが言った。 「この、薄汚いガルーどもめ。おれは喋らんぞ。たとえ、拷問されようと、おれは、くじけん! だから、殺すならこの場で殺せ!」  軍服の男は脂汗をあごの先からしたたらせ、いっそう青ざめた顔で毒づいた。 「殺しはせん、と言ったはずだ。それに、おまえたちから教えてもらわねばならぬことなど、ひとつもない。そんなにまでして隠したい秘密があるとでも言うのか? それはまさか、あの犀の仮装行列のことではあるまいな?」  ノヴ・ノリスは冷笑的に鼻面を歪めて見せた。 「うっ……」  彼は一変して顔面を真赤に紅潮させ、口をつぐんだ。 「そうだ……分かったら、おとなしく、いっしょに来るんだ。俺たちはただ、そのミネ博士と話しあいたいだけだ、それだけだ」  ノリスが言った。  その途端、それまで全く無表情で立ちつくしていたミネ博士の顔色が変わった。 「ど、どうして、博士の名を知っている!? なんだ! いったい、おまえたちは、なんだ!?」  中佐の肩章をつけた軍人が、また咆《ほ》えた。  どうやら、その大声を味方に聞きつけてもらうつもりらしい。  そんな相手と問答を繰り返す愚に気づいたノリスは、いきなりその中佐に体当りを食わせ、そのまま身体を肩にかつぎ上げた。  ノリスの意図を悟ったランダルも、すぐにミネ博士を自分の肩にのせる。  そして、五つの影が跳躍した。  岩づたいに、見る見る崖を駆け登る。  一瞬気を失っていた中佐が暴れ出すよりも早く、ノリスは巨岩と巨岩のはざまにあるテラス状の窪みに彼の身体を投げ込んでいた。  続いてミネ博士をかついだランダルをはじめ、四人が一団となってそこに跳び込んできた。 「くそっ! 我々をどうするつもりだ、何が望みなんだ!? ま、まさか、我々をここで食うつもりなんじゃあるまいな! おいっ、そうなのか!? おれたちを食うのか?」  完全に動転した中佐は、自分で言いだした言葉に自分でおびえ、とんでもない妄想にとらわれてわめきだした。 「やめろ、黙るんだ!」  たまりかねたノーザが、銃を振り上げようとしたその時—— 「スボ中佐、見苦しいぞ!」  唐突にミネ博士の叱声《しつせい》が飛んだ。 「いいか、中佐、静かにするんだ。大丈夫だ、このガルーたちは、わたしたちに危害を加える気はない。下らん心配をするな!」  ミネ博士は平手で鋭く中佐の頬を打ち、彼の口を閉ざすと、いったんしゃがみ込んで、彼の骨折した腕を確かめた。 「心配ない……さあ、こうして腕をベルトで身体に巻きつけておく……大丈夫だ……」  ミネ博士はあやすように声を和らげると、放心して黙り込んだ彼に応急処置をほどこした。  そして、うつむいたまま大きな溜息を洩らすと、意を決したように立ち上り、見守るノリスたち五人のガルーと向きあった。  その時はじめて、ノリスはミネの目の奥にどうしようもない悲劇的な困惑の色を見てとった。  彼は、その表面的な平静さとは裏腹に、最も根源的な恐怖に打ちのめされていたのだ。  彼の無意識はすでに真実を嗅ぎあてていた。  しかし彼の理性が、激しくそれを否定しようとあがいていた。  その葛藤《かつとう》が、再び彼を沈黙させた。  異様な緊張が、ミネと、そしてノリスたち五人のガルーの間で高まっていった。  そしてついに、その圧迫に負けたミネ博士が口を開いた。 「ま、まさか……そんなことが……ちがう、そうじゃないな?」  ミネの口調は、泣き声に近い。 「……違うと言ってくれ……おねがいだ、おまえたちは、ただのガルーだと言ってくれ……そして要求を聞かせてくれ。頼む、どんなことでも教えよう。何か欲しいものがあるのなら与えよう。だから、黙って、ここから立ら去ってくれ、頼む、このとおりだ」  ミネの言葉から、あらゆる気力が抜け落ちてゆく。  それがノリスには分かった。 「博士……何てことを……」  ようやく我に返ったスボ中佐が、なおも懇願の口調でつぶやき続けるミネに声をかけた。  しかし、その彼も、この場のただならぬ気配を感じとったのか、それ以上騒ぎたてることはしない。  ミネの声が一段と細くなり、そして消えた。  それを待っていたかのように、ノヴ・ノリスは身体を太い尾で支えながら、一歩、彼に近づいた。 「軍医長、わたしの名はノリス……IDコードG12、ノヴ・ノリスです」  ノリスがそう告げた瞬間、ミネの全身は、まるで強電流を通されたかのように硬直した。     3 「……そんな……嘘《うそ》だと言ってくれ……お願いだ……そうだ、やはり、嘘だ! あの戦隊は十三人で構成されていた。だが、おまえたちは五人しかいない。そうだ……やはり、嘘なんだ。そのGナンバーを誰から聞いた、え? 捕虜からか? 戦隊は、おまえたちの捕虜になって殺されたんだな? そうだろう……きまっている……そうに決まっている……」  ミネの目が完全に正気を失い、 真実からの逃げ場を求めてでたらめに動き回っている。  ノリスの尾が、そんなミネの思考の迷路を切断するように激しく地面に打ち据えられた。 「軍医長! いや、ミネ博士! 今、ここで、あなたに報告させてくたさい。全戦隊員十三名のうち、七名は戦死しました。地球の装甲歩兵団に追撃され、殺されたのです。その包囲から脱出した者は六名、このわたしG12・ノリス、それにG8・ランダル、G5・ウィンチェル、G11・ノーザ、G7・ラプロ、G3・ナギが生き残りました。しかしナギは重傷を負っており、今も火星人たちによる治療を受けております」 「……な、なに……火星人に……やはり、きみたちはガルーどもに捕えられたのか!」  ミネ博士が、すがりつくような声で言った。 「捕虜、という言い方は正しくない。装甲兵団に包囲され、あと一撃で全滅必至の我々を救ってくれたのが、彼等だからです。我々は捕えられたのではなく、彼等に救出されたのです。同じ、火星人の仲間として……」 「おお……なんてことだ、ああ……」  ミネが呻いた。 「……ミネ博士、いったい、どのような事情があったのかは知らないが、我々は、あなた方地球人に部隊ごと棄てられ、そして火星人によって迎え入れられた……そして今日、我々は、火星人の代表として、その使いとして、ここを訪れたのです」  ノヴ・ノリスは、じっとミネ博士を見据えたまま、平板な声でそう告げた。 「軍医長! こいつらは、いったい何を言ってるんです!? 頭がおかしいんではありませんか? もともとガルーにまともな奴などいるわけはないが、それにしても、どうして博士まで、こんな奴等の相手をするんです!? わたしの考えでは……」  スボ中佐が、わけも分からず言いつのる。 「いいから、黙ってろ! これは、わたしと彼等だけの問題だ!」  苛立ちを爆発させたように、ミネ博士が怒声を張り上げた。 「し、しかし……」 「いいんだ、中佐。きみにもいつか、教えられる時が来る。この場は余計な口出しをするな!」  ミネ博士は両手で自分の頭髪をつかみ、それを狂ったようにかきまわした。 「これは、わたしだけの問題だ! そうだ、わたしだけの問題なんだ!」  彼は繰り返した。 「待ってください、ミネ博士。あなたは自分だけの問題だと言うが、それはおかしい。我々ガルー戦隊の直接の上官は、パトリック・ブロード大佐だったはずだ。あなたは確かに、我々をこの世界に生み出した人物だ。しかし、作戦全体から見れば、あなたの役割は、単なる兵器開発者にしか過ぎない。そのあなたが、どうして自分ひとりの問題だなどと言い出すんです?」  ノヴ・ノリスは、彼の様子を複雑な思いで眺めながら言った。 「……ノヴ・ノリス……覚えているとも……きみは、あのG戦隊のなかで、手術後最初に覚醒《かくせい》した個体だった。覚えている……G12……」  ミネの声が、ようやく落ち着きをとりもどした。 「そのコード・ナンバーは、もうわたしにとって無意味です。我々戦隊は、敵味方識別信号を発信し続けていたにもかかわらず、あなた方地球人の部隊によって攻撃を受け、そして半数以上を殺された。それ以前にも、幾度もシークレット・コードで母艦のブロード大佐と連絡をつけようとしたが、その通信はことごとく拒絶されてつながらなかった。つまり、あなたたちにとって、我々の戦隊は、とうの昔に抹殺された存在だったわけです」 「パトリック・ブロード大佐……」  ミネ博士の口から、その名前が洩れた。 「いや、彼はその後昇格して、パトリック・ブロード少将となった。戦死にともなう特進によってな」  今度はノリスたちが驚かされる番だった。 「戦死!? 大佐が戦死したというのですか?」 「まさか!」 「いったい、いつ?」  ノリスの後にひかえていた四人もいっせいにミネ博士につめよる。 「……大佐、いやブロード少将は、きみたちが火星人の世界へ旅立つのを見届けた後、すぐ軌道上の戦闘母艦ドヌスに帰還する予定だった。しかし、彼はもどってこなかった。詳しい状況は不明だが、彼はどうやら帰還の際、離陸途中の乗機を狙撃《そげき》されたらしい。揚陸艇は文字通り粉々になって地上に散乱していた。そこから彼の遺体を識別することはできなかった……」  ミネ博士が、静かに目を閉じたのが分かった。  ノリスたちは言葉もなく、彼の物語に聞き入るしかなかった。 「……ブロードとともに、彼の副官も死んだ。そして、きみたちG戦隊の存在は、その瞬間に我々の手の届かないものになってしまったのだ。というのも、きみたちと我々を結ぶ唯一の秘密コードは、ブロードとその副官しか知らなかったからだ。それだけではない、この作戦そのものを知り、それに関わっていた人間の数自体も余りに少なかった。そしてブロードの死とともに、彼等もまた沈黙を余儀なくされたのだ……誰もが、彼なくして、こうした、言わしてもらえば非常識とさえ言える作戦を引き継ぐ勇気を持たなかった……そう、誰もが、だ……」  ミネ博士は、ちょっと考え込むようにうつむいた。  短い沈黙があった。 「博士……そのような事件があったことを我々は今の今まで知らなかった……」  ノリスがつぶやくように言った。 「……それは、確かに……非常に不幸な出来事だった。今は、ただ、そう言うしかない。今は、ただ……」  ノリスの尾が、痙攣的に、地面の砂を払った。 「ノリス……どうする?」  ランダルが苦し気にささやいた。 「いや……真相を知っただけで満足だ。それで我々は満足するしかない。それが我々の運命に果たした役割は理解できるにしても、それを知ったことで、もはや我々の運命は変わらない」  ノリスは耳を細かく振りながらも、きっぱりと言った。 「博士、あなたにしてもそれは同じだ。我々はお互い、過去へ還ることはできない。我々は未来について語り合うべきだ。この間題は、あなただけの問題ではない。地球人と、そして火星人の問題だ……さあ、顔を上げてください、博士」  ノリスの言葉に、ミネ博士は目蓋を震わせた。 「いや、そうじゃない……ブロードは確かに、G戦隊作戦の推進者だった。しかし、こうした戦術を彼に持ちかけたのは、このわたしなのだ。そうしておいて、わたしはきみたちのことを忘れようとした。きみたちの捜索を進言する勇気もなく、ただ、きみたちが全滅したと信じようとしていたのだ……どうか、どうか……」  ミネ博士が突然地面にひざを落とした。 「どうか、帰ってきてくれ! 頼む。我々の世界へ帰還してくれ。きみたちの肉体の問題は、このわたしが責任をもって何とかする。あらゆる手段を講じて、きみたちを人間の姿にもどす。約束する。だから、どうか、帰ってきてくれ、人間の世界に!」  彼は手をついた。そして頭を土にこすりつけた。  ノヴ・ノリスは、この高名な生体改造学の権威を、あわれむような目で見下ろした。  先刻から、遠く近く、人々の呼び交す声が聞こえていた。  ミネ軍医長とスボ中佐の行方不明が、その原因のように思われた。  しかし、崖の中腹にあるこの隠れ家が発見されるのは、またしばらく先のことだろう。 「博士……我々は今日あなたに、いくつかのことを伝えるためにやってきた。我々は、火星人の代表として、その密使としてやってきたのだ。なぜ、我々が彼等の代表として選ばれたか……博士、あなたにその理由が分かるだろうか……」  ノリスが言った。 「理由……理由だって? 悪かった、わたしがすべての責任を負わねばならないのだ。きみたちは地球人だ、まちがいなく、地球人なんだ。だからこそ、彼等はきみたちに、我々との交渉を命じたのだろう」  ミネ博士は、本物の嗚咽《おえつ》を交えながら答える。 「いや、そうじゃない。我々は地球人としてではなく、あくまでも火星人として彼等に選ばれた。彼等はこの任務が、�自分とは何かをはっきりと知るための旅になるだろう�と予言した。つまり、彼等も、我々がかつて、地球人とある種の関係を持っていたことを認め、それを問い直すために、この旅に出るよう命じたのだ。だが、しかし……」  ノヴ・ノリスは言いかけて、意味あり気に背後の四人を振り返った。  それに応えて、彼等の耳が愉快そうにひくひくと動いた。  それを見定めて、ノリスはミネに向き直った。 「しかし、理由はそれだけじゃない。もっと重要な、つまり火星人として非常に誇るべき理由で、我々は彼等に選ばれたのだ。それは……」 「火星人として……?」  ミネは茫然《ぼうぜん》とつぶやきながら、ノリスの次の言葉を待った。 「それは、我々が速いからだ。ずば抜けて、走ること、跳ぶことに秀れているからだ。速く走れるということ、それは、ただそれだけで、火星人にとっては大変な名誉につながる。疾走こそが、我々火星人の最も重要な感性なのだ!」  ノリスは思わず大きくなる声を抑えきれず、ほとんど叫ぶように、そう告げた。 「そして我々五人は、これまでに会ったどの火星人よりも、速く駆け、そして遠くへ跳ぶことができる……そのことを、我々はミネ博士、あなたに感謝しなくてはならない」 「走ること……それが、火星人の感性……」ミネはおうむのように、ノリスの言葉を口のなかで反芻する。「……走ることが……誇り……」 「そうだ! そして我々は、その誇りにかけて、今、地球人に対して警告を発する」  ノヴ・ノリスの目が澄んだ輝きを放った。  もう迷いも、とまどいもない。  ノリスは自分が今、無数のガルー、火星人たちをつなぐ波動のなかで彼等と一体化し、彼等の真の代表として自分が語り出すのを感じていた。 「地球人!」ノリスは言った。「現在、この我々の惑星には、地球人たちが武装して閉じこもる基地や都市が約二十ほど残っている。さらに、宇宙空間の軌道上には、巨大な戦闘母艦を中心とする艦隊兵力が存在する。我々はまず、これら全地球人が武装を解き、我々の惑星の地表、また周辺空間からすみやかに立ち退くことを要求する」 「博士! やはり、こいつらの頭はおかしい。この星を誰がつくってやったのかを、すっかり忘れているらしい。いったい、何の根拠があって、我々の惑星だとか、火星人だとか、ばかばかしいことが言えるんだ。おまえたちには、この星を手に入れる権利など、これっぽっちもないんだ!」  たまりかねて、スボ中佐が叫びだした。 「よせ、中佐、よさないか!」  ミネ博士がそれを制する。  しかし、中佐は完全に度を失っている。 「いや、言ってやる。いいか、もし我々が本気になれば、おまえたちは次の瞬間に死滅する運命にあるんだぞ! それをつけあがりやがって、何が�我々の惑星�だ! ふざけるな。どうして、そんな妄想を思いついたのか、言ってみろ! なぜ、おまえたちが火星人だなどと思い込んだのか、そのわけを喋《しやべ》ってみろ!」  中佐は折れた腕の痛みも忘れて立ち上るなり、握りしめた片方のこぶしで、ノリスを威嚇した。  それを嘲笑うように、ノリスは鼻面を歪めた。 「この惑星が、我々の領土であり、我々が火星人を名乗ることの根拠は簡単だ。この星が、この火星が、我々を待っていたからだ。そして我々を火星人として選び、我々を迎え入れたからだ。我々はただ、この惑星の意志にしたがっているまでだ。それが唯一の、そして絶対的な根拠なのだ」  ノリスはゆっくりとそう答えた。  彼はもはや、自分の口から流れだす言葉が、自分だけのものだとは感じていなかった。  彼は今や、導士をはじめとする全てのガルー、火星人たちとともにあり、その叫びに声を合わせているに過ぎなかった。 「下らん! 実に下らん! そうでしょう、博士。おまえたちガルーが、この惑星でそうやって気ままに暮らしていけるのは、ミネ博士をはじめとする生体改造学者のおかげなんだぞ。おまえたちを、そのような身体に作り上げたのは、我々、地球人なんだぞ! それを忘れるな! この、腐りきった奴隷どもめ!」  スボ中佐が目をつり上げて絶叫した。 「地球人……この火星は、おまえたちが想像もできない太古からの秘密を宿す惑星なのだ。そのことも知らずに、おまえたちはガルーを連れて、この星へやってきた。しかし、おまえたち地球人は、ついに、この星の秘密を感じとることができなかった。しかし、我々の導士、六人のガルーはそれを知った。すべては、この火星の意志なのだ。そして、火星は、我々に火星人たることを命じた。運命は、すでに、地球がはじめての生命を生み出した時に定められていたとさえ言える。おまえたち地球人は、原始的な有袋類でしかなかったカンガルーの遺伝子を操作し、そしてこの火星まで連れてくるための、そんな宿命を背負って進化してきた生き物だったのではないのか? さあ、火星での地球人の役割はすでに終った。おまえたちは、ただ、退場すべきなのだ。火星が、それを望んでいる」 「……なんということだ……G12、ノヴ・ノリス……」  ミネ博士が呻いた。  スボ中佐は、まるで本物の悪魔と、出会ってしまった無神論者のような表情で、振り上げたこぶしを下ろすのも忘れ、ただ立ちつくしている。 「我々は次のことを要求する……」ノリスは熱っぽく続けた。 「地球人は、十日以内に、全面的な火星からの退去を無条件で決定し、その準備にかかること。同時に、各都市、基地の武装を解除し、火星人に対するいっさいの戦闘行為を停止すること。……我々は、それによる戦線の沈静化によって、地球人の意志を確認し、その退去を平和の裡《うち》に見守るだろう。我々は、退去のための猶予として、火星年で一年を考えている」  ノリスの尾が、また、大地を打った。 「だが、もし、その決定がなされず、地球人があくまでもこの火星にとどまると言い張るなら、まず最初に、この火星で最も軍事的に大きな拠点、つまり、ここクリュセ基地が、これまでの他の都市同様、火星の地図から抹殺されることになる……この処置は順次、火星に残る各都市、基地に対して行われる。我々が伝えたいことは、それだけだ」  ノリスは言った。  そして、くるりと二人の地球人に背を向けた。他の四人のガルーも彼に続こうとする。 「おい! こっちだ、あの岩の陰に何かがいるぞ!」  突然、外の岩場で声があがった。  いよいよ、立ち去らねばならぬ時が来たらしい。ノリスは一瞬夢から醒めた思いで、ミネ博士に対する訣別《けつべつ》の言葉を心の中に探りはじめた。それは、彼の地球人としての最後の言葉になるだろう。  その時だ、ノリスは背中に気配を感じて跳びのきざま振り向いた。  と、彼の脇腹《わきばら》を光るものがかすめる。 「博士、なにをするんだ!」  しかし、身体のどこかに隠し持っていたらしいナイフを握るミネ博士は、なおも髪をふり乱し、悪鬼のような表情でノリスめがけて突きかかってくる。 「やめろ! やめるんだ!」  しかし、ミネの攻撃をいなすように避けるうち、ノリスは極めて不利な場所に追いつめられてしまっていた。左右どこにも逃げ場がない。 「ミネ博士! おやめください」  スボ中佐までが叫んでいる。  しかし、いったんナイフを脇腹で構え直したミネは、そのままノリスに体当りする態勢で突進してくる。 「危ない! ノリス」  ランダルの声が飛んだ。と同時に、彼の手にしていた小銃が火を吹いた。  ミネ博士は至近距離から胸部を撃ち抜かれ、二度、三度と舞うように回転すると、どうとノリスに身体をあずけ、崩折《くずお》れた。 「博士! ミネ博士!」  ノリスは思わずその身体を抱き起こした。 「いいんだ……こうして欲しかったんだ……許して……くれ……」  血を吐きながら、ミネ博士はささやいた。  そして、死んだ。 「銃声だ! あっ、あそこにいるぞ、ガルーどもがいっしょだ!」  声は、岩場のすぐ下にまで迫っていた。  さらに左右の斜面から、兵隊たちに突入を命じる号令も響いてくる。 「ノリス、行こう。我々には、まだやらねばならないことがある」  肩を揺さぶられて、やっとノリスはショックから醒めた。 「済まない、ランダル。助けてもらった……」  ノリスはとっさに嘘をついた。  そして、呆然とその光景を見つめるスボ中佐にいちべつをくれると、素早く片手を上げて待ちかまえる仲間に合図を送った。 「よし、退却だ。岩棚の上に出て、渓谷の北へ逃げこもう!」  次の瞬間、一陣の風とともに、スボ中佐の眼前から五体のガルーが忽然《こつぜん》と消えた。  岩場を包囲していた兵隊たちが見たものは、形も定かでない灰褐色の塊りが、突然、目の前から崖の頂上へ向けて跳び上がり、そのまま岩塊にまぎれてゆく、その残像だけだった。  直ちに、一帯に対する徹底的な索敵行動が開始された。  しかし、北の荒原に逃げ込んだガルーたちの姿は、次の日が明けても発見されなかった。  そして捜索は、明朝の八時きっかりに打ち切られた。  その時になってはじめて、クリュセの基地員たちは、自分たちが姿を消したガルーたちを捜すどころではない状況に置かれているのに気づいたからだ。  クリュセは、いつの間にか、数万を教えるガルーの軍団によって、その北面を封じられてしまっていたのである。     4  その日の出来事に関するスボ中佐の証言は、ロード少将を憤激させた。  そして、�信頼性にとぼしく、保存の要なし�と付箋《ふせん》されたその記録は、テープもろとも焼却炉に投げこまれた。  そればかりか、中佐は骨折の治療と精神状態検査の名目で、隔離ボックスに寝かされたまま、戦闘母艦ガーディアンに送致されることとなったのである。  彼が文字通り積み込まれた揚陸艇のカーゴ・スペースには、もうひとつ、隔離ボックスによく似た形状の荷物が、ひっそりと据えられてあった。  それは、ミネ博士の遺体を収めたスチール製の棺だった。  スボ中佐は、自分のボックスののぞき窓から、名誉ある戦死者の章に飾られたその棺をかいま見た。  その時彼は、自分もまたミネ博士同様、二度と火星の土を踏むことがないであろうこと……そして、母艦の病室にいったん収容されたなら、そこから再び、正気のままでは解放されないであろうことを予感した。  彼の予感の半分は正しく、残り半分は少し間違っていた。  彼は、ミネ軍医長直属だった医師グループに引きとられ、そこで検査のための聴取を受けたのだが、Gコードを持つガルー戦隊に関する証言をそこで繰り返した翌日、原因不明の衰弱によって死亡してしまったからである。少なくとも、記録に残された事実はそのようなものだった。  …………  そして、その日もなお、クリュセ基地は、数万のガルー部隊と不気味な対峙《たいじ》を続けていた。  最初、サイドニア街道につながる北面の地域に集結していたガルー部隊は、日を追うにつれ数を増しながら、緩慢に東西へと展開しはじめていた。  彼等の動きが基地全体を包囲しようという意図のもとに行われていることは明らかだった。  しかし、ロード少将は、それを阻止する有効な戦術を未だ行使できないでいた。  というのは、彼は西のガリア渓谷に総数三千二百頭に余る≪部隊≫をかかえており、その地域と施設の防衛のために、兵力の大半を割かねばならなかったからである。  これは確かに、奇妙な自家撞着《じかどうちやく》と言えた。  切り札となるべき≪部隊≫が、かえって敵の包囲網の完成を助ける結果になっているのだ。だが、この段階で、まだロード少将には≪部隊≫の運用に関する迷いがあった。  彼のイメージのなかで、≪部隊≫はあくまでも攻撃のための武器、一種の攻城兵器と考えられていた。  ミネ博士やスボ中佐は、≪部隊≫のゲリラ的運用を力説していたようだが、彼はどうしてもそうした卑小な用兵術になじめなかった。  彼は、ともかくも今は≪部隊≫を温存し、敵の本拠地が明らかとなった段階で、それに対する攻撃の第一陣、尖兵として≪部隊≫を突撃させる、という勇壮な夢を棄てきれなかったのだ。  そのために彼は、基地の襲撃機群をフルに出動させる空からの攻撃で、なんとかガルーを蹴散らそうと試みた。  しかし、そのもくろみは、ガルー精鋭部隊による正確無比な対空射撃によって、わずか一日で頓座《とんざ》した。  思い余ったロード少将は、軌道上の母艦に対してミサイル爆撃を要請したが、火星全域のバックアップに従事しなくてはならない艦隊は、火星最強のクリュセ基地が、なぜ自力を行使せず、他に救援を求めるのか、理解しようとはしなかった。  クリュセとは比較にならぬほど深刻な事態に直面している都市や基地の方が、はるかに多かったからである。  ガルーの大部隊が基地周辺に集結しているといっても、そのことで基地自体が危機に瀕《ひん》しているとは考えにくかった。  クリュセにはまだあり余るほどの防御兵器、弾薬が備蓄されており、いかにガルーが数を集めようとも、その守りを突破することは不可能と見られていたのだ。  つまり、無理な決戦を避け、守りに徹しているかぎり、クリュセが火星で最も安全な砦《とりで》であることに変わりはなかった。  だが、�包囲�による心理的圧迫感は、想像以上に将兵を苦しめた。  ことに基地司令官ロード少将は、日々、刻々、自分たちを絞めつけてくる無形の緊張感に苦しめられていた。  結局、彼は決断を下さざるを得なかった。  基地には、どうしても突破口が必要だった。  極限まで高められた心の抑圧を逃がすための安全弁を、どこかに設けないわけにはいかなくなったのである。  ガルー部隊が集結をはじめてから、ちょうど九日目、ついにロード少将は≪部隊≫の出動を下令した。  決戦場として選ばれたのは、サイドニア街道に抜ける北の平原、即ち、最も組織されたガルーの部隊が布陣している地区である。  ロード少将は、そこへ向けて≪部隊≫の約半数、千五百頭からなる十二戦闘単位の投入を決定した。 ≪部隊≫は、ガリア渓谷を出ると、すべての基地員が、恐怖と嫌悪、それにわずかばかりの期待がないまぜになった視線で見守るなかを、ゆっくりと行進して北面のゲートに進んでいった。  その先、地平近く、まるで≪部隊≫の襲撃を予期してでもいたかのように、ガルーの大群団が荒野を埋めて集結している。 「やつらも、何かを嗅ぎつけたんだろう……」  ロード少将は、荒原のはずれに見え隠れするガルーたちの奇妙な軍団旗の波を司令室のスクリーンでにらみながら、憎々しげに唇を歪めた。 「しかし、あれだけ集まってくれれば、かえって好都合だ。≪部隊≫の働きがいもあるというもんじゃないか。そうさ、敵の正規軍に正面から一気にぶつける。そして結着をつける。これが儂のやり方だ。まったく、おあつらえむきの場面がやってきたものだ」  彼の顔には、次第に興奮の色か浮かび出る。 「ミネやスボが生きていたら、こんな決戦には真っ先に反対したに違いない。だが、戦争とは、こうしたものだ。つねに、正攻法が正しい道なのだ! ガルーどもでさえ、それを知っている。だからこそ、こうして大部隊を布陣したんだ!」  ロード少将は、自分に言いきかせるようにそう叫んだ。 「今日は、火星の戦史にとって、まさに記念すべき一日になるだろう。動物には、動物をぶつける……こんな当り前のことに、今までどうして誰も気づかなかったのか! 奴隷相手に、人間が生命のやりとりをする必要など、これっぽっちもなかったのだ。そのことを、今日の勝利が証明するだろう。よし!」  ロード少将は、右手に握った指揮杖を振り上げた。 「全≪部隊≫、突撃!」  号令は下された。  実戦とあって、野獣たちも完全武装だ。  正面に立つ大型獣はすべて全身を防弾楯で覆い、最後の瞬間に使用する自爆装置を背負っている。  軽装の戦闘犬も、相手の眼球を痛めつけるガスの噴射装置を背中にくくりつけていた。  もちろん≪部隊≫の野獣は、すべてゴーグルで目を保護している。  それらの武器は、それぞれの獣の怒りが極点に達した時作動するようセットされている。  その≪部隊≫、十二軍団、千五百頭が、今突撃を開始した。  巨犀を先頭に、全体として大規模な尖型陣を組んで突進してゆく。  ガルーは、横に大きく広がって、≪部隊≫を包み込むような布陣で迎え撃つつもりらしい。 「行け! 行け! 皆殺しにしろ!」  ロード少将が我を忘れて叫んだ。  彼我の距離が見る見る接近した。  それでもガルーたちはまだ発砲しようとしない。  そればかりか、まるで≪部隊≫に駆け寄ろうとでもするかのように前進を開始する。 「なぜだ! なぜ、奴等は撃たないんだ!」  指揮員のひとりが不審にたえかねて、そう叫んだ。  その時 ついに、両陣は接触した。 ≪部隊≫はそのまま、荒野を埋めたガルーたちの海のような群の中に吸い込まれてゆく。 「いいぞ! 突っ込め!」 「≪部隊≫はまだ無傷だ! やったぞ」 「勝った! 我々の勝ちだ!」  その瞬間、司令室内の将兵は総立ちとなり、誰もが口々に勝利を叫んだ。  しかし——  三十秒が過ぎ、一分が過ぎても、その決戦場からは、ついに一発の銃声も、爆発音も……いや、それどころか、殺しあい、争いあう物音ひとつ聞こえてはこなかった。  ガルーの波に≪部隊≫は呑み込まれ、そしてその中に溶かし込まれてしまったかのように気配を消してしまったのだ。  いつまで待っても、すべては静かなままだった。  確かに、数十頭に及ぶ巨犀の背中は、今もスクリーンに映ってはいた。  だが、その姿は、子供たちに取り巻かれたパレードの象以上に無害なものと見えた。 ≪部隊≫が、ガルーたちの波のなかで、完全に戦意を喪失してしまっていることは、今や誰の目にも明らかだった。  指令用マイクに向けて、数十人の指揮員が狂ったようにわめき続けている。  それでも、ガルーたちの群の中には、混乱が生じる気配さえない。  やがて、≪部隊≫を完全に呑み込んだその海は、地平線の向こうへと静かに引いていった。  第6章 神  話     1  四十二万三千トンの戦闘母艦ガーディアンは、それ自体が小さなひとつの都市と言えた。  いや、その複雑さから言えは、ニューヨークや東京《トーキヨー》と言ったスーパー・シティをすらしのぐではないか、とリーマー下位《L・H》少将は考える。  この艦の新造時に、大佐の位で艦長に就任してから丸三年が経った。  しかし、それでも、彼が迷わずに人を案内できる区画は、全艦の三十パーセントにも満たないだろう。  それどころか、未だに、一歩たりとも足を踏み入れたことのない区画が少なからず残っていた。  そして、ついさっき、彼が扉を開いたこの部屋は、まさにそんな未知の空間のひとつだったのだ。 (まったく、何てことだ……)  リーマーは、その時、およそ普段のいかめしさからは想像できないほど、間の抜けた顔をしていたに違いない。 (三年もこの艦《フネ》に勤務しながら……こんな部屋がガーディアンに設けられているとは夢にも思わなかった……)  連絡将校が退室し、そこにひとり残されると、リーマーはぽかんと口をあけ、唖然《あぜん》たる思いで、贅《ぜい》をつくした調度のひとつひとつに目を移していった。  ガーディアンの最中心部に、VIPルームと簡単に呼ばれる応援用の特別室があることは、リーマーも知っていた。  しかし、そこは艦長たるリーマーにも使用権限が与えられておらず、ただ、艦隊司令の特命だけが、扉の鍵を回せることになっていた。  さらにその部屋の管理は、ガーディアンの乗組員とは別系統の、司令部直属の派遣将兵によって行われてきたのだ。  艦内に流れる噂によれば、そこは、どうやらとてつもなく豪奢《ごうしや》な(一説によれば、ブロンドのホステスまで備えた)歓待のための密室であるらしい。  しかし、根っからの軍人であるリーマーは、その噂が派手であれば派手であるほど信用と興味を失っていった。  事実がどうあれ、それはまぎれもないお偉方のお遊びに過ぎない、と彼は考えたからだ。  だいたい軍用艦に、応接室を設ける必要がどこにある、そう彼は思っていた。  だから彼は、そうした無用の一室がガーディアンの艦内にあることを忘れようと決心し、実際、これまでほとんど完全に、それに成功していた。  そんな事を長い間思いわずらっていられるほど、彼の職務は悠長ではなかった。  一年に及ぶ過酷な戦闘訓練を終えてすぐ、ガーディアンは、ここ火星の戦場へと派遣されてきたからだ。 (……しかし、それにしても……)  彼は軍服の裾《すそ》を落ち着きなく正し、そして総本革張りの重厚なソファを不器用に指先でなぜてみた。  確かに噂は本当だった。ブロンドの美女だけはさすがにはべってはいなかったが、その点を除けば、全てが噂以上のものだった。 (……軍艦に、全く反現実的なほど豪華な部屋をあつらえなくては迎えられないほどの人物がいるということだ……それは、現代の世界皇帝のような存在に違いない……)  彼は、これから開始されようとしている会議の重大さをじわじわと悟り、思わず激しく身震いした。  と、ノックがあった。  リーマーは顔つきをひきしめ、威儀を正すと、注意深い声でそれに応えた。  扉が左右に開かれた。  そこに、二人の人間が立っていた。  軍服を着た初老の白人、そしてもうひとりは、東洋人らしい、年齢のよく分らない民間人の小男だった。  その、もうひとりの男……それは、いかなる報道にも、決して素顔を見せたことのない伝説の人物、そのひとに違いなかった。  思わず知らず、リーマーは、自分の顔がこわばり、ひきつるのを感じて、額に汗を浮かべた。 「リーマー少将、楽にしたまえ。ここは、お互いに堅苦しさを忘れて、いい知恵を出し合うために作られた部屋だ……」  まず口を開いたのはハミル元帥だ。  そして彼は、古典的なダーク・スーツとネクタイを端正に着こなした小男に対して、うやうやしく腰をかがめながら、入室をうながした。  男は軽く会釈を返すと、まるで眺びはねるような足取りで、部屋の中央へ進んでくる。  それに、ハミル元帥が続いた。  最後に、司令部付の赤い肩軍をつけた仮面のような表情の従卒が、正確に二歩だけ歩いて入口のかたわらに立ち、かなり機械じみた動作で、重い二枚の木製扉をぴしゃリと閉鎖した。 「いや、じっさい、宇宙船の中というのは、歩きにくいもんじゃわい。ちょっとでも足に力を入れると、ほれ、この通り、身体が宙に飛び上ってしまう。まあ、おかげで、三十年は若返ったかと思えるほど身体は軽いが、こんな風に歩いていると、かえって気疲れしてしまうものじゃ」  小男が、意外に甲高い声で喋りはじめた。 「はっ! 本艦は、宇宙空間にあって、船体を回転させることで人工的な重力を作りだしております。各階層によって、その力は異なりますが、このあたりでは大体、地球の七分の一以下の引力しかありませんので……」  リーマーが緊張を自ら解こうとするかのように、そう説明した。 「総裁、紹介が遅れて申しわけありません……」リーマーの声にかぶさるように、ハミル元帥が口を開いた。「彼は、本艦の艦長、ならびに、鎮圧軍の空宇軍《アエロ・スペース・フォース》総指揮官を務めるリーマー下位《L・H》少将です」 「ガーディアン艦長リーマーです」彼も慌ててそう名乗る。 「そして、こちらは、もちろん初対面とは思うが国際経済開発委員会《C・I・E・D》総裁ジン・カド氏だ」  紹介を受けたカド総裁は、片頬を歪めて笑った。 「うーむ、わしはどうも、マスコミというやつが嫌いでな。いや、見たり、聞いたり、読んだりするのは好きなんじゃが、そこに自分が顔を出すとなると、また話は別じゃ。わしは恐らく、世界で最も人に知られていない経済人ではなかろうか。いや、まったく……だが、少将、わしはまちがいなくカド本人じゃ。わしはここへ、地球のあらゆる利益代表としてやってきた。火星の問題が、どうやら、最後の決断を迫られる時期に来ているらしい、というのでな」  立ち話をするうちに、従卒が、飲み物をテーブルの上に並べはじめた。 「さあ、こうしているのもなんだ。せっかく、これほど素晴らしい部屋にご招待いただいたのだ。お互い、くつろいで話そうじゃないか」  カドがそう言って両手を広げた。  足首まで埋まってしまいそうな毛足の長いカーペットを踏んで、三人はそれぞれのソファに身を沈めた。  短い沈黙の後、また口を開いたのはカドだ。 「さて……と。わしは昨日から、大急ぎで、この火星が今どんな状態なのか、大まかなオリエンテーションを受けた。まあ、どれほど詳しくそれを分析したところで、どうやら結論はいっしょのようじゃ。つまり、全ては最悪だ。もう、我々には、数少ない拠点すらも持ちこたえる力がない。ということだ。違うかね?」  カドが、むしろ楽しそうにすら見える表情を、ハミル元帥に向けた。 「残念ながら、地表面での闘いは、まさにそのような局面に立ち至っております」  ハミルが顔面をわずかにひきつらせた。 「しかも、戦況の悪化にともない、それに費やされる戦費は、今や天井まで達した感がある。この半期で、地球経済は、約十兆ドルを、この派遣軍のために投じているわけだ。確かに当初は、そうした軍需によって、見せかけの好況が世界中をふるい立たせた。しかし、だ。それはあくまでも表面的なものだ。一歩離れてこの状況を観察すれば、地球が、火星という泥沼に、ただ際限なく資源と資産、それに人命を投げ棄てているだけにしか過ぎんことは、余りにも明白だ。違うかね?」  カドは、飲み物を慎重な手つきで持ち上げ、すすった。 「総裁、確かに、そのような見方が存在し得ることは分かります」ハミルが言った。 「見方? ほう、元帥は、それでは、他の見方を持っているのかね?」  カドが面白そうに、眉を上げた。 「いえ、ただわたしは、軍人としての立場から、この戦争を考えるだけです。経済的には、確かに総裁のおっしゃられる通りだと思うのですが……」 「その軍事的見解を聞かせてもらえるかね?」 「総裁、わたしは、この戦争が、人類というものの存在にとって、ひどく重大な�試練�の意味を持つものだと、この頃考えるようになっているのです……」  ハミル元帥が、宙に目をさまよわせながら話しはじめた。 「……わたしは先日、ミネという軍医長から一通の上申書を受け取りました。実は、それを書いた本人は、火星のクリュセ地区で作戦中に、すでに戦死していたのですが、それはともかく、彼の死後わたしに届いたその上申書には、彼の、この戦争に対する見解がつぶさに述べられていました。わたしは、それを読んで、自分の目がはじめて開かれたように思ったのです」 「ミネ? ふむ、その名はどこかで聞いたことがある。うむ、そうだ、かつてあのガルーの祖型《オリジン》を創りだし、火星に送り込んだ張本人ではなかったかね。そう、わしと同国の出身者だ。さらに、つい最近まで、そのガルーに対抗する動物の軍隊を編成しようとしていた男だ」 「ご存知でしたか?」ハミルが驚く。 「もちろんだとも。なぜなら、そうしたことに使われる莫大《ばくだい》な費用は、すべて、我々の組織が面倒を見なくちゃならんのだから。そうだろう……で、そのミネは、いったい何と言っているのだね?」  カドは、細い腕を胸の上で組み、ハミルの顔を正面から見つめた。 「ええ……簡単に申しましょう。彼は、この戦争を、あくまでも火星人と地球人の間の、種と種の争いとして捉えるべきだと主張しているのです。そう考えない限り、いかなる解決もあり得ないし、そればかりか、人類という存在そのものが、根底から脅やかされる危険がある、と警告しています」 「ほお?……その火星人というのは、あのガルーどものことだね?」  カドが、片方の眉を吊り上げた。 「その通りです。総裁。ミネは、火星人、つまりガルーたちが、すでにそうした観点に立ち、種と種の戦争を闘っていると考えています。そして、それが、彼等の圧倒的な優位、支配力の秘密だと分析しています」 「なるほど……で、そうした見方からすると、一体、どのような展望が生まれるのかね?」 「彼はいくつかの試案を、上申書の中に示しています。しかし、それはどれも同一の概念から出てきた結論のように思われます。つまり、彼は、火星人対地球人という戦争の構図を認識した上で、そうした戦争自体の�質�を変えるべきだと主張しています。ご存知の動物軍隊という発想も、どうやら、限られた状況下における、彼の苦肉の策であったらしい。彼は、地球人と火星人という対決のはざまに、動物の軍隊という異質な要素を投げ込むことで、戦争の意味を混乱させ、変質させようと考えていたのです。つまり、人工的に遺伝子を操作された、言わば第二のガルーでもある動物の軍隊を、地球人の側から前面に押し出すことによって、火星人の意識を惑乱させられるかもしれないと思ったのです。しかし、この計画は、ミネ本人の戦死もあって、完全に失敗しました。ガルーたちは、どのような手段によってか、動物たちの軍隊を自分たちの隊列に文字通り呑み込み、そして同化させてしまったのです……」  ハミル元帥の声が、微かな震えを帯びた。 「……うーむ、口をはさむようだが……」カド総裁は、ちょっと考え込むように首をかしげた。そして、続けた。 「どうやら、そのミネという人物は、大変な哲学者のようだな。だが、彼は少し、物事を観念的に見過ぎてはいないかね?」 「確かに……確かに、そうとられがちなことは分かります。ですが、我々はこれまで、余りにも前時代的な発想で、この戦争を解釈しようとしてきたのではないでしょうか。我々は、ガルーを、どうしても地球人の持ち物、地球人的意識の延長物と見なしてきました。ですから、この戦争を、奴隷の反乱としてしか認識できなかったわけです。だが、彼等は最早や、いかなる意味でも、我々の奴隷ではありません。ガルーは、まぎれもなく、人類がこれまで一度も遭遇したことのない別種の知性体、もっと言えば、異星人と呼んでもさしつかえない存在なのではないでしょうか? わたしは、そのことを、ミネ軍医長の上申書から、強く教えられたのです」  ハミル元帥は、上気したこめかみから流れる汗を素手で拭った。 「なるほど、なるほど……それは、わしにも充分に納得できる議論だとは思う。ただ、我々、民間人にとって、ことに経済人にとって、何よりも重要なのは、この戦争の収支決算がどうなるか、ということだ。それも、一世紀、二世紀といった、長期的経済運営の見通しの中で、火星が、どのような役割を果たし得るのか、それを我々は考えなくてはならない。ミネという人物は、この戦争が、人類にとって、根源的な危険をはらんだものだ、と分析したのだね? それは、何なのか? そして、彼はどうすべきだと考えていたのかね?」  カドの口調に、内面的な苛立ちが感じられた。  二人のやりとりを見つめるリーマー少将は、思わず、ごくりと生ツバを呑み込んだ。 「ミネはこう考えています。つまり、同一の生活圏に、ふたつの、種の異なる知性体は絶対に共存できない……まず第一に、この火星で闘われている戦争は、そうした質のものだということです。そして、その闘いにおいて、今のところ人類は完全な敗北を余儀なくされている。彼の言う危険とは、その次の段階にくるものです。即ち、この闘いが、明確な終結点を持たないままいつまでも続行されるか、あるいは人類が、完全撤退を含むなしくずし的な妥協を行った場合、戦争はそのまま、次の段階へ移行する……そして、現在の単なる惑星上の主導権争いが、惑星間の、種と種の存在をかけた、さらに過酷な、容赦のない殲滅《せんめつ》戦へと発展することを、ミネは怖れているのです。そして、地球人側がどう考えようと、すでに、この戦争を種対種の妥協の許されない闘いとして認識している火星人たちは、ためらうことなく、その次の戦争に突入するだろう、これが彼の予言でした」  ハミル元帥は、ひざの上で握りしめたこぶしを、ゆっくりと開いた。そして、カドの反応をうかがう。 「……うむ……つまり、我々が、さまざまな利害に思い悩んで、根本的な解決を計ろうとしないでいると、ある日地球が火星人を名乗るガルーどもに攻めこまれ、人類皆殺しのような目に会うかもしれないぞ、と、そう言っているのだね? そして、ミネという人物は、そうした�根本的�な解決を進言しているわけだね?」  カドが、ゆっくりと、そう言った。 「彼は必ずしも、道はひとつしかない、と言っているわけではありません。もし、何らかの手段によって、この戦争の質を転換させることが可能ならば、それに越したことはない、と考えています。しかし、彼は、その具体的な戦略を編み出すことができないまま、死んでしまいました………」 「そして我々に残されたのは、そのただひとつの道だったわけか……」  カドが、深い深い溜息を洩らした。 「……仕方があるまい……うむ……決定は、全て、このわしに任せられている……そして、わしもまた、全く経済的な、哲学抜きの見地から、これ以上、地球は、この泥沼のような惑星にかかずらうべきではない、と思っておる……それにだ、地球の火星学者たちは、ここで我々が、これまで火星に築いてきた地球的な環境をいったん放棄したとしても、長足の進歩をとげた現在の惑星改造技術によって、二世紀後には再び、死の世界をよみがえらせることができるだろう、と断言している……そうだ、我々は、もう二世紀待つしかなかろう……そして、これまでのことは、ただの悪夢として忘れ去ろうではないか……」  カドは言った。 「総裁、それは国際経済開発委員会《C・I・E・D》の、つまり地球の正式な結論と考えてよろしいのですね?」  ハミル元帥が問い返す。 「……うむ……」カドは放心したような目つきで、曖昧《あいまい》に首を振った。  この三十分ほどで、彼の顔色が、めっきり老けこんだように、リーマーには思えた。  そして、ハミル元帥の顔にも、色濃い精神的な衰弱が感じられた。  二人は黙り込んだ。  そして、ゆるゆると時間が過ぎていった。  と、ついに、カド総裁が決断を下した。  彼はいきなり立ち上がる。  そして、リーマーの方に向き直った。 「艦長! この艦の総攻撃能力については、すでに説明を受けている。この艦の攻撃機数は、全部で三百八機。これを波状的に発進させることで、火星上の、全ての惑星改造設備を、三十九時間以内に破壊することができる、そうだったね?」  問いかけられて、リーマーもソファから立ち上り、直立不動の姿勢をとった。 「その通りです、総裁! さらに、本艦及び、第二艦隊旗艦ドヌス……また、補助戦闘艦十六隻によるミサイル攻撃も可能です。それらをフルに稼動させた場合、二十二時間で作戦を終了させる自信があります」  リーマーは言いきった。 「……そして、その時点から、約一か月を観察期間とする……それでもし、惑星環境の劣化がはじまらないようなら、次は核爆撃で、火星全体を灼《や》きつくす……それがシナリオです……」  言いながら、ハミル元帥が力なく立ち上った。 「よろしい、決定だ! それが、わたしの、即ち地球の結論だ!」  カドが、自らの迷いを叩きつぶすような大声を出した。 「分かりました、総裁! あとは、現在エオス基地に集結をはじめている火星の全地球人が、どの程度の迅速さで撤収できるか……それが問題だね?」  リーマーに振り向いて、ハミル元帥が言う。 「その件に関する作戦会議を開くため、すでにエオス基地では、現地司令官ロード少将が待機しています。地上の軍隊や、植民者の状況は、彼のチームが把握作業に入っています。この会議の結論次第で、彼はその資料をたずさえ、いつでもガーディアンまで上がってこられるよう準備しているはずです」  リーマーが答えた。 「よし! すぐにロードを呼びたまえ」ハミルは言って壁の時計を見上げた。「……うむ、今、エオスは夜の一時か……だが、構わん! すぐ、ここまで上がってくるよう連絡を頼む」 「分かりました!」リーマーは直立不動の姿勢をとると、挙手の礼をしてきびすを返した。  仮面のように表情のない従卒が、彼の歩調を計ったように、大きく扉を左右に開いた。     2  クリュセの南方千二百キロにある仮設基地エオスは、深い闇に包まれていた。  日没時に発生した小さな砂嵐の影響で、空には星がなく、また基地の通信状態も極めて悪化していた。  だが、ようやくのことで、戦闘母艦ガーディアンからの指示を確認した基地司令部は、大わらわの出発準備に忙殺されていた。  部下たちが手際よくまとめてゆく資料類をひとつひとつ受け取りながら、しかし、ロード少将の胸には、抑えきれない安堵《あんど》の気持ちがあった。 ≪部隊≫の余りにも完璧《かんぺき》な失敗……そして、ガルーの総攻撃を前に、闘わずしてクリュセを放棄した弱将ロードにとって、すでに軍人としての未来はなかった。  だが、彼は、まだ地球に残してきた家族と自分の命に対する未練が残っていた。  彼はただひたすら解任を待つ、ひとりの哀れな老いぼれでしかなかった。  この火星でだけは死にたくない、その思いが、彼に妄執となってとりつき、彼の部隊を必要以上に臆病《おくびよう》な行動に駆りたてていた。  しかし、にもかかわらず、彼の指揮下にいるのは、今なお、火星最大、最強の部隊に違いはなかった。  そして、その部隊を頼って、各地から保護を求める地球人たちが続々と集結しはじめていた。  故スボ中佐を通じてロード少将に知らされた通告通り、ガルーたちの部隊は、火星全域において、積極的な掃討作戦に転じていた。  ひとつ、またひとつと生き残っていた都市や町、そして地方の小基地が殲滅され、そこを追われた人々が、否応なしに、ここエオスの仮設基地に逃げのびてくるのだった。  しかも、この地球人最後の拠点も、今やじわじわとガルー軍の包囲を受けつつあった。  基地が、比較的平坦な台地状の土地に設けられているためか、ガルーは被害の多い正面攻撃を現在までのところさしひかえているようだったが、それがかえって、基地の全員に、姿の見えない圧迫感となって覆いかぶさっていた。 (ともかくも、ここから脱出できる……)  ロードの頭の中には、ただその考えしかなかった。 (そして、母艦へ上がったら、儂は頭がおかしい振りでも何でもして、二度とここへはもどってこないぞ! そうさ、儂はすぐに退役を申しでてやる)  彼は期待と苛立ちのため極度の興奮状態に陥って部下たちを怒鳴り散らした。 「連絡艇の準備は済んだのか!? 何をグズグズしている。元帥閣下直々の呼び出しに、こんなに手間取っていてどうなる! 急げ、資料などなくとも、儂は説明に窮したりはせん。大丈夫だ、さあ、早く儂を乗船させてくれ!」  ロード少将はわめいた。 「もうすぐです。今、艇まで将軍をお見送りする地上車をゲートからこちらへ回しております。もうしばらくお待ちください」  新副官のイムギ中佐が言った。 「地上車? そんなものは必要ない。儂にはこの二本の足があるんだぞ。発着場など、すぐ目と鼻の先ではないか!?」  ロードが彼にかみつく。 「いえ、将軍。第一発着場は使用しません。このような深夜に、突然基地の中心部から連絡艇が飛び立っては、基地の者たちに不安を与えます。自分たちの知らないうちに、脱出がはじまったのではないか、と疑われかねません。そんな疑心暗鬼が広まれば、この緊張下では暴動騒ぎに発展する怖れさえあります。ですから、将軍は、基地北端の予備発着場から出発していただきます」  しんぼう強い調子で、イムギ中佐が説明する。 「下らん、おまえの考え過ぎだ……」  ロード少将が、なおもぶつぶつ不平を並べたてようとした時、当番兵が地上車の到着を告げた。 「さあ、将軍、でかけましょう。おともをする情報将校二人は、もうじきやってきます。後のことは、わたしにおまかせください。お帰りまで、基地は絶対に守り通します」  イムギが敬礼しながらそう言った。 (いやだ、帰ってなどくるものか……どんな風に罵《ののし》られようと、儂はもう絶対にここへはもどらん! そうさ、儂は逃げてやるぞ! 万が一軍法会議にかけられるような事態になっても、それは地球へ帰ってからのことだ。そうさ、儂は帰るんだ!)  ロード少将は、思わずゆるみそうになる頬を無理矢理引きしめて、イムギ中佐に敬礼を返した。  と、司令部の奥から、随行する二人の情報将校があたふたと駆け出してきた。 「お待たせしました、ようやく資料が全て整いました。お確かめいただけますか?」  一人が、大きなブリーフ・ケースをロード少将に差し出した。  だが彼はそれに目を貸しもせず、正面出口に向けて歩きだしていた。  肩をすくめて、二人の将校、それに見送りのイムギ中佐がその後に続く。  建物を一歩でると、もう視界の極端に悪い闇が、あたりを埋めていた。  砂嵐の名残りで、大気は大量の微細な砂塵を含んでおり、それが肌にざらざらと感じられる。  それをかき分けるように、一行は地上車に乗り込んだ。  車はすぐに発進した。  メイン・ライトを照射しているというのに五メートル先も定かではない。  地上車は微速で、這《は》うように、静まり返った兵舎群の間を抜けて進んだ。  間もなく、住居区画が終った。  ゲートを過ぎると、もう着陸場までは一直線だ。  車はややスピードを上げ、闇の中を抜けていった。  やがて、前方に、ぼんやりと連絡艇の姿が見えてくる。  整備員が二名、車を認めたらしく、赤いハンド・ライトを振って合図を返してきた。  そのかたわらに、地上車は滑り込み、停止した。 「さあ、将軍、着きました。御無事でお帰りください」  イムギが言って、車のドアを開けた。  運転席の兵士も素早く車から降り、二人の情報将校のために反対側のドアを引いた。  連絡艇の開け放たれたハッチから洩れる光が、一行の顔を青白く浮かび上がらせた。 「よし、では行ってくるぞ」  ロード少将か、イムギ中佐の肩を叩いた。  その時だ。  突然、イムギが苦しそうに顔を歪めた。  そしてそのまま、ロードの腕の中に倒れかかってきた。 「うっ……!」  その身体を受けとめたロード少将は、イムギの背に深々と突きささっている棒状のものを見て目を剥いた。 「ぎゃっ!」  怪鳥のような叫びに驚いて振り向くと、車のドアに手をかけていた兵士が、身体をかきむしるようにしながら、あおむけに転倒するところだ。  と、直後、連絡艇の入口に立っていた二人の整備兵の胸に、まるで魔法のように、幾本もの細い棒が生えた。  少なくとも、ロードの目には、そう見えた。  彼は息を呑んだ。  叫ぼうにも、喉元までせり上ってきた恐怖で声が出ない。 「わっ! うわーっ!」  背後で絶叫したのは、連絡将校に違いない。彼の放り出したブリーフ・ケースが、ロードの背中に激しくあたった。  彼はよろめいた。  よろめきながら、彼は、今自分が、人生最悪の不運に見舞われようとしていることをはっきりと悟った。  彼の目の前に、タラップの上から二人の警備兵が転がり落ちてきた。  彼は自分でも信じられぬ怪力でそれを押しのけ、タラップにしがみついた。  何がなんでも、連絡艇の中に逃げ込みたかった。  その階段は彼にとって、母艦へ、そして地球へとつながる長い道のりの第一歩だった。  この手すりを離せば、その道は永遠に閉ざされてしまうのだ。  彼は歯を食いしばり、恐怖で力が抜けた腰をいも虫のように動かして、タラップを一段また一段と這い登っていった。  と、彼は何ものかに襟口をつかまれた。  強い力で後へ引きもどされる。  それでも彼は、振り返ってその正体を確かめようとはしなかった。  彼はただひたすら、タラップにしがみつき、首を左右に振りながら、連絡艇の入口を見つめていた。  すると、急に襟口をつかんでいた手が離れた。  と思う間もなく、彼の眼前に、ひとつの黒い影がいずこからともなく跳び降りてきた。 「ガ、ガルー……」  ロード少将は呻いた。  彼等に襲いかかってきたものが、ガルー以外のものであるはずはなかった。  しかし、それは、ロードが最後まで認めたくはないものの姿だった。  彼は強く目を閉じ、そしてまた開いた。  それでも、目の前にいるガルーの姿は消え失せていなかった。  そればかりではない。そのガルーの横を跳び越えて、数体のガルーが、風のように連絡艇の内部へ駆け込んでいく姿が見えた。  彼等は皆、小銃を背に負い、さらに手に手に弓と思われる原始的な得物を手にしていた。  数秒の後、艇内から断末魔の叫び声が聞こえてきた。  パイロット、それにコ・パイロットが、血祭りに上げられたのだろう。 「くそ! 離せ、獣ども! 殺せ、俺を殺せ!」  ロード少将の背後からわめき声が上がった。  ガルーたちの弓矢の攻撃をまぬかれて生き残った情報将校のひとりだろう。  ロード少将はタラップに這いつくばったまま、その声を聞くうちに、自分の全身が、どうしようもないくらいに痙攣しはじめるのを感じた。 「ほお、震えているな。なんと、少将か! ずいぶん大物を捕えてしまったものだ」  目の前のガルーが口をきいた。  それは、全く正確な英語だ。 「ど、どうして儂が少将だと分かる!? 違う! 儂はただの予備役だ。見逃してくれ、頼む!」  恥も外聞も忘れて、ロード少将はそのガルーの足元に頭をすりつけた。 「頼む! 殺さないでくれ。言うことは何でも聞く。だから、殺さないでくれ!」  彼は泣きじゃくった。 「ふうむ、それはいい心掛けだ。しかし、官位詐称は軍法会議ものだぞ、少将。特に、そうした逃げ口上は、敵前逃亡の一種にとられかねん」  そのガルーが言った。 「な、なんだと!? なぜ、そんなことが分かる? 何者だ? おまえは本当にガルーなのか? なぜ、そんなことを知っている……」  言いつのろうとするロードを、そのガルーはぴしゃりと制した。 「見苦しいぞ、少将、我々は地球人の軍隊のことなど、どんな細かいことでも知り尽している。どうごまかそうとしても無駄なことだ」  ガルーが言った。  その時、艇内から、人間の死骸《しがい》を肩にかついだガルー数体が姿を現わした。 「おい、ノリス! なかの奴等は片づけた。そいつを連れて入ってこい」  ひとりのガルーが言った。  ノリスと呼ばれたガルーはうなずき、そして、ロードの肩に手をのばした。 「さあ、なかへ入って、少し話そうじゃないか。もし本気で死にたくないと思っているのなら、そうした方がいい……」  ロードはよろよろと立ち上った。  彼にはもう、全てがどうでもいいような気分になっていた。  彼は夢遊病者のような足取りで、ガルーに続き、連絡艇のハッチをくぐった。  彼のあとからは、両腕をねじり上げられた情報将校が引きたてられてきた。  二人はガルーたちの指示で、むき出しの金属の床に坐らされた。  見張りを残し、他のガルーたちも続々と艇内に入ってきた。全部で二十体はいる。  そして彼等は二人を取り囲んだ。  中には、相当に高齢と見える杖を手にしたガルーの姿もある。  その老ガルーに振り向いて、ノリスと呼ばれる若いガルーが言った。 「導士、ひとりは少将です。恐らく、ここの基地司令官に違いない。思いもかけぬ獲物でした」  それに応えて老ガルーはうなずく。 「ふうむ……ではノリス、話してやりなさい。我々が、何をしようとしているのか、を……」 「分かりました、導士……」  そのガルーは、ロードと情報将校に向き直った。 「さて、ひとつ質問するが、おまえたちはこれから、軌道上の母艦ガーディアンへ上ろうとしていたんだな?」 「な、なぜそれを!?」というロードの声と、「将軍、答える必要はないっ!」という将校の罵声《ばせい》が交錯した。 「地球人は全くもって愚か者ぞろいだ。おまえたちは、我々火星人が相手だとあなどって、重要連絡に暗号も使っていない。しかし、我々の部隊には、地球人から鹵獲《ろかく》した通信装置が、それこそ腐るほどある。おまえたちは、わざわざ平文で、今夜のこの計画を我々に教えてくれたんじゃないか」  ガルーが言って、口元を歪めた。それは明らかに嘲笑の表情と見えた。 「それだけじゃない……今夜、ガーディアンでおまえたちを待っているのは、とびきりのお偉方、ハミル元帥に、国際経済開発委員会《C・I・E・D》の総裁カドだそうじゃないか?」 「馬鹿な、ウソだ! おまえたちこそ、俺たちのニセ情報にひっかかったんだ! その通信は全てデタラメだ! この薄汚いガルーどもめ、ざまあ見ろ!」  情報将校が苦しい反撃を試みる。  しかしガルー・ノリスは、それを笑って受け流した。 「本当か、嘘かは、我々がこれから上へ行って確かめる。それを心配してもらう必要はない!」  ガルーは言葉を続けた。 「さて、おまえたち二人のうち、我々は、死にたくないと考えている人間一人に用がある。二人とも、どうしても生きていたくないというのなら、いたし方ないが、我々は、できれば、どちらかに協力を依頼したい」 「気でも狂ったのか!? 俺たち人間が、ガルーなどに協力するはずがなかろう! 奴隷の分際で、人間にタテつきやがって! さあ、殺すなら殺せ!」  目を吊り上げて情報将校がわめいた。 「なるほど、この中尉は、その気がないらしい……」  ガルー・ノリスは鼻先を歪め、その尾をぱたぱたと鳴らすと、今度はロードの顔をのぞきこんだ。 「では、我々の話相手は、この少将閣下だけということになる……」  ノリスが言う。 「…………」ロードは何も答えられずうつむいた。 「き、きさまら! 司令官殿を侮辱することは許さんぞ!」情報将校が叫んだ。「司令は、おまえたちなど、獣など相手にせんのだ。口をきくのもけがらわしいと考えておられるだけだ。考えは、わたしと同じだ。さあ、殺してくれ!」 「そう、殺してくれとばかり言われても話ができん。いいかね、地球人……我々は、ついさっき、軌道上の地球軍母艦ガーディアンの通信を傍受して、基地幹部がそこへ呼び出されたことを知った。と同時に、おまえたち地球人が、ついに最後の決心を固めたらしいこともな……」  ガルーは言葉を切った。そして二人の反応を見る。  少将はただうつむいたきり、肩を小刻みに震わせ続けている。 「……そこで、だ。我々は、おまえたちといっしょに、その地球軍母艦ガーディアンへ出掛け、ハミル元帥、カド総裁の二人と、さまざまな問題について話しあいたい、とこう考えたのだ」 「いいかげんにしろ! おまえらは、この連絡艇のパイロットを殺してしまったではないか。やはり、獣には獣の知恵しかないんだ! この艇が、魔法のジュウタンかなにかだと思っているんだろう。もっとも、おまえらから見れば、我々の科学力は魔術としか思えんだろうがな……しかし、そうはいかん。この艇は、もう動かん!」  情報将校は、ガルーの兵士に銃を突きつけられても、喋りやめない。ついに、その腕をねじり上げられてようやく黙った。 「愚かな地球人……この型の輸送艇は、各種の飛行体の中でも、最も自動化が進んでいて誰でも操作できる。スイッチひとつ倒せば、あとは全てコンピュータまかせではないか。もっとも、やれと言われれば、俺は重攻撃機で急降下爆撃だってやって見せられる。そのことを知らんのは、おまえたちだけだ、何しろ、俺は、優秀な人間の軍事エキスパートひとりを自分専用の捕虜にしているんだからな」  そのガルーは言って、仲間たちを見回した。  それを受けて、ガルーたちの輪がどっと笑った。その笑い声は、驚くほど人間に似て、陽気だった。  ガルーたちの笑いの意味が分からず、情報将校は沈黙した。  目だけをぎらぎらと光らせて、ガルーをにらむ。 「さあ、そこで、我々が母艦へ無事に収容されるまで、何とか無線でつじつまを合わせてくれる人間が必要だ。もちろん、生命は保証する。母艦へ着いたら、すぐに釈放もする。我々は、協力者なしでも計画を実行するつもりだ。まあ。何とかなるだろう。幸い、このあたりでは、今砂嵐の影響で相当に電波が乱れている。何か問いかけられても、聞こえないふりをすればいい。だから、おまえたちの考え方ひとつだ。さあ、どうする?」  ガルー・ノリスが言う。 「俺は嫌だ。死んでも協力などしない!」中尉の肩章をつけたその男はきっぱりと言った。「もちろん、司令のお気特ちも同じはずだ。聞くまでもない」  ノリスはその将校の断言を無視して、ロード少将を見つめる。 「少将、さあ、どうする?」 「…………」しかし、答えない。 「司令! ロード少将! どうしたんです!? はっきり言ってやってください、地球人を裏切るような真似はしない、と!」  中尉が、次第にロードの態度に不審を抱きはじめたのか、声を張り上げた。 「ガルー……ノリスという名だったか……」ついに、ロードは口を開いた。そして、かたわらの中尉を無視して、ノリスを見上げた。「……ノリス……わ、わ、儂は、地球へ帰りたい。どんなことをしてでも帰りたい。たとえ殺されるにしても、この火星ではいやだ。せめて、母艦まででも行ってから殺されたい。いやだ……儂は、死にたくない。地球へ帰りたい……」  ロード少将の声は、半ばむせび泣きに似ていた。 「司令! 少将、いや、この裏切り者め! きさま、それでも軍人か!? 獣以下の人間だ! な、な、な、何ということを……よくもぬけぬけと!」  最初、口をあんぐりとあいてロードの言葉を聞いていた情報将校は、いきなり狂ったように暴れだした。  ロードの首に掴みかかろうとする。  しかし、たちまち数人のガルー兵士にとりおさえられる。  と、また、少将が喋りだした。 「……頼む……俺の条件をひとつだけ聞いてくれ。この男を、この情報将校を殺してくれ。そうしてくれなければ、儂は完全に破滅する。頼む、助けてくれ……」 「もちろんだ、少将……」ガルー・ノリスがおだやかな声で答えた。「……我々は、協力者以外に用はない。この男は我々の依頼を断ったばかりか、自分でさっきから殺してくれとわめいている。我々は、彼の望みをかなえてやるつもりだ」  そしてノリスは片手を上げた。 「き、きさま! 地獄の底から呪《のろ》ってやる! 呪って呪って、呪い殺してやる……」  情報将校は、悪鬼のように顔色を変え、そしていきなり、ロード少将にツバを吐きかけた。  しかし、そのまま、屈強なガルー戦士に身体をわし掴みにされ、艇外へ連れ去られた。  十数秒ののち、闇の中から、無念そうな絶叫がひとつ響いた。  出て行ったガルーたちが連絡艇にもどってきた。 「よし、行こう。ランダル、おまえ、コ・パイロットについてくれ。よろしいですね、導士?」  導士と呼ばれた老ガルーが、その尾をひと振りした。  それを見て、ガルー・ノリスが、コクピットに通じる艇内ハッチに身体を押し込んだ。それを後押しするように続いたのは、ランダルと呼ばれるガルーだった。     3 「上がってきます、元帥。連絡艇です」  特別室の壁に埋めこまれた巨大なヴィジ・スクリーンを示しながら、リーマー艦長が言った。  そして、マイクをとり上げ、今、艦橋で指揮を代行しているランス少佐を呼び出した。 「おい、ランス。わたしだ。ああ、見えている。これがロード少将を乗せている艇なんだな?」 〈ええ、間違いないと思います〉スピーカーを通じてランスの声が届く。〈……現在、南西象限マルガリータ地峡付近に砂風が残っており、空中状態が極めて悪いのですが、先程、数秒ではありますがTV通話がつながり、確かにロード少将の顔が見えました。大分、お疲れのご様子でしたが、何か、緊急で極秘の連絡事項があるから、着艦ドームまで艦長他、元帥、総裁に出迎えて欲しいとのことでした。どういたします?〉 「出迎えだと?」眉をしかめたのはハミル元帥だ。 「ほお? 我々に出迎えろと言うからには、余程のことがあるんだろう。まあ、いいじゃないか、わしも、この艦内をちょっと見学したいと思っておったのだから……」  とりなすように言ったのはカド総裁だ。 「そうおっしゃっていただけて、まことに恐縮です。しかし、また、ロードのことです。つまらない緊急、極秘かもしれない。これは今のところ秘密ですが、彼は、この撤退作業が終り次第、実は軍から解任されることになっているのです。熱意はあるのだが、どうも頭がキレない。そのためのミスが重なりまして……」  元帥は苦笑しながら、カド総裁をうながして立ち上がった。  それを横目で見て、リーマー艦長はマイクに向かった。 「よし、我々三人はロード少将をドーム・デッキで出迎えることにする。何番だ?」 〈三番ドームに入ります。ドーム左側の待機所でお待ちください。あと、二分十八秒後にアプローチに入ります〉  ランスのきびきびした声が響く。 「よし、分かった。すぐそちらへ向かう。それから、どうやら極秘事項のようだ。整備兵は退去させておいてくれ」  そう言うとリーマーは通話を切った。 「それでは、御案内いたしましょう。シャフトに乗って、八階層上ったところが、三番ドームです。では、ごいっしょに……」  リーマーは先に立って特別室を出た。  部屋付の従卒、それに武装した護衛兵二人が一行の後に続く。  彼等最重要人物の通路は、すでに人払いされたらしく兵の姿はない。  彼等は扉を開いて待っていたシャフトに乗り込み、そのままデッキ・フロアへ昇った。  全てが巨大コンピュータによって完全に制御されているため、彼等は最短時間でデッキ・フロアに出た。  そこから走路に乗って、第三ドーム待機所へ向かう。  今しも、連絡艇が、着艦用に開口されたドーム内へ静かに侵入してくるところだ。  その様子が、待機所のモニターTVに映し出されていた。  艇は完全に幾何学的な動きでドームの着艦プレートの上へ降り立った。  直ちに着艦フックがその船底をかかえこんだ。そして、開いていたドームが急速に閉鎖される。  ドーム内に空気の注入される音が、待機所にもシュウシュウと激しく聞こえてきた。きっかり三十秒後、その音は熄《や》んだ。  気圧正常を知らせるブザーが鳴った。  と同時に、自動的に、ドーム内と待機所の間の隔壁が右に滑っていく。  リーマー艦長を先頭に、三人は、着艦ドーム内に足を踏み入れた。  しかし、なぜか、まだ連絡艇のハッチは開かない。 「どうしたんだろう、おかしい……」  つぶやきながら、リーマーは早足で、着陸艇に近づいた。二人も後を追う。  と、まるで三人の接近を待ちかまえていたかのように、ハッチが蹴り開けられた。  そして、そこから、風のように素早い黒い影が、先を争って跳び出してきた。 「あっ! 危ない……」  ハミルたちの背後で、護衛兵のひとりが叫んだ。  それに応えたのは、黒い影が走りながら放った二発の銃声だった。  それは鋭い谺となって、ドーム内に反響した。  何が起こっているのか、まだリーマーには分からない。  というよりも、彼の理性が、目の前をかすめる黒い影の正体を認めようとしなかった。  ただ、彼は防衛本能に導かれて、咄嗟に腰の護身用|拳銃《けんじゆう》に手をのばした。  しかし、次の瞬間、彼の右腕はすさまじい蹴りを食らって完全に感覚を失った。  握りかけた拳銃が床に落ちて火花を散らす。  さらに、もう一撃。  リーマーは一声呻いて床に叩き伏せられた。  その時になって、彼はようやく、自分を二度にわたって殴りつけたものが、茶褐色の毛皮に覆われた太い尻尾であることを認めないわけにはいかなかった。  彼は金属のフロアに這いつくばり、そして彼を見下ろす影を怖る怖る見上げた。 「ガルー……いや、悪い夢だ……早く醒めてくれ……俺は悪夢が何より嫌いなんだ……」  リーマーはつぶやいた。  しかし、彼はすでに、それがどうしようもない現実に違いないことを思い知っていた。  彼は右腕の軍服の破れ目から流れ出してきた血を左手の指で拭い、そして唇に含んだ。  それはまぎれもない、血の味がした。  リーマーはゆっくりと上体を起こした。  首だけを後ろにねじ曲げて、他の二人をうかがう。  ハミル元帥が、やはり同じように床に転がされているのが見えた。  カド総裁だけは二本の足でそこに立っている。だが、茫然自失の態で、細い目を精いっばい見開き、唇を真青にして震わせていた。  そんな彼等を一人ずつガルー戦士が取り囲んでいた。  モニターTVで異変を知った艦橋要員が、スピーカーを通じて、必死で呼びかける声が聞こえてきた。  完全装備の警備兵が、このフロアへ大挙して押し寄せてくるのも時間の問題だろう。  だが、いくら彼等の数が多くとも、この状況を変化させることはできないはずだ、とリーマーは思った。 (……わたしはともかく、ハミル元帥や、ことにカド総裁の生命を危険にさらすことなど、少なくとも、この艦にいる人間には誰もできないはずだ……そんな決定を下せる人間など、この世界中に誰もいない……)  リーマーは思った。  その時だ。 「諸君」  突如、朗々たる声が、フロア全体に響き渡った。  リーマーはぎくり、と首を縮め、それからゆっくりと声の聞こえた方角に視線を向けた。  その声の主は、連絡艇のハッチから突き出たタラップの上に立っていた。  大変に老いたガルーらしいことは、彼等をほとんど目にしたことのないリーマーにも見当がついた。  その老ガルーは、粗末な布の寛衣をまとい、片方の手に一本の杖を握っていた。 「諸君! 我々は、君たちに対して、どうしても教えたいことがあってやってきた」  老ガルーの声は、その身体つきからは到底信じられないほど、張りのある、深い、力強いものだった。  リーマーは、思わずその声に、魂をゆさぶられた。 「諸君は、我々が、なぜ火星人と名乗り、かくも容赦のない闘いをはじめたが、それを疑問に思っていることだろう。なぜ、ただの知能の劣った奴隷ガルーが、かくも力を持つに至ったか、なぜ、あらゆる地球人をこの惑星から追い立てようとしているか……その本当の意味を、知りたいと願っていることだろう……」  老ガルーは言葉を切ると、カド、ハミル、リーマーの順に、その顔を眺めわたした。 「それを、我々は今ここで教えよう。そのためにはまず、諸君に、我々の、つまり火星人の神話を話して聞かせねばならない……」 「�神話�だと! そんなでっち上げの物語はたくさんだ!」叫び返したのはハミル元帥だ。「それよりも、具体的な、おまえたちの要求を言ってみたらどうだ!? 我々は今こそ、現実的に話し合う必要がある、そうだろう」  それを聞いて、老ガルーは鼻の先にシワを寄せた。それは明らかに嘲笑の表情だった。 「我々が�神話�を持っているのが不思議かね? 数世紀前まで全くの死の惑星だった火星に、神話などあるはずがない……それは、我々無知なガルーが、妄想によって創り上げたものだと言いたいのかね? いや、それは違う……」  老ガルーはゆっくりとかぶりをふった。 「……我々が語らねばならぬのは、ほぼ五万年にわたる、火星と、そこに生きた知性体の物語だ。愚かな地球人は、ついに、火星の秘密を探りあてることができなかった。いや、探りあてようとすらしなかった。だが、我々はそれをおまえたちに教えよう。火星と、火星人についての神話を、だ」  第7章 栄  光     1  火星には川がある。  いや、正確には、河川跡と言うべきだ。  それがはじめて発見されたのは、植民時代よりもはるか昔、二十世紀後半のことだった。  当時の火星は、ただ乾ききった死の世界だった。そう思われていた。  あらゆる観測結果は、火星が、過去にも、現在も、そしてまた将来も、生命を育くむ可能性の極度に薄い惑星であることを証明しつつあった。  ところが、一九七〇年代、地球から火星へと相次いで送り込まれたマリナーやバイキングと名づけられた探査船は、火星地表面に、大小無数の流跡を発見した。  この観測結果は、多くの科学者たちに、全く新しい課題を提出するものだった。  というのは、開発以前、火星地表の気圧は平均七ミリバール程度という極端に低いもので、この環境下では、液体としての水は存在し得ないと考えられていたからである。  水分の多くは、南北両極冠、あるいは地下の岩石層に氷の状態で閉じ込められている。  とすれば、長いもので数千キロメートルに及ぶ流跡はどうして形造られたのか。  さまざまな仮説があった。  低粘性の溶岩……氷河……風……泥流……あるいは地殻変動……等々、考えられるかぎりの原因が検討された。  しかし、それら探査船が撮影し、地球に送り届けてきた何万枚もの写真に示された流跡は、余りにも、地球における河川の地形と似通っていた。  いや、その地形の成因を水流以外に求めようとすると、必ず何らかの無理が生じた。  そればかりではない、やがて科学者たちは、大規模な洪水平原や、クレーターからの排水路、大河から枝分れした細流跡などを、火星地表のいたるところで発見していったのである。  それほど広範で一般的な地形を、陥没などの偶然や、泥、風といった仮説のための仮説で説明しつくすことができるわけはない。  次第に、火星の地形創造に、莫大な量の水脈か関与していたという事実は、疑いようのないものとなっていった。  このことが教えるものはひとつしかない。  即ち、過去において、火星には、地球と同様に豊富な水が存在し、地表を縦横に、音をたてて流れていたのだ。  そしていつの頃か、それはどこかへ消失し、乾き切った死の世界が残された……。  天文学者たちは、この環境の変化を、火星の歳差運動によって生じる季節変化と考えた。  ある試算によれば、それは数万年に及ぶゆるやかなもので、現在の火星は明らかに≪冬の時代≫にある。  つまり、現在から数万年前、あるいは数万年後、火星は夏の真只中《まつただなか》にあり、豊富な水流を持つ温暖な世界であった、もしくはあるのかもしれないのだ。  そして、もし、そのような≪夏の時代≫が、火星で生命を育くみ、そして進化させることができたとしたら、その生命たちは≪冬の時代≫をどのようにして過ごすだろうか。  数万年という単位を長すぎると考える人もいるかもしれない。  だが、それは単に程度の問題にしか過ぎない。  実際、地球上では多くの生物が、あるいは種子のまま、あるいは冬眠という形で冬を越す。数千年眠り続けた古代の植物の種子が、立派に芽ぶくこともめずらしくはない。  オーストラリアの砂漠地帯では、雨の後、その水たまりに忽然《こつぜん》と姿を現わすフェアリイ・シュリンプ(妖精《ようせい》えび)という生物が知られている。  それらは、一年の大部分を乾ききった砂の間で卵のまま通ごし、ただ雨が降ったそのいっときだけ、仮死から醒めて孵化《ふか》するのだ。  とすれば、火星世界の奥深く、≪夏≫の訪れを待って昏々と眠り続ける何ものかが存在するのではないか、と考えることは、それほど空想に偏してはいない。  ともかく——  人類が上陸したのは、≪冬≫の火星だった。  人間たちは、極めて地球的な常識に基づく調査によって、この乾き切った寒冷な低気圧の世界に生命は存在しない、と断定した。  確かに、数億年の古い起源になると思われる不確かな有機体の化石は発見された。  しかし、それ以上のものを、人類はこの惑星上に見つけることはなかった。  そして、地球は、この白紙の惑星を自らの属星として、人類の手で開発することを決意したのだ。  技術団が送り込まれ、岩石層から水分を分離し大気中に発散させる惑星改造設備を、火星に次々と建設していった。  さらに、遺伝子工学によって代謝速度を早められた植物群が、火星の大気を、少しずつ濃密なものに変えはじめた。  これが、火星開発の第一歩だった。  小規模な科学者だけの研究基地が、火星各地に開設された。  やがて環境の向上にともなって基地は増強される。それに従って、基地を運営、維持するための一般労働者が、火星へと入植しはじめた。  基地は次第に村と呼ばれるようになり、それがいつしか、町に変わった。  そしてついに、調査研究を全く目的としない、本格的な植民活動が火星に対して行われる時がきた。  第一陣五百八十名、第二陣千五十名……第五次植民団は、実に一万二千名の地球人をこの火星に送り込んだ。  そして、彼等に続いてやってきたのが、ガルー、つまり、遺伝子操作によって知能を高められたカンガルーの奴隷たちだった。  ………… 「……地球人は、余りにも想像力にとぼしかった。この火星を、力ずくで居住可能な植民星へと改造しようとすること以外、頭には何もなかったのだ。いいかね、おまえたち地球人は、火星が、地球ではない別の世界だという、最も単純な概念すら、ついに把握できなかったのではないかね? 火星には火星の�道�があり、それが地球とは根本的に異なっていることを気づこうともしなかった。そして、気づいた時には、もう全ては遅すぎたのだ……」  老いたガルーは、ゆるやかに尾を左右に振った。  そして国際経済開発委員会《C・I・E・D》総裁カド、ハミル元帥、リーマー少将の顔を、順に眺めわたした。 「……そればかりではない。地球人は、この火星が、今、単に眠りについているだけの、生きた世界であることを感じとることができなかった。それは何故か……おまえたち地球人の�心�は閉じているからだ。おまえたちは、この宇宙、この世界、この自然に対してはおろか、自分たちと同じ種族、同じ仲間に対してすら�心�を開くことがない。何も聞こえず、何も視えず、何も感じることのできぬ心を持った動物が、地球人なのだ……」 「哲学の講義は沢山だ。おまえの言う通り、少なくともこのわしは、全く実際的な人間でな。現実の問題以外には、まるで興味を感ずることができん。だから、もう少し、分かりやすく話してはくれんか。つまり、その、火星人の神話、とやらを……」  意外に静かな声で、そう問い返したのはカドだ。  戦闘母艦ガーディアンの艦内でガルーの戦士たちに取り囲まれる、という異常すぎる事態の只中にあって、カドはともかくそれに驚いてはいた。  しかし、怖れてはいなかった。  地球世界を、真の意味で支配している組織の長たる彼の強靭《きようじん》な精神は、これまで一度も、何かを怖れたことがなかったのだ。  彼は怖れるということがどういうことなのか、それすら知ってはいないのかもしれない。  彼は、老ガルーの演説に激しい興味を覚えながら、早くその結論を聞きたいという焦慮に捉われ、それを率直に言葉に出した。  それを聞いた老ガルーの顔が、微かにゆるんだように見えた。 「……気の短いお人だ。だが、これは重要な、いや、それどころか、全ての核心へとつながる話なのだ。ともかく、聞いてもらおう……」  ここ、ガーディアンのドーム・デッキの外側には、無数の将兵がつめかけて事の成り行きを見守っていることだろう。  そして、あらゆる録画、録音装置が動員されて、そこで交されるひと言ひと言、一挙動一動作もあまさずに記録し続けていることだろう。  老ガルーは、それをはっきりと意識しているようだった。  その口調には、全人類に呼びかける響きがあった。 「……いいかね、わたしは�心�について話している。わたしたちの祖先は、地球の一大陸で進化した、原始的とも言える有袋類だった。だが、それでも、わたしたちが人間よりも優れていたのは、�心�を開くことができた点だ。いや、これは何もわたしたちだけの特異な能力ではない。ほとんど全ての動物や植物は、皆生まれつき心が開いている。むしろ、心を完全に閉じてしまった人間の方が、生き物としてはるかに異常なのだ……」  ガルーは言った。 「それを、具体的に話してくれんか。�心�とやらが閉じている我々は、それがどういうことなのか、まるで分からん」  口をはさんだのはカドだ。 「……心が閉じていては、つまり、自分ひとりのことしか感じられない。だが、心が開いていれば、自分だけでなく、同じ仲間や、他の生き物が感じることまでも、自分のものとして感じとることができる……分かるかな、地球人? さっきも言った通り、我々の故郷は地球の孤立した大陸オーストラリアだった。しかし、我々は人間によって追いたてられ集められて、根こそぎ改造されて、この火星へと送り込まれた。地球上で生存する、遺伝子操作を受けていない原カンガルーの数は、そのために見る見る減少していった。そしてついに、その最後の一頭が息を引きとる日がきた。その時、我々ガルーは、この火星にいた。だが、我々は誰もが、その瞬間、地球で最後の仲間が死んだことを感じとり、そして知った。分かるかね? この意味が……」 「精神感応《テレパシー》のことを言っているのか?」  カドが呆気にとられて訊く。 「そう呼んでもさしつかえはあるまい。だが、人間たちが考えるそうした概念よりも、我々の�心�は、はるかに明瞭《めいりよう》で、そしてあたたかい。我々は心によって、仲間と、そして他の生き物たちと、さらに自然や宇宙と通じあっている。ただ人間だけが、その共鳴から孤立しているのだ」  老ガルーは決めつけた。 「……我々は、ある波動によって、地球で最後のカンガルーが死んだことを知った。もはや、我々に帰るべき領土は消え失せたのだ。その瞬間、我々は、真に火星人たる資格を得た……なぜなら、その時から、地球は我々にとって、単なる異星にしか過ぎなくなったからだ……」  ガルーはなおも続けた。 「……この火星には、途方もなく長い周期で巡ってくると≪夏冬≫がある。そのことは地球人も知っているはずだ。そして、今、火星は≪冬≫の季節に入っている。長い長い冬だ……次の夏がやってくるまで、あと二万年を残す冬だ……」 「それは、歳差運動による環境変化のことか!? そんな仮説を聞いたことがあるぞ!」  天文学を学んだことのあるリーマーが叫んだ。 「……いや、それは仮説などではない。摂理だ。我々は、それをはっきりと感じることができた。はじめてこの火星に着いたガルーは、すぐにそれを知った。……そして、さらに、この長い冬を眠るものの存在に気づいた……」 「眠るもの!? それは、いったい……」  好奇心がカドの声を甲高くさせた。 「……夏を待ちながら、火星で眠り続けるもの……その夢が、我々を秘界へと導いた。秘界……そこには、火星という惑星とともに、何十億年を過ごしてきた精神が眠っていた。そこは、彼等の冬の殿堂だった。彼等は眠りの中で、我々の心を受け入れた。我々は彼等の心と、そこで融け合った。……秘界には、赤い泉があり、我々はそれを飲んだ。それは、彼等の生命の源でもあり、また、彼等自身の精神でもあるのだ。我々は、それを飲み干した。その時、彼等は我々に命じた。�火星人たれ�と……」 「�彼等�!? それは、冬眠する火星の生物のことか? しかし、そんなバカな! 地球の探査船は、もう何世紀も前から、この火星を徹底的に調べつくしてきた。だが、どのような調査、探険によっても、生命の痕跡すら、この惑星上では発見されなかった。おまえたちの言っていることは、たわ言に過ぎん」  思わず、リーマーは叫んだ。 「哀れな地球人どもよ、いつまでも、そう信じているがいい……」  老ガルーは静かに応えた。 「……だが、心さえ開いていれば、彼等の声は、おまえたちの肉声以上にはっきりと聞こえる。彼等は古い古い種族だ……かつては、地球人の生い立ちを観察していたこともあるという……彼等は今、深い眠りについている……そして、その眠りの底で、我々の心と接触した。彼等は、我々が、住むべき星を奪われた種族であることを知った。そして、大いなる心で我々をこの火星に迎え入れてくれたのだ。�火星人たれ�と彼等は言った。そして、この火星人の領土を、自らの力で守り、育てよ、と命じた。そこで我々は、立ち上ったのだ。おまえたち地球人を、自分の星へ追い帰すために……」 「……途方もない話だ。だがしかし、説得力のある、うまくできた神話だと認めよう……」  むしろ、楽しそうな表情で、カドが言った。 「で、おまえたちは、これからどうするつもりだ? この火星で、何万年か、新しいご主人さまが目覚めるのを待つというわけか? そして、それから、どうなる! また、奴隷の身に逆もどりか?」 「我々の主人は、我々だ。我々に主人は必要ないし、我々もまた、何かの主人になりたいなどとは思わない。我々は、我々の運命を、我々の手で切り拓く。ここは、我々、火星人の領土だ。そして、我々と彼等は、すでに一体の存在だ」  老ガルーはカドの挑発を受け流し、冷静な声で答えた。 「……この宇宙空間にあっても、我々は、火星全土にいる仲間たちの声を聞いている……我々は、皆と同じ波動の中にいる……そして、その波は、秘界の彼等とも共鳴しあっているのだ……分かるまい、聞こえまい、地球人! 火星は今、我々の熱気で湧き立っている。そして、それはまた同時に、眠り続けるものたちの喜びでもあるのだ。火星はすでに、地球人の手が届かぬ世界になっているのだ!」  老ガルーは、言い切った。  地球最強の戦闘母艦ガーディアンの着艦ドームに、沈黙が下りた。  地球人の真の代表者たる資格をもつカド総裁が、必死で次の言葉を探しているのが、かたわらに立つリーマーには分かった。  しかし、彼は、その場にふさわしいひと言をどうしても思いつけない様子だった。  彼のこめかみから、大きな汗のつぶがひとつ、ゆっくりと流れ落ちた。  ともかくも、ガルーの演説は一段落した。  そして、そこにこめられたガルーの意志を、この奇妙な対峙《たいじ》の場にあてはめて考えれば、彼等の思惑は、余りにも明白だった。  その明白さ故に、カドは次の言葉を探しあぐねているのに違いない。 (つまり、人質だ……カド総裁、それにハミル元帥……完璧だ。彼等は、この艦を自由に操れる……)  自嘲的な気持ちで、リーマーはそう確信した。  それほど、地球世界におけるカドの存在は大きかった。  今、地球は、火星という経済的ブラック・ホールに捕捉《ほそく》され、ひとつの淵《ふち》に立たされていた。  資源の枯渇が深刻化し、社会的|逼迫《ひつぱく》感は強まっていた。  東西、南北の力関係のはざまで、中小の紛争がひっきりなしに火を吹いていた。  また大国は、体制の違いを問わず、内乱の予兆におびえていた。  それらはどれも、すぐさま大戦の危機につながる要因だった。  そうした情勢下にあって、各国の利害を調停できる唯一の組織は、全地球的な経済運営の要たる国際経済開発委員会《C・I・E・D》であり、そしてその組織は、総裁ジン・カドなくしてはたちまち空中分解すると見られていた。  つまり、今、人類は、絶対にカドという人間を失うわけにはいかなかったのだ。  彼は、文字通りの意味で、現代の帝王だった。  もし今、カドの支配力が不意に消滅すれば、それは|C・I・E・D《シード》内のみならず、即、全世界の政治的分裂、決定的対立を生むに違いない。  そうなれば、もう地球は、火星どころではなくなる。  各国、各民族は、それぞれ自らの存亡をかけて、ありったけの武器をふりかざしていがみ合わなければならないのだ。  それが、地球の現状だった。  そしてカド本人が、そのことを一番よく知っていた。  彼は、自分の力の強大さ故に、この場の状況にとまどっていた。 「ともかくも……」  カドは、せきばらいひとつして、周囲を固めるガルー戦士を見回した。 「……どうかね、全員で食事をするというのは。いや、心配は無用。毒を盛るようなケチな真似はせん。ともかく、ここでいつまでもこうしているわけにはいかないだろう。まあ、自分で言うのもおかしいが、このわしを押えているかぎり、おまえたちは安全だ。この艦内でも、好きなように振るまえる。それは、わしが保証しよう。どうだ、いいだろう。食事をとりながら、ひとつ、話し合ってみようじゃないか。これまで我々と、おまえたち、つまり火星人の間には、余りにも対話が欠けていた。それは率直に認めよう。だから、今こそ、この場で……」  何とか突破口を見つけようと、カドは饒舌《じようぜつ》になった。  だが、それを、太い尾のひと振りで制止したのは老ガルーだ。 「ほう、話し合いだと? さっきまで、この火星に核爆弾を降らせる相談をしていたその当人が、今度は話し合いだと?」  老いたガルーは、そう言って仲間たちを振り返った。 「どう思う、この地球人の提案を?」 「そう……きっと、その男は、爆弾をどの地点へ投下するのが一番効果的か、それを我々に相談したいんじゃありませんか?」  若いガルー戦士のひとりが、そう言った。  すると、全員は、屈託のないほがらかな笑いで、それに応えた。  顔色を変えたのはハミル元帥だ。 「なぜだ!? なぜ、そんなことを知っている!? そうか! 本艦には、おまえたちに買われたスパイが乗り組んでいるんだな!? ちがいない。それに、ロード……ロードも、おまえたちガルーに寝返ったのか!? 許せん……死刑にしても飽き足らぬクズどもめが!」  ハミルがわめいた。 「スパイ?……」  老ガルーは、元帥の狂乱を横目で見ながら、穏やかに笑った。 「そんなものが我々に必要かね? 我々はいつでも、知りたいことを知ることができるというのに……我々はただ、心を開くだけだ。心を開けば、聞きたいこと、知りたいことは、自然に心の耳に聞こえてくる。……しかし、スパイなどという発想は、どうして、いかにも地球人らしいじゃないか。そうだろう? ノリス」  老ガルーに名を呼ばれた若い戦士のひとりが、鼻にしわを寄せて苦笑した。 「まったく、その通りです、導士……」 「分かったぞ! やはり、おまえたちはテレパシーを使うんだ。この化け物めが!」  怒りに駆られたハミル元帥は、歯をむき出してそう怒鳴った。 「薄汚い獣の分際で! 人間の心の中を盗み見るのか!? くそっ……しかし、我々の作戦を知っていながら、なぜ、のこのこと、ここまでやってきた? まさか、火星を破壊するのは、どうか中止していただきたい、と頼み込むつもりじゃあるまいな……いや、待てよ! そうなのか? ひょっとして、おまえたち、我々の決意を知って、降服を申し入れに来たんじゃないのか?」  ハミルが、思いつきの希望にすがって、いそがしくガルーの列を見回した。  しかしそこには、明らかな冷笑があるばかりだ。  ハミルは沈黙した。  そしてカドも、ガルーの出方を待って、口をひき結んでいる。 「食事の誘いを受けながら、それを断らねばならないのは残念だが……」  その場が落ち着くのを待って、再び口を開いたのは老ガルーだ。その口調には皮肉っぽい笑いがまじっている。 「……どうも、そんなことをしている時間はなさそうだ。いや、我々にとってではなく、地球人たちにそんなヒマはないはずだ」  その言葉が合図であったのか、カド、ハミル、それにリーマーを取り巻くガルーの輪が、ずいと縮まった。 「ヒマがない? ということは、これから何かを、おまえたちがはじめるわけか……」  カドが慎重に問いかける。 「ふむ……いや……ともかく、最初に言った通り、我々はここへ、我々火星人の神話を伝えるため、やってきた。そして、それはすでに語り終えた。今度は、おまえたち、地球人の番だ」 「我々?」 「そう……今からすぐ、おまえたちはひとり残らずこの艦を退去することになる。ひとり残らず、だ。もちろん、おまえたち三人も、無用な抵抗をしないかぎり、無事に離艦することができる。そして、あとには、我々火星人だけがこの艦に残る」  カドが一瞬、息を呑んだ。  それに構わず、老ガルーは手にした一本の杖を高々と振り上げた。 「さあ、今すぐに、だ。おまえたちは、この母艦を我々に明け渡すのだ」 「……そして、どうする? まさか、ガーディアンを破壊するつもりじゃないだろうな!」  リーマーの頬が、激しく痙攣した。 「心配するな、艦長。我々は地球人と違って、何でもかんでもぶち壊せば物事が解決するなどとは考えていない。我々は、この最強の戦闘母艦を、我々の戦列に迎え、我々の手で運用する。つまり我々はこの瞬間、ついに宇宙空間においても、地球人の力による支配から自由になるのだ!」  さっき、ノリスと呼ばれた若いガルーが、誇らし気にそう答えた。     2  火星地表面から、平均一千三百キロ離れた軌道上を、二隻の巨大な戦闘母艦が、まるで寄りそうように航行していた。  一隻は、四十二万三千トンのガーディアン、そして、そのやや後方についているのが、三十一万トンのドヌスだ。  形態的には、ガーディアンがずんぐりした不気味な艦影であるのに対し、ドヌスは艦首から艦尾にかけて細っそりと引きしまったスマートなシルエットを持っている。  その二艦の間を、火星時間でほぼ一昼夜、ひっきりなしに連絡艇が往復し続けていた。  ガーディアンからドヌスへと、それは将兵を満載して発進し、すぐ折り返し、今度は空の連絡艇が帰ってくる。  その単調な光景を、ガーディアンの最初で最後の艦長となったリーマーは、ひとり戦闘艦橋に陣取って、一睡もせずに見守ってきた。  つい数十時間前まで、彼は、自分がこのような形でガーディアンを離れることになろうとは、それこそ夢想だにしていなかった。  それを思い返すと、不覚にも、熱い液体が彼の頬を濡《ぬ》らした。 「リーマー艦長……」  不意に呼びかけられて、彼はびくりと背を震わせ、顔をそれとなく拭いながら振り向いた。  そこに、カドが立っていた。 「どうかね? 様子は……」  彼は、あくまでも平静な声で、リーマーに話しかける。 「はっ、総裁。退艦作業は順調に進んでおります。もうガーディアンは、ほぼ無人の状態と言えましょう。あと、連絡艇の着艦作業員、それに保安係若干名が出発すれば、全ては、終ります」 「そして、我々の番が回ってくるというわけか……」  カドは、作業状況を映し出すマルチ・スクリーンに見入りながら、ゆっくりとあごをなぜた。 「……ところで、艦長。ひとつだけ、気になっていることがあったのだが……」  カドは、ひどく用心深い顔つきであたりを見回すと、リーマーの耳元に口を寄せた。 「……まさか君は、このガーディアンを無傷のまま、奴等に明け渡すつもりじゃあるまいな」 「もちろんですとも、総裁!」  リーマーは心外そうに眉をしかめた。 「自爆装置はすでに作動を開始しています。三時間前、安全ロックを、わたしが自分で解除しました。まちがいは起こり得ません。あと、正確には二十一時間四十三分で、本艦は核融合炉の爆発で火の玉となり、小太陽として約三昼夜ほど燃え続けるでしょう」 「なるほど……しかし、我々が退艦した後、ガルーどもが安全装置をかけ直す心配はないのかね? 奴等は本気で、この艦を乗っ取るつもりらしい。まさかとは思うが、このような戦闘艦に関して、何らかの知識を持っている可能性もある。やつらが自爆装置をストップさせ、本艦を操るような事態になったら、それこそ取り返しはつかん。その点は、どうかね?」  カドはあくまでも慎重だ。 「はっきり申し上げて、もう、本艦の自爆をとめられる者はどこにもおりません。この装置は、そのように作られているのです。いったんロックが解除されたなら、爆発までの二十四時間以内に、駆動炉全体を分解しつくしでもしない限り、装置の秒読みをとめることはできません。というのも、その自爆装置は炉心壁の内部に埋めこまれており、作動開始と同時に、外部の信号をいっさい受けつけず、独自に時限ユニットを働かせ続けるからです。お分かりでしょう、つまり、もう誰も、その装置の気を変えさせることはできないのです」 「それは、それは……」  カドの表情が安心のためか少しゆるんだ。 「考えてみると、そいつは実に物騒な装置だな。なあ、この状況では最適のものと言えるわけだが……。いったい、そいつを考えたのは誰なんだ。まるで、戦闘母艦が、このような非常事態に見舞われることを予想でもしておったような……」 「本艦の基本構想及び、能力設定は、以前、派遺軍司令を務め、任務遂行中に殉職されたマルク・ゴゼイ中将によるものだと聞いております……」  リーマーは答えた。 「マルク・ゴゼイ? 知らぬ名だ……」  すでにこの件についての関心を失ったのか、カドは素気《そつけ》なく言って、横を向いた。 「それにしても、あのガルーどもは、どこへ行ってしまったんだ。この部屋の外に立っている見張りはひとりきりだ。それと、わしの後をつけ回している見張りがひとり……恐らく、ハミルにも一匹ついているのだろうが、他の奴等は、ずいぶん前から姿を見せない……」  カドは、戦闘艦橋を埋めた、艦内モニターをぼんやりと眺めやった。  だが、そのスクリーンの半数は空白で、残りの半数も、ただ人気のない通路や機械室、居住区などを映し出しているに過ぎない。 「まあ、放っておいても心配はありますまい……」  リーマーは、深い溜息を洩らしながらカドに指揮シートのひとつをすすめ、自分もどさりとそこに身体を沈めた。 「……なにがどうあれ、相手は結局獣にしか過ぎません。この四千三百人乗り組み、四十二万三千トンの巨艦を、たった十匹余りのガルーでいじくり回そうとしても、それは無理な話です。主砲ひとつ、奴等には動かせない……」  リーマーはつぶやく。 「しかし、艦長。この艦《フネ》は、別に乗り組み員などいなくとも、数人の艦橋要員だけで、支障なく運用できるのではないのかね? 確か、この艦に着いた時、わしはハミルから、そんな説明を受けたように覚えているが……」  カドが訊く。 「おっしゃる通りです、総裁。この艦の航行、戦闘などの主要な運用は、全て、中枢コンピュータの制御下で行われます。ですから、実際本艦に必要なのは、たったひとりの指揮員だけなのです。本艦は確かに、四千人を越える乗り組み員を収容できます。ですが、そのうち二千五百名は、敵地へ上陸して闘ういわゆる戦闘員、残りは、保守、保安、医療などを含めた雑務にたずさわる要員です。つまり、彼等は、本艦の航行や戦闘能力とは、直接何の関係もない人間だと言うこともできるわけです」  リーマーは説明した。 「待ってくれよ、艦長。ということはだ……この艦《フネ》に残っている十匹ほどのガルーに、もしその知識があれば、この艦を一時的にせよ動かせるということにならないかね?……つまり、その、自爆までの時間ということだが……」  カドが少し不安そうに、リーマーの顔を見つめる。 「……ああ、総裁、そのこともご心配なく……」  リーマーは軽く微笑《ほほえ》んで続けた。 「先ほども言いました通り、本艦主要部の運用には、全て中枢コンピュータの助けをかりなくてはなりません。しかし我々は、すでに、このコンピュータの活動も休止させてしまっています。どうやったかというと、最も基本となる作動コードを消去してしまったのです。これを覚醒させ、活動を再会させるには、再びそのコードを打ち込んでやれば良いのですが、少なくとも本艦には、そのコードを知っている人間は乗り組んでいない……もちろん、このわたしも、それを全く知りません。これは自爆装置同様、本艦が敵の手に渡った場合を想定して設けられた安全ユニットのひとつであるわけですが……」 「ほお……聞けば聞くほど素晴らしい艦だ。全く、破壊してしまうのが惜しくなる。もっとも、今のところ、本艦は敵の手に渡ってはじめて、本領を発揮しているとも言えるわけだが……」  カドは皮肉まじりに、肩をすくめた。 「……しかし、それでは一体、その作動コードは誰が知っているのだね? 艦長すら知らないとすると、艦隊司令官かね?」  ハミルのことを心配してか、カドがなおも訊く。 「いえ、司令も作動コードに関しては何も知らないはずです。それを知っているのは、恐らくこの中枢コンピュータのスイッチをはじめて入れた人間……つまり、建造段階に関わった誰かでしょう。だが、わたしは、それが誰かも知らない……」  リーマーは、手の平を大きく広げ、それを身体の両わきでひらひらと振ってみせた。 「なるほど……秘密の保持は完璧、というわけか。うむ、なるほど……ようやく、わしも安心した。いや、わしは、昔から余りにも心配性だと、人からよくからかわれたものだ。だが、現代の世界、このくらい石橋を叩く人間でなければ、とてもやっていけんとわしは思っている。実際、そうでなければ……」  カドがなおも喋りだそうとしたその時、突然、戦闘艦橋入口の扉が、モニター音とともに大きく左右に開いた。 「カド総裁、それにリーマー艦長……たった今、退艦作業は全て完了した。現在、この艦内に残留している地球人は、おまえたちを含めて四人のみだ」  ガルーのひとりが、大声で報告した。 「四人? 我々と、それにハミルの三人ではないのかね?」  話の腰を折られたカドが、やや不機嫌そうに訊く。 「それが、ちょっとした事件が起こって……四人になってしまったのだ」  戦士たちの後に続いて入室した老ガルーが、面白そうにつけ加えた。 「さあ、二人をこっちに連れてきなさい」  老ガルーの命令で、背後の通路から、腕を後手に縛られ、血だらけになった二人の地球人が、連行されてきた。 「元帥! それに、ロード少将! いったい、どうしたと言うんです!?」  叫んだのはリーマーだ。 「いや、なに、醜い仲間割れじゃ。この元帥が、どうしても裏切り者のロードを生かしてはおけん、と……それで、この有様じゃ」  老ガルーが、鼻面をひくひくと震わせて、しわがれた笑い声をたてた。 「…………」  ハミル元帥の気持ちが痛いほど分かるリーマーは、ただ無言のまま唇を噛《か》み、頭部から血を流すロードをにらみつけた。 「まあ、しかし、この期に及んで、みっともない真似はやめにしてはどうかな?」  老ガルーは事もなげに言って、四人の地球人を順番に見わたした。 「おまえら獣に説教される覚えはない! さあ、もう、これで我々の役割は終ったはずだ。早くこの艦から解放してくれ! そういう約束だったはずだぞ!」  老ガルーのわけ知り顔が、リーマーの頭に血を上らせた。 「まあ、それほど急がずとも良いではないか……」  老ガルーは振り返って、他の若いガルー戦士たちを手招きしながら言った。 「……それとも、自爆装置の時間が気になるのかな?」 「ふん……お得意の心を開いて、我々の考えを読んだというわけか……」カドが口を開いた。「だが、それなら話が早い。もし脱出が遅れれば、蒸発してしまうのは我々だけではない。おまえたちも、早いところ、連絡艇に乗って、火星へ逃げ帰った方がいいのではないかな?」 「そこを、ドヌスのビーム砲で撃ち落とそうというつもりか?」  老ガルーもやり返す。 「それはお互いさまだ。最初の約束通り、このまま我々を無事に解放してくれるなら、我々も必ず約束は守る。ともかく、おまえたちは望み通り、この太陽系最強の戦闘母艦ガーディアンを葬り去ることができるわけだ。充分すぎる戦果だろうが!」  リーマーが言う。 「ふむ……ふむ……」  老ガルーは奇妙な鼻声を洩らした。  そして、神経質そうに耳を二、三度振った。そして、言った。 「……しかし、まだもう一隻、ドヌスが残っている……」 「な、何だと!? つけあがるのもいい加減にしろ!」  カドがついに本気で怒り出した。 「おまえらは、やっぱり低能の獣にしか過ぎん。また、このわしを人質にして、同じ手を使うつもりか!? だが、それは余りにも虫の良すぎる考えだ。地球人が、わしひとりのために、人類全体を犠牲にするような真似をするものか! それが、おまえらには分からないのか!? 今度こそ、彼等も要求を突っぱねる! わしやハミルは死なねばならないが、おまえたちの火星も放射能にまみれ、灼けただれた墓場に変えてやる!」  カドは一気にわめいた。 「そう……おまえたち地球人は、いずれにせよ、そうするつもりなのだ。そのガーディアンを失ってもドヌスがある。そのドヌスで、火星を核爆発の燃えがらに変えてしまおうと決意している……」  老ガルーが対照的に静かな声で言った。 「ああ、ああ、その通りだ! それがどうした!? ガーディアンは、あと二十一時間後に確実にこの宇宙から消滅する。そうすれば、再びドヌスが最強の母艦の地位に返り咲く。しかも地球には、新造中の母艦が、あと二隻もある。まあ、それを待つまでもなく、ドヌス一隻で、火星ひとつぐらい破壊するのはわけもないことだ!」  リーマーも叫ぶ。 「ふむ……ふむ……そうであれば、なおさら、ドヌスの存在は、我々火星人にとって見過ごせない脅威というわけだ……」  老ガルーが、ちょっと考え込むような仕草をした。 「その通りだ、ガルー! ただし、それは、脅威などという生やさしいものではないがな。ざまを見ろ。どの道、おまえらの未来はないんだ!」  あごを突き出し、リーマーは毒づいた。 「そうか、そうか……分かった、分かった……」  老ガルーがからかうように、尻尾を振り回した。  その動作がなおさらリーマーを逆上させた。  思わず彼は、こぶしをガルーに突き出した。  しかし、老ガルーは、そんなリーマーにとりあう風もなく、くるりと背を向けると、ひとりの若い戦士をかたわらに呼び寄せた。 「聞いての通りだ、ノヴ・ノリス。どうやら我々は、あのドヌスも始末しなくてはならんらしい。なに、この火星へやって来た本格的な戦闘宇宙艦は、このガーディアンとドヌスだけだ。ドヌスをやっつけてしまえば、残りは輸送艦に毛が生えたようなフネばかりになる。つまり、地球人は、火星に対する軍事的切り札を全て失うわけだ。そうだ、ノリス、やってくれ!」 「やってくれ、だと1? 同じ手は二度と通用しないと教えてやったはずだぞ! いくら、このカド総裁が地球にとってかけがえのない方でも、そこまで地球人は甘くない!」  ガルー戦士に背後から抱きとめられたまま、リーマーは叫んだ。 「そう騒ぎ立てるな。見苦しいぞ、少将」  ノリスという名で呼ばれた屈強なガルーが、一歩前へ出てリーマーの肩に手をかけた。 「まあ、いつまでも、そうして、我々のことを無知な奴隷だと思っているがいい。だが、我々ガルーのなかには、おまえたち以上に地球人のことを知り抜いている者もいるんだ。おまえたちが、ただ、そのことを知らないだけだ。なにしろ、我々の方が、おまえなどより、はるかに長く、この戦場で闘い続けている。たとえばこのわたしだ。わたしは、ガルーが決起した、その第一夜から、この闘いに関わっている……」  ノリスは、�火星人�と言わず、自分たちのことを�ガルー�と呼んだ。  それを聞いて、回りにいた戦士たちが、いっせいに意味ありげに鼻をうごめかせた。  しかし、リーマーには、その笑いの真意が全く分からなかった。  ノリスは、リーマーの身体から手を離し、老ガルーに目くばせした。 「長老、では、あのドヌスに対する攻撃を開始してよろしいですね?」 「ああ……奴等が気づかんうちに、手早く片づけてくれ。まかせたぞ、ノリス」  老ガルーが答えた。 「攻撃? 攻撃だと!? いったい、どうやって……いや、待て! それでは約束が違う。おまえたちは、我々を無事に帰すと約束したではないか!? それを……我々を捕えたままで、攻撃だと?」  混乱したリーマーが、わめく。 「確かに、我々は、おまえたち三人の命を保証した。それに、ロード……その少将ドノの無事も約束した。それは、守る。だが、我々は、他の将兵の命まで助けると言った覚えはない。それに、我々は、どうあってもドヌスをあのまま放っておくわけにはゆかぬ。おまえたちが言う通り、確かに、あの母艦は、我々の未来にとって致命的な力を秘めている。だから、我々は、ドヌスを破壊する!」  振り返ったノリスが、そう宣告した。 「ば、馬鹿な! 狂っている……いったい、どうやって、あのドヌスと闘うつもりだ!?」  リーマーはなおも食い下がる。 「もちろん、このガーディアンのビーム砲とミサイルを使ってだよ……」  ノリスは当然だと言わんばかりに、とぼけた顔で瞬《まばた》きした。 「そうだろう? 少なくとも、太陽系で、あのドヌスを一撃で屠《ほふ》る能力を持つ戦闘宇宙艦はこのガーディアンしかない。他の方法があるのなら、教えてくれ」  ノリスがうそぶいた。 「はっ! わははははは……」  突然笑い出したのはカドだ。 「なんと! おかしいじゃないか! �心を開けば、全てが聞こえる�とか何とか、たいそうなことをほざいていた割には、こんな大切なことも分かってはいない。やはり、獣は獣だ。よし、かわいそうだから教えてやろう! このガーディアンの中枢部は、もはや全て凍結されている。もう誰も、この艦《フネ》を動かすことはできんのだ。我々がそれほど愚かだとでも思ったのか?」  カドは、また腹をかかえて、わざとらしく高笑いした。  しかし——  ノリスは、そんなカドを完全に無視した。  そして、戦闘艦橋の前部にある指令コンソールに近づいた。 「J5−0010−MG……」  ノリスは一連の数字をつぶやき、それをコンソールのキイに打ち込んだ。  途端、すべてがよみがえった。  死んだように光を失っていた指令コンソールのディスプレイが、いっせいにまたたきはじめたのである。 「う、嘘だ! そんなはずはない……嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!……」  リーマーが狂ったように叫びはじめた。 「リーマー! これはいったい、どういうことだ!?」  カドの目が、眼窩《がんか》から飛び出しそうに見開かれた。 「どういうことだ、だと? どうもこうもあるまい」  せせら笑うように答えたのはノリスだ。 「J5−0010−MG……中枢コンピュータの作動コードさ。それを入れたから、コンソールが蘇生《そせい》したまでのことだ」 「あり得ない! 我々ですら知らないコード・ナンバーを、こんな、こんなガルーが知っているはずはない。嘘だ! これは、なんかの罠《わな》だ。絶対に、そんなはずはない!」  リーマーがわめいた。 「おまえの知らないことを、この俺が知っているのが、そんなに気に食わないのか? だから、言ったろう、俺は、おまえなどよりもずっと昔から、この戦場に身を置いている、と……」  ノリスは言った。そして続ける。 「いいか、教えてやろう。ガーディアンほどの艦の場合、通常、船体よりも先に、まず中枢部コンピュータがビルドされる。むしろ、中枢部に、その端末としての各種艤装や武装、外殻を取りつけてゆくと言った方がいいくらいだ。現代の、高度に自動化された戦闘艦は、ほとんどが、こうした概念で建造されるようになっている。というのは、今や宇宙艦の良し悪しは、全体の構成よりもむしろ、その中枢制御の可否にかかっているからだ……」  ノリスは鼻の頭にしわを寄せ、コンソールに片手をのせた。 「そこで、だ……宇宙軍内にはいつか、こんな伝統が生まれていた。それは、中枢部の能力設定にたずさわった責任将校が、栄誉として、その作動コードを好きなナンバーで作製できる、というものだ。そして多くの将校は、おおむね、自分の認識番号を、作動コードとして記憶させた………」 「わたしも軍人の端くれだ。それくらいのことは知っている。だが、なぜ、ガルーが、そんな軍内部の事情を知っているんだ!? しかも、ガーディアンのコードまで正確に……」  呆気にとられて、リーマーが訊く。  しかし、それには答えず、ノリスは続けた。 「我々は、おまえたちが、中枢部を休止させてしまったことを、その直後に気づいた。それは、我々にとっても、非常にまずい事態だった。我々は、地球人が、自分たちの旗艦を事実上完全に放棄してしまうことになるそんな手段には出るまい、と予測していたのだ。だが、その時、俺は心を開き、この艦の能力設定者がマルク・ゴゼイであることを知った。そして、マルク・ゴゼイの認識番号を、俺はかろうじて覚えていた。そこで早速、我々は艦中央のコンピュータ・セクションに下りて、そのナンバー、J5−0010−MGを試してみた。思った通り、中枢部はすぐ再作動した。だが、それを悟られてはいけないので、我々はこの艦橋のコンソールを本体から切り離して、休止状態のままに置いておいたのだ。おまえたちは、見事にだまされていた、というわけだ」 「なぜだ!? なぜ、ガルーのおまえが、少将の認識番号を知っていた!? なぜだ……」  激しい混乱と苦悩に、リーマーの顔は歪んでいた。全身をぶるぶると震わせている。 「それは、俺とマルク・ゴゼイが知り合いだったからさ。そう……一時は、友人のように付き合っていたこともある。彼の死を知った時、俺たちは皆、我を忘れるほど驚いたものだ」  ノリスが言った。すると、回りのガルー戦士たちが、また、いっせいに笑った。 「でたらめだ! みんな、何もかも、でたらめだ!」  しかし、そう叫ぼうとするリーマーの声には、すでに力がなかった。 「ノリス、説明はそれくらいで充分だろう。ともかく、ガーディアンは、我等が手に落ち、そして完璧に制御されている。そろそろ、ドヌスに引導を渡してやるべき時間だ。敵もそろそろ、こちらの様子が普通でないことに気づきはじめるだろう」  ノリスの長口舌が一段落したところで、老ガルーが静かにそう言い渡した。 「分かりました、導士。それでは、攻撃開始をコンピュータに指示します。現在、ドヌスと本艦の距離は約三千メートル。少し接近し過ぎているようです。少なくとも、十五キロ以上離れないと、ドヌスが一度爆発した際、こちらが、大被害をこうむる危険性があります。ですからまず、囮《おとり》の連絡艇をドヌス前方の空間に射出し、それを追ってドヌスが充分本艦から遠ざかったところで、ビーム砲の一斉射撃を加えます。よろしいですか?」  コンソールのアウトプットを読みながら、ノリスが訊く。 「もちろんだ。この艦《フネ》は、君にまかせてある。好きなように、思う存分闘ってくれ!」  老ガルーは力強くうなずいた。 「ふん! なぜ今さら、ガーディアンの被害を気にする必要があるんだ!? どうせ、この艦は、あと二十時間で、火の玉となって消滅する運命にある。自爆装置のロックは、絶対に掛け直しがきかない。せっかく、太陽系最強の戦闘艦を手に入れても、それが自爆してしまったら、もうおまえたちに勝ち目はないんだ。地球には、新造中の母艦が、まだ二隻もある。つまり、おまえたちが火星ではしゃいでいられるのも、その母艦が完成し、回航されてくるまでの間だけということになる。その時、おまえたちには、我々に対抗できるものは何ひとつ残されておらん。もはやトリックもきかない。地球人も、これだけ振り回されては、もはや問答無用で、この火星を灰にすることだろう。まあ、この艦と同じことだ。限られた猶予期間を、せいぜい大切にすることだ」  長い棄て台詞《ぜりふ》を吐いたのはカドだ。  彼もまた、リーマー同様、ある種の虚脱感に襲われているらしかった。  床にべたりと坐り込み、憎悪のこもった眼で、コンソールのキイを操作するノリスをにらみつけている。  だが、彼等地球人の間に、どこか晴れ晴れとした気分がただよっているのも、また事実だった。  彼等は皆、胸のうちで、敗北は今日が最後だと確信していたのだ。  今日を境に、地球人は、火星という惑星に完全な見切りをつけられる。  もはや、火星人を名乗るガルーと、何かを争い合う必要はなくなったのだ。  彼等はただ、火星と、そこに住む薄汚い生き物を抹殺するだけでよかった。  しかも、地球人がそれを決行する時、作戦を妨害し得る力は、ガルーたちにないはずだった。  ガーディアンさえ自爆してしまえば、火星人の手に残るのは、地上戦闘用の大小火器、それに、鹵獲した連絡艇や揚陸艇がせいぜいだろう。  地球人は望むままに惑星間を遠征して、火星を死の世界に変えることができる。  だが、ガルーたちは、やがて核弾頭によって灼きつくされる火星の地表から逃げ出せはしないのだ。  地球人は何の危険もなしに、この憎んでも余りある生意気な奴隷を、この宇宙から消滅させることだろう。  そんな思いが、共通に、地球人たちの胸にあった。 (終った……全ては、終った……だが、この苦い記憶を、我々はいつか忘れ去ることができる。忘れて、そして一からやり直すことも可能だ。しかし、ガルーどもにとって、もはや未来は閉ざされた……)  カドは、目を宙にさまよわせながら、そう思った。 「連絡艇、発進します!」  カドたちの乗船するはずだった連絡艇が、今、無人のまま、宇宙空間に射出されたのだ。  地球人たちはぼんやりと目をあげ、予定の軌道をはずれて、暗黒の宇宙空間に飛び去ろうとするオレンジ色の連絡艇を、モニターの画像上に認めた。 「ドヌス、移動開始! 連絡艇を追って軌道から離れます」  今までのところ、何もかもが、ガルーのシナリオ通りに運んでいた。  戦闘母艦ドヌスは、射出された小艇に、ガルーの人質だった国際経済開発委員会《C・I・E・D》総裁が乗り組んでいるものと信じ込み、大慌てで追跡に移っていた。  ガーディアンとドヌスの距離が、見る見る開いてゆく様子を、戦闘艦橋のディスプレイがはっきりと教えていた。  このまま状態に変化がなければ、三分二十秒後——ドヌスはガーディアンのビーム砲に射抜かれて、そこでかりそめの太陽となって輝きわたることだろう。 「しかし、そこまでだ……あと二十時間……今度は、ガーディアンがドヌスの後を追って宇宙の塵《ちり》となることだろう……」  リーマーは、自分でも気づかずに、ひとり言をつぶやいていた。  その彼に、ノリスが振り返った。 「艦長、実は、あんたをもう一度、失望させなくてはならないのだ……」ノリスは言った。 「……あなたは、確かに、このガーディアンの自爆装置の安全《セイフテイ》ロックを解除した。その手順には、何の誤りもなかった。ただ、あなたは知らなかったんだ。俺が、あんたの作業前に、J5−0010−MGで中枢コンピュータの凍結を解き、そこに、自爆操作演習のプログラムを入れておいたことを……まったく、見事な迫真の演習だった。いつかは俺が、そいつを手本にさせてもらう時がくるかもしれない」  ノリスの声は優しかった。  しかしリーマーは、もう、ノリスの言葉を聞いていなかった。  彼の全ての知覚は、はるか幼児期にまで退行し、心の奥底に、固く固く閉じこもってしまっていたからだ。 「……さあ、もういいだろう……」  老ガルーが、両足と尾を交互に使って、ゆっくりノリスのかたわらに歩み寄った。 「……今、我々は、歴史のはざまにいる。ひとつの終りと、始まりの瞬間の、ちょうど真中に立っている。そのことを、我々は知っている。この次の瞬間に訪れる未来こそが、歴史の主人公を決めるのだ。そのことを、知っているのは我々だ。だからこそ、我々はためらうことなく、人間どもから、その歴史のたづなを奪いとらなくてはならない。今が、ついに、その時なのだ……」  老ガルーは、静かに語った。 「さあ、ノリス……その役割を果たすのに、君ほど適確な存在はあり得ない。そうだろう……今、歴史の舞台を回せるのは、ノリス、君をおいて他にない……」  そう言って、老ガルーは言葉を切った。  戦闘艦橋は静まり返った。  ただ、艦の奥深くから響いてくる主機関の鈍い唸りだけが、未来への秒読みを続けていた。  その時だ。  突然、入信のブザーが短く三度鳴った。 「……こちら、ドヌス……ガーディアン、聞こえるか……どうした!? 何があった?……このつまらない小細工は、どういう意味だ?……答えろ! 答えるんだ。いいか、今から十分以内に、残りの人質全員を解放すること。十分以内に、全員を乗せた連絡艇を発進させろ!……」  スピーカーから流れ出す声の主は、慌て、そして焦っていた。  総裁等、人質一行を乗せるはずの連絡艇が無人であったことの意味を計りかねながら、そこに明らかな挑戦を感じとったのだろう。 「……聞こえるか! いいな、十分以内だ。もし、それが果たされない場合には、我々にも決心がある。ついさっき、地球の軍司令部から、新しい指示が届いた。人質の安全よりも、艦隊の安全を優先せよ、という指示だ。我々は、それに従う。十分以内だ! 十分たっても反応がないなら、我々は、人質を犠牲にしてでも、新しい処置を講じなくてはならない……」 「地球人も、ついに、本気で決意をしたようじゃないか……」  老ガルーが、他人ごとのように楽しそうな声で言った。 「まあ、しかし、それも遅すぎたというわけですよ、導士……」  ノリスが答えた。 「……十分後、たとえ連絡艇がガーディアンから発進しても、それを収容すべき相手は、この宇宙から消滅していることでしょう……」  言って、ノリスは、大きく息を吸った。 「目標は、捕捉中の戦闘母艦ドヌス……一番、二番、三番砲塔、攻撃準備せよ!」  どこかから、艦内の空気を細かく震わせて、識閾ぎりぎりの低音が響いてくる。  と、きっかり二秒後、コンソールのディスプレイに、�装填《そうてん》完了�の赤い文字が浮かび上がり、そして明滅した。 「……ガーディアン! 聞こえるか? こちら、ドヌス……」  再びスピーカーが吼《ほ》えた。 「……何だ!? 何があった!? そちらの砲塔が右方向へ旋回しているぞ!? どうしたんだ!……ガルーたちは、どうなった!?……艦長、リーマー艦長! 聞こえるか!?……答えてくれ! 自力で、やつらをやっつけたのか? 見えるぞ! 砲塔の回転が、こちらからはっきり観測できる。やったんだな!? リーマー艦長……よし、すぐに、こちらから応援を送る……」  ガルーどもに、戦闘艦の運用ができるはずはない、と信じきっているドヌスの指揮員は、ガーディアンの砲塔の動きを、人質からの合図だと思い込んだようだ。  通信者の声が、にわかに喜色を帯びる。 「……待ってろ! すぐに、迎えに行く! よく、やった! まったく……」  ノリスは、艦橋右手のスピーカーを、ちらりとにらんだ。  そして素気なく言った。「全砲塔、撃て!」  軽く、艦全体がゆらいだように感じられた。  続いて、灼けた鉄板にこぼした水が沸騰する時のような音が、伝わってきた。  そして、すぐに熄んだ。  ドヌスに向けられているスクリーンの全てが、次の瞬間、純粋な白い光によって覆いつくされた。     3  火星の夜に、突然、ひとつの太陽が出現した。  驚き見上げる者たちの頭上で、それはますますふくれ上り、白熱光によって、夜のすみずみまでを照らし出した。  だが、火星人たちは、すでにそれが、自分たちにとっての自由の松明《たいまつ》であることを知っていた。  歓喜の波動は、一瞬で火星世界をひと巡りし、昼の世界にいる火星人たちの心をも揺り動かした。  それはまた、秘界の奥深くにも届き、数万年の眠りをむさぼる大いなるものたちの夢を、輝かしい色彩で飾った。  波動は、さらに広がった。  それは宇宙空間を越え、太陽系の知られざる存在の心をも震わせた。  それは、また、地球へと伝播《でんぱ》して、ある生き物には不安を、ある生き物には希望を、そしてある生き物には力を与えた。  波は広がった。  そして、広がったと同じように、強く脈打ちながら、返ってきた。  それは、祝福の波動となって、火星人たちの心を満たした。  火星の平原という平原、盆地という盆地、峡谷という峡谷、山という山に、疾駆し、跳び、躍る火星人の姿が見られた。  ただ少数残された基地内に潜む地球人たちは、本能の最も深部をその波動によって攪乱《かくらん》され、激しい恐怖に捕われて、それぞれの神に祈り続けるのだった。  その太陽は、正確に三晩の間、火星の夜を照らし続けた。  勝利と、そして未来の栄光に酔った火星人たちは、その間、全ての戦闘を中止した。  もはや、彼等にとって、対等に闘うべき相手は存在しなかった。  その後の戦闘は、まさに狩りのようにして行われる他ないだろう。  火星人たちはそれを知っていた。  そして、そのように一方的な闘いを、彼等は好まなかった。それは無用の、正義とは呼べない闘いだ。  火星人は銃を肩から降ろし、降下してきてはすぐさま人間を詰め込んで大気圏外に逃走してゆく揚陸艇や輸送艇を、ただ、そのままに見送った。  その昼夜を分たぬ三日間の撤収作戦によって、残留地球人の七割近くが、火星を離れていった。  さらに、その後の二日間で、残りの五割が脱出した。  その他、どうしてもこの地を棄てたがらない地球人が若干、各地に取り残された。  彼等の中には、この新時代に火星人と地球人の橋渡しとなり、歴史に名を残そうと夢見る野心家や、あるいは単に、この火星の風士に激しく魅せられ、ここに骨をうずめる決心を固めている人間、さもなければ、さまざまな事情によって、地球へ帰りたくないか、帰れない人間などが含まれていた。  だが、彼等の多くは、その後二年以内に、大半が死ぬか、殺されるかすることで、火星の土に還っていったのだった。  戦闘母艦ガーディアン艦内には、この時まだ、四人の地球人と、十数名の火星人がいた。  彼等は一夜、奇妙な酒宴をいっしょになって催していた。ただひとり、精神に変調をきたしてしまったリーマー艦長の姿だけはそこにない。  地球人の投げやりな罵声、それに、火星人たちの歓声と高らかな合唱が交錯した。 「くそったれめが! これで勝ったなどと思うなよ!」  泥酔して怒鳴っているのは、ハミル元帥だ。  その様子には、かつての上品な、軍部高官の面影はまるでない。  のび放題の無精ひげが、なおさらに彼の悲劇的変貌を彩っていた。 「まあ、そうやって待っていろ! あと一年、いや四か月もすると、新鋭の宇宙艦隊がこの火星へと殺到してくる……そうさ、こんな母艦一隻で防ぎきれるものか! まず最初の血祭りはおまえたちだ。そして続いて、ガルーどもが皆殺しにされるんだ。そうさ、これだけは、はっきりしている! 動かしようのない未来ってやつだ! ハハ……きまっている。ひとり残らず、だ。それも、できるだけ残酷な方法で……ハハ、ハハハハハハ……そうでしょう、総裁! きっと、そうなるんだ!」 「やめたまえ、見苦しい!」  たしなめたのはカドだ。さすがに、彼だけは、何とか平常心を保っている。  ともかく、明日まで耐えればいい。  明日になれば、ガルーたちは連絡艇を用意し、近傍で警戒に当っている軽武装の補助艦へと、彼等四人を送り届けると約束していた。  カドは、ガルーたちの言葉を信用していた。  なぜなら、こうなった以上、彼等がカドたちをここに引きとめておく理由は全くなかったからた。  そこへ、艦内の視察からもどってきた老ガルー、即ち導士と、若い戦士ノリスが加わった。  彼等の目には、等しく、自信と希望、未来に対する確信の色があった。  カドには、それがまぶしかった。  彼は思わず顔をそむけた。  しかし、ハミルは、彼等を見て、またいきり立った。 「こ、この、奴隷どもめがァ! 今のうちだ、今のうちだけだ! すぐに、わしは帰ってくる。この火星へ、新しい艦隊をひきつれて帰ってくる。そして、おまえらを皆殺しにしてやる。ああ、そうしてやるとも。……それが恐ろしければ、今、ここでわしを殺せ! だが、たとえ殺されても、わしの恨みは消えん。亡霊となって、おまえらにとり憑《つ》いてやる! とり殺してやる!」  ハミルはすでに、ひとりで立ち上れないほど酔っていた。  彼は床を這いずり、汚物を吐き散らしながら、なおもわめいた。  その様子を、導士とノリスが、無言のまま見下ろしていた。 「むごいぞ、むご過ぎる……」  ついにたまりかねたのか、カドが、導士に食ってかかった。 「なぜ、こんなにまでして、我々を辱めなければならんのだ。もういいだろう! 確かに我々は、文字通りの捕虜だ。だが、捕虜にも尊厳というものがあるはずだ。これではまるで、獣以下の扱いではないか!? 頼む、このハミルだけでも、部屋に退らせてやってくれ!」  カドは懇願する口調になりながら、ちらりともうひとりの地球人、ロード少将に視線を走らせた。  ロードは、壁際に背をもたせかけ、独り、黙々と杯を口に運んでいる。 「この、恥知らずめ! 貴様のような奴、見るだけで反吐《へど》がでる! いいか、ガルーだけじゃない。貴様もきっと、わしがこの手で八つ裂きにしてくれる。貴様など、ガルー以下の人間だ! 忘れるな、必ず、殺してやる!」  また、ハミルが暴れ出した。 「カド総裁、何を言ってるんです。こんなになるまで飲んで欲しいと頼んだ覚えはない。我々はただ、独立を祝う酒宴に、かつての好敵手として、人類の代表として、三人を招いただけだ。そして、あなたたちほど、それにふさわしい人間は他にいない」  ノリスが言った。 「我々をこんな目に合わせて、いったい、何が狙いだ? そうか、分かったぞ! 我々を酔いつぶしておいて、また、心の中をのぞいているんだろう! そうやってまた、人間の弱味を握ろうと考えているんだな? 何て奴等だ! 見かけばかりか、心の中まで薄汚い、腐り切った獣どもだ!」  今度は、カドまでがわめきだした。 「自分の心すら開けぬ哀れな動物たち、地球人……」  ゆっくりと話しはじめたのは老ガルー、導士だ。 「自分たちで勝手に酔いつぶれ、それでも本性を見られるのが、それほどにつらいのか……まあ、いい。せいぜい、そこでお互い傷つけあい、あるいは、自分で自分の傷をさらに深くすればよかろう。我々には、どうしてやることもできん」 「帰してくれ! 帰してくれるだけでいいんだ! 早く我々を、人間の世界に帰してくれ!」  カドは叫んだ。  そして叫ぶことで、ついに精神の殻が破れた。  うつむいたカドの喉の奥から、嗚咽が洩れはじめた。  それはすぐさま、号泣に変わった。  そのかたわらでは、汚物にまみれたハミルが、いつまでも吼え続けている。  その二人を、呆けたような無表情で見つめながら、ロードは水のように酒を身体に流し込んでいた。  その光景は、まさに地獄だった。 「それが、人間だ……分かるか、ノリス。どうだ、決心はついたか……」  ささやくように、導士が言った。 「……導士……俺は今も感じています。大勢の声が、俺たちを呼んでいる……そう……俺たちの歓喜の波動が、宇宙に広がり、そして返ってくるのが感じられます。その返ってきた声は、俺たちを求め、呼んでいる……」  ノリスの目は、すでに地球人の醜態には向けられていなかった。  彼の視線は、はるか遠く、そしてはるか未来を見つめていた。 「決心がつけば、それでよし……また、決心がつかなくとも、わたしはノリスを、これっぽっちも責めはしないだろう。決心がどうあれ、ノリスは、まちがいなく我等火星人の英雄だ。その名は、あの秘界に眠る大いなる心が目覚める時までも、きっと語りつがれるにちがいない……」  導士は、ノリスと同じく、宙を見つめて、つぶやいた。 「……呼んでいる……地球の生き物たちが、我々を呼んでいます……我々、火星人の歓喜を自分たちのことのように喜び、祝福し、そして、我々を呼んでいる……」  ノリスが、切れ切れの言葉を、喉の奥から洩らし続ける。 「そうだ、ノリス……もっともっと心を開けば、さらに遠くからも声が聞こえる。この太陽系を越えてなお、広がってゆく波動が見える。我々を生んだ運命の秘蹟《ひせき》が、実は、注意深く我々を見つめるものの意志であることが分かるはずだ。我々に、運命を自ら切り拓く力があるなどと思い上ってはいけない。我々はただ、与えられた運命の中で、ただひたすら走り続けるだけだ。しかし、すでに走り続ける力もない哀れな者たちもいる……我々がやろうとしていることは、決して彼等の運命をくつがえす行為ではない。彼等の閉ざされた運命、閉ざされた未来が見えるからこそ、その苦しみを、少しばかり早く切り上げてやるだけだ。そう……それにしか過ぎん……」  導士の声がさらに細くなり、そして消えた。 「導士……」  ノリスの力強い尾が、ゆっくりと持ち上げられ、そして、ひとつの決断となって振り下ろされた。 「俺は行きます。この無敵の戦闘艦を指揮して、地球へ向かいます」  ノリスは低い声で、しかしはっきりと、そう言い切った。 「俺を呼ぶ声がある……それを聞かないふりをして生きることはできません。俺は、俺は行って、この艦《フネ》の力を試しましょう。新しく地球人たるべく運命づけられた彼等のために……」  ノリスはその時、なぜ自分がこの宇宙に生まれ落ちねばならなかったのかを、疑いようのない明晰《めいせき》さで認識した。 (地球では、彼等が俺を待っている……身を潜め、人間の目を避けながら、運命の日、新しい地球人となるための日を待っている……) 角川文庫『火星人先史』昭和59年9月25日初版刊行